第二章 カミングアウト・クラレス

 授業後、僕は走らない程度に急いで、中庭の噴水の前に来た。

 噴水は中庭の中央にある。

 そこからあたりを見回す。


 中庭は、ほとんどが緑の芝生。中央から離れたところに、高さ五メートルのユズリハの木が三本。それらは互いに間隔をあけて立つ。

 そのかげも調べてみたが、ソーラの姿はなかった。


 まだ彼女は来ていないようだ。

 僕はブリーフケースから懐中時計を取り出して時刻を確認する。


(正午まであと二分か)


 時計を片手に持ったまま、目の前の噴水を見つめる。

 魔法で水を噴出させる、石造りの装置。それは光沢のある銀色の石だ。


 高さは四メートル。とんがり帽子の先端を八つに切り裂き、それぞれを放射状に少し広げたあと、各先端を上から見て時計回りにねじって倒せば、同じかたちになるだろう。そうして新たに出来た八つの先端から、水がうねりつつ出てくる、という設計だったらしい。


 現在は水が出ていない。

 これでは、ただのオブジェである。

 そのオブジェの周りを、背もたれのない石造りのベンチが輪のように囲んでいる。


 とんがり帽子のつばを伸ばしたうえで、そのつばのふち全体を内側に折り込めば、やはり同じ形状を再現できる。

 おそらく噴水の考案者は、リング状のベンチの内側に出来たスペースを、水をためるプールとして利用するつもりだったのだろう。


 僕はオブジェに背を向けて、ベンチに腰を下ろした。ひんやりした石の感触がスーツパンツ越しに伝わってきた。

 ブリーフケースをひざに置き、再び時計の針を見る。


(約束の時間まで一分を切った)


 すでに多くの学生が授業を終え、中庭に集まり始めている。

 魔法の練習をする者。芝生に寝転がる者。持ち込んだ昼食をとる者。雑談に興じる者。さまざまだ。

 おそらくこのなかには、ハフルのように午後から授業を受ける学生もいるのだろう。


(あと三十秒)


 秒針を目で追いつつ、僕は彼女が来ない可能性も考えた。


 しかし正午まで残り十秒になったところで、時計の上に影が落ちてきた。いったん秒針から目を離して前を見ると、そこにソーラ・クラレスが立っていた。


「待たせてごめんなさい、アロン・シュー」

「いや、ジャストだよ」


 針がちょうど正午を指すのを確認して、僕は時計をブリーフケースにしまった。


(でも一瞬、別人が来たかと思った)


 きょうのソーラの服装はワンピースではなかった。

 ノースリーブの白ブラウスに、群青色のフレアスカート。ブラウスはタートルネックで、スカートは彼女のひざが隠れるくらいの長さ。

 さらに黒のローファーとハイソックスを組み合わせており、きのうとはずいぶん雰囲気が違う。


 髪型もツーサイドアップではない。

 今の彼女は自身の黒髪を結んでおらず、リボンといった髪飾りも、つけていない。

 ただ、腰まで届きそうなスーパーロングと、右肩にかけた淡い黄色のかばんと、レモンの香りと、赤い大きな瞳はきのうと同じだった。


 彼女はベンチを見下ろしたあと、僕の左隣に少し間隔をあけて座り、こちらのスーツ姿を上から下まで観察する。

 彼女の視線に気付いた僕は、ジャケットのすそを軽く引っ張った。


「ああ、これね。僕はスーツを複数、持っているんだ。きのうぼろぼろになったぶんとは別のやつだよ」

「そう」


 すずしい声を返しながら、ソーラはベンチのふちをなぞる。


「ところであなたのスーツの弁償の件だけど、今度ふたりで学園の外に行きましょう。服の修理が得意な魔法使いのお店があるの。あなたのスーツも元どおりにできると思う」

「それは助かる」


 僕は中庭の学生たちに目を向けつつ答える。

 彼等の視線を感じる。

 こちらを見ているのは、おそらく、クールビューティーとして人気の高いソーラ・クラレスを慕う者たちだ。


 横目で、僕は左隣の様子をうかがう。

 ソーラは黙ったまま、かばんのひもに指を這わせている。

 彼女も人前でアリアンの話題を出す気はないらしい。後日、別の場所で話すつもりなのだろう。


 なんにせよきょうのところは、そろそろ切り上げたほうがよさそうだ。

 しかし僕が口を動かそうとした瞬間、彼女の赤い瞳がきらめいた。


「次の休日は、あいてるかしら」

「予定はないよ」


「じゃあその日、午前八時に正門で。ぼろぼろのスーツ一式も持ってくるのよ。外出許可の申請も忘れずにね」

「わかった」


 僕はブリーフケースを持ってベンチから立ち上がる。

 そのときだった。


「待って」


 ソーラが小声で呼びとめた。

 声に反応して、僕は再びベンチに腰を下ろす。


「なに」

「気付いてるかしら、アロン。今のわたしたち、けっこう注目されてる」

「君を慕う学生たちか」


 僕も彼女に合わせて声を低くする。


 気付けば、中庭の芝生にいる者たちのほとんどがこちらを見ている。露骨に僕たちのほうに顔を向けているわけではないが、魔法の練習をしながら、寝転がりながら、昼食をとりながら、雑談しながら、ちらちら瞳を動かしている。


 僕たちの座るベンチのあいたスペースにも、すでに数人が腰を下ろし、やや間隔をあけたところからソーラと僕の様子を観察している。


「これだと今後、学園内で会いにくいね。やつをさぐっていることをみんなに知られれば、捜索は難しくなるし」


「ええ。中庭だけじゃなく教室棟の廊下の窓からも、こちらを見ている人がいるわ。待ち合わせ場所を考えなおしたほうがよさそうね。とはいえ、何回もカディナに行けば不審がられる。だからといって頻繁に外出許可をとって、学園外で密談するのも現実的とは言えない」


 ソーラは僕を見ず、フレアスカートに目を落とす。やや猫背の状態のため、髪の一部がスカートの上に垂れている。その状態で、彼女が言葉を続ける。


「だから今後あなたと協力していくためには、みんなの関心を無関心に変換する必要があるのよ。それで露見のリスクをかなり減らせる」

「君への関心はなかなか消えないと思うけど。ソーラ・クラレスはクールビューティーでとおっているから」


 ひざに置いたブリーフケースを見つめながら僕は打開策を考える。


「図書館内の自習室で会うのは、どう? 個室に近いところもあったはず」

「だめよ。注目度の高いまま二人でそこに入っていけば必ず見られる。あの自習室、犯罪防止のために鍵をかけられない構造になっているの」


「それじゃ、うつ手がない」

「わたしもここまで視線が集中するとは思わなかった」


 彼女はわずかに黒髪を揺らした。


「あなたと会う場所にまず中庭を選んだのは、学生の多く集まるここでわたしたちへの注目度をはかって、今後の動きの参考にするためだったのだけど。裏目だった」

「時間を正午に指定したのも、あえてみんなの目にさらされるためか」


「そうよ、わたしは不毛なことはしない。でも安心してちょうだい。策はあるわ。想定以上に注目されてしまったのなら、この状況を利用するまで」

「どうやって」


「あなたは、もう知っているはずよ。わたしへの関心を失望へと確実に塗り替える、わたしにしかできないたった一つの方法を」

「まさか」


 僕には思い当たるふしが一つあった。

 ソーラは自身の黒髪に右手を置き、上目づかいで不敵に笑った。


「一緒にいるあなたも巻き添えを食うかもしれないけれど、いい?」

「僕に聞く必要はないよ。『それ』は君のものだから」

「わかってるじゃない」


 ソーラは背筋を伸ばした。

 そして両手を額の上に持っていき、左右の小指を黒髪の生え際に当てた。そのまますっと、手を後ろに動かす。髪全体がその動きに合わせて位置をずらし、彼女の頭から離れた。


 一瞬だった。


 彼女はとくに立ち上がったわけでも、みんなに呼びかけたわけでもない。ごく自然な所作の一部として、それをおこなった。


 中庭の学生たちの動きが、とまった。

 言語化できない声を漏らした者もいた。

 教室棟のあいた窓からも、動揺のざわめきが落ちてきた。

 さきほどまで見ていなかった者さえも、彼女に視線を向けている。


 そこにいる全学生のまなざしが、二つのものに集中する。


 一つはソーラの左右の手にかかえられた、スーパーロングの黒髪のかつら。その毛の一本一本が、彼女のひざをおおう群青色のフレアスカートにこぼれていた。


 もう一つはソーラ自身の頭。

 頭頂部にも後頭部にも側頭部にも毛がまったくない。

 白くて傷一つない、張りのある透き通った頭皮。

 それが正午過ぎの日光を反射して、きらめく。


 ここで彼女はおもむろに、自分のかばんに手を入れた。ハンカチを取り出し、それを使って頭の汗を入念にふく。


「気持ちいい」


 ちょうど彼女の口からその言葉が飛び出した瞬間だった。

 みんなは一斉にソーラの頭と、かつらの黒髪から目をそらした。


 各自は、また雑談を始め、昼食を再開し、魔法の練習を続行する。

 数十秒後、僕とソーラを除き、石のベンチに座っていた者たちが別の場所に移動した。


 教室棟の窓からの視線も消えた。

 もうソーラを見ようとする者は、ほとんどいなかった。それでも目を向けてくる学生はいたが、彼等も、せいぜい二秒未満の凝視をおこなう程度である。


 そんな周囲の反応をじっくり観察してから、彼女は黒髪をかぶりなおす。


「意外。笑われるかと思ったのだけど。ま、実際は、こんな微妙な反応になるわよね」


 ベンチに座ったままソーラは上体をそらし、後ろのオブジェを見た。


「ともかく策は成功のようね。みんな幻滅したことでしょう。今ここにいない学生にも、うわさが広まる。これで、わたしが誰と話していようが関心を寄せてくる人はいなくなった。あなたとも学園内で堂々と会えるわ」


 彼女の前髪が後ろに倒れ、生え際があらわになる。

 黒髪の毛先が地面につきそうだ。

 僕は声をやや大きくして、なんとなく自分のウルフカットをさわった。


「とめなかった僕が言うのもなんだけど、本当によかったのか」

「当然」


 ソーラは姿勢を戻し、もう一度、背筋を伸ばした。


「まさかわたしが目的のために仕方なくやったとでも思ってるの? 見当違いよ、それ。わたしは前から、こうしたかった。つるつる頭を隠したままだと、蒸れたときにきついし、自由にかつらも変えられない。わかる?」

「全然」


「それに、このスーパーロング、元々わたしのじゃないもの。なのに、まるでわたしから生えたものであるかのような顔をしてみんなにこの髪を見せるのは、なんか嫌だった」

「そっちは少しわかる」

「なにより、わたしはわたしの頭を誇りに思ってる。なんで隠さなきゃなんないの」


 こう言って彼女はベンチから勢いよく立ち上がった。


「じゃ、またね、アロン。約束は忘れてないでしょうね」

「次の休日、午前八時に正門で。ぼろぼろのスーツと外出許可の申請も忘れずに」


 そんな僕の返答に彼女はうなずき、ワープを連続させて中庭から姿を消した。

 ソーラが通り抜ける際、近くにいた学生たちがびくりと体をふるわせるのが見えた。


* *


 このあと僕は教室棟を出て、西にある購買部でサンドイッチを買って食べた。

 食事中、イートイン用のスペースで、学生同士のひそひそ話が聞こえた。


「知ってる? ソーラ・クラレスさん」

「あの、かっこいい黒髪ロングの人だよね」


「実は彼女、かつらだったらしいの。いや、嘘じゃないわ。わたし、この目で」

「え、本当なの。それって、? かわいそう」


 ソーラが想定するような失望や幻滅があるかは定かでないが、少なくとも今後しばらく学生たちは彼女と一定の距離を置くだろう。


(そろそろ午後の授業に向かうか)


 僕は教室棟に戻った。三階に上がり、倫理学の教室に入る。

 広さは世界史で使った教室と同じである。


 室内を見回した僕は、赤いツイストパーマを見つけた。

 それは僕の学友、ハフル・フォートの髪で間違いない。

 ハフルも僕に気付いたようだ。机にひじをついた状態で手招きしている。


 僕がハフルの隣に着席するや、彼は座っている椅子を僕のほうに近づけた。そのとき彼はカーペットが傷つかないよう、きちんと椅子を持ち上げて運ぶことを忘れなかった。


「聞いたぜ、アロン。中庭のこと」


 口角をひかえめに上げ、ハフルは僕の肩に右手を載せる。

 彼はカーキ色のブーツをはき、薄い青のシャツに紺のオーバーオールを重ね、その上に乳白色のカーディガンを袖まくりにして羽織っていた。


 なにを話すべきか僕は迷い、言葉につまった。対して、彼は青い目を細める。


「いいんだ」


 ハフルは、自身のブーツを互いにこすり合わせた。


「無理に、はき出すことはないさ」


 こちらの肩に手を置いたまま首を横に振る彼。その表情を僕は見る。


「ありがとう、ハフル。ただ、口元がゆがんでるような感じもするけど。口角が微妙につり上がって、ふるえているというか」

「あ、いや、これは」


 彼は目をそらしつつ自分の口の二つのはしを左手の親指と人差し指で押さえた。


「おまえの心中を察して、口元が、そう! いろんな感情でいっぱいいっぱいなんだよ。断じて笑いをこらえてるわけじゃねえからな!」

「君の場合は本気で言ってそうだね」

「ともかく俺は、もう、せんさくしねえ。きのう興味本位でいろいろ聞いちまったのも悪かったな。ただ」


 ハフルは僕の肩から手をどけて、椅子を持ち上げ、元の場所に戻した。


「笑い話にしたいときは遠慮すんなよ。一緒に笑ってやる」


 それから彼は倫理学のテキストをかばんから取り出し、めくった。


 中央の教卓のそばには、すでに先生が立っている。

 ボブカットに切りそろえたダークブラウンの髪。紫のローブ。緑の瞳。


 メアラ・サイフロスト先生だ。


 ファカルオンに所属する魔法使いの教師たちは、じかに学生の魔法を見てくれる。しかし彼等の仕事はそれだけではない。魔法の研究に加え、一般教養の授業もおこなう。


「倫理は、さびていくものです」


 サイフロスト先生は教卓に指をすべらせながら、その周りを歩く。

 さすがに研究室にいるときとは違って、ぶかぶかの靴下で動き回りはしない。

 現在、先生は黄土色の革靴をはいている。


(とんがり帽子もかぶっていないし、今朝とは雰囲気がずいぶん違う)


 例のけだるげな感じはどこに行ったのか、凜とした声音が僕たちの耳に届く。


「かつて魔法使いの道は血統によって決まると思われていました。しかしレザウェルの革命後はそれも否定されました。のちに、魔法使いの血ではなく純粋な能力のみに着目するのも一種の差別主義ではないかという論調も生まれました」


* *


 このように僕たちは、先生たちから授業を受けたり魔法を見てもらったりしながら、学生生活を送っていた。


 そうして時間が過ぎていき、いよいよ次の休日を迎える。


「午前八時、正門」


 その日、ソーラとの約束を復唱しながら僕は起き、寝巻きから黒いスーツに着替えた。

 腰のベルトに三色の巻紙をくくりつけるのも忘れない。


 続いて、ぼろぼろのスーツ一式をクローゼットから取り出す。傷だらけの黒靴をシューズラックから抜き取る。それらを黒いガーメントバッグに収納する。

 ベッドに寝転がったままのハフルから「今度はスーツ大事にしろよ」と声をかけられたので、「だいじょうぶ」と僕は返しておいた。


 食堂で軽い朝食をとり、男子寮から出る。

 その際、寮長にも話しかけられた。


 彼は一階のホールにしつらえてある紫のソファに腰かけていた。格好は相変わらずの燕尾服で、ふちなしの丸めがねを手で押さえながら新聞を読んでいる。


「はしゃぎすぎないように」


 紙面から目を離さず、寮長はそう言った。


 寮生が学園外に出るには、学園長・担当教員・寮長全員から外出許可をもらう必要がある。

 ファカルオンは全寮制なので、これはすべての学生に適用される。

 僕は数日前に外出許可を申請した。すでに寮長にも、学園外に出るむねを伝えてある。



 その寮長にあいさつしてから、僕はホールをあとにした。

 男子寮から出て右に曲がり、ガーメントバッグを手に提げたまま、灰色の砂利道を西に進む。

 道沿いのユズリハの影を踏みながら、学園の西にある正門を目指す。


 なお、ファカルオンの西側にも壁が設けられている。高さは三メートルほど。厚さは二メートル。カディナ砂漠を囲う壁と、ほぼ同一の規模の壁。しかしこちらの壁は、より強い閉鎖魔法でおおわれており、砂どころか虫の一匹さえ通さない。


 僕はその壁の前まで進んで、砂利道を左折する。

 壁のそばに木は立っていない。その壁際の道の片側だけに、ユズリハが植えられている。

 継ぎ目のない白い壁に沿って、僕は南に歩いていく。



 右手に正門が見えてくる。

 壁を横に十五メートル取り除き、そうして出来る左右のはしに白い大理石の円柱を立て、その上部を同質の素材でアーチ状に結べば、正門の見た目となる。


 ソーラは、向かって右の円柱の近くにたたずんでいた。


「きょうは五分前に来たわよ、アロン」


 レモン色のかばんから懐中時計を取り出し、彼女は言った。

 水色のゆったりした半袖のチュニック。乳白色のキュロットスカートは、ひざを隠さない程度の長さ。白いサンダルに素足を通し、赤いベレー帽を斜めにかぶる。


 それが現在のソーラの服装。しかし僕はむしろ「髪」のほうに注目した。

 現在の彼女の髪は黒ではなく、輝くような銀だった。眉とまつげも銀色に変わっている。

 鎖骨にふれるくらいの銀髪が、内側に緩くカールしている。


「もうわたしの頭のことをみんなに隠す必要がなくなったもの。これからは自由に髪を交換して楽しもうかなと思ってね」


 ちなみに彼女は中庭での一件のあと、担当教員から、すごく心配されたらしい。


「自暴自棄になったわけじゃないと、わたしもちゃんと説明した」


 ベレー帽に手を添えながらソーラは話す。


「だったら今回のことは尊重するって先生は理解を示してくれた。でも、ほかの学生がそれでいじめてきたらすぐに伝えてとも言われた。あれ以降、わたしへの視線は減ったけれど、今のところ、からかったりする人はいないわ」


 ソーラは微笑し、吐息を漏らした。

 それから僕の提げているガーメントバッグをちらりと見て、正門に目を移す。


「まあそんなことは、いいとして。早くあなたのスーツを直しにいきましょう」

「ああ、そうしよう」


 僕は彼女の視線を追い、あらためて正門の様子を確認する。

 ファカルオンの正門に扉はない。しかし閉鎖魔法がおよんでいるため、許可なく通り抜けようとしても、見えない壁に、はばまれる。


「すみません」


 僕たちはあごを上げて、大理石のアーチに呼びかけた。


 アーチの上に、寝転がっている者が二人いる。

 彼等は学園の警備員であり、ローテーションで門番を務める。

 一人が上体を起こし、僕たちの前に落ちてきた。


 彼に外出許可証を見せ、閉鎖魔法を一時的に弱めてもらう。そうして僕たちは学園の正門を通過した。


 振り返ると、横長の白い壁の上にユズリハの緑の葉が帯のように広がっていた。

 ファカルオンの敷地内には多くのユズリハが植えられている。ほとんどが十メートルを超す高さだ。

 学園内の建物はその緑にまぎれ、壁の外から全容を把握しづらくなっている。


 ただし学園の中央にある「塔」だけは例外だ。

 塔は、空を垂直につらぬく。高さは千メートルと言われる。

 透明塔と呼ばれるそれは名前のとおりに透明だ。光を反射しており、意外と目立つ。


「さっさと行くわよ」


 ソーラの声を聞き、僕は体の向きを戻す。

 正門から外に向かって、レンガで舗装された道が延びる。

 道の左右は薄緑の草原で、目立ったものはない。


 色あせた赤いレンガを踏んでいく。緩やかな坂を一歩一歩のぼる。

 学園を出てからしばらく経ったあとで、ソーラが口をひらく。


「誰もいないわね。今のうちに話しましょうか」

「ああ、『鏡の巨像』アリアンについて」


 僕は振り返らず、彼女の右斜め前を歩く。


「といっても、お互いに手がかりがないんだっけ」

「アロンのお父さんの形見、虹巻紙の特徴は? アリアンがそれを使ったなら証拠を残しているかもしれない」


「虹巻紙の力は『具現』だ。詳細は僕にもわからない」

「そう」


「やつに盗まれたっていう、ソーラのお母さんの遺髪は?」

「絶大な魔法の力が込められてるわね。じゃないと、『自分の遺髪をアリアンにだけは渡すな』と言い残した母の真意がわからなくなる」


「どうも、ひっかかる。アリアンがその強大な力を手に入れたとすれば、それ以降、彼が鳴りを潜める必要はどこにもなかったはず。でも実際は五年前から『鏡の巨像』は、なにも盗んでいない。そういえばソーラのお母さんの遺髪が盗まれたのも、五年前なんだよね」

「案外、母の遺髪を取ったことで自責の念にかられたのかも」


「もしそうなら、遺髪を君に返していると思うけど」

「アリアンが死んだ可能性は?」


「ないね。巻紙は使い手が息を引き取った場合、自分の力で次の所有者候補のもとに飛ぶ。その際、新たな所有者になりうるのは、巻紙魔法と縁の深い人物。祖父がひいおじいちゃんから巻紙を受け継いだときも、そうだったらしい。つまり」

「本当にアリアンが亡くなっていたら、巻紙を三つもあやつれるアロンのもとに虹巻紙が戻ってきてるはずってことよね」


 それから彼女は黙った。僕も沈黙して、レンガの道を踏み続ける。

 お互い、なにもしゃべらず、前に進む。


 が、次の瞬間、彼女の足音がぴたりとやんだ。

 僕が振り返ると、ソーラはベレー帽に右手を当て、銀髪を揺らしていた。


「だったら、アロンがいなくなれば」


 彼女は、僕の腰にくくりつけてある三色の巻紙を指すように、右肩を突き出した。


「あなたの巻紙は、虹巻紙の現在の所有者であるアリアンのもとに飛んでいく可能性が高いわね」

「そういう理屈になるけど、なにが言いたいんだ」


 僕も歩みをとめた。つま先を彼女のほうに向け、目を合わせる。

 ソーラは白い歯を見せ、サンダルで足下のレンガをたたく。


「――あなたには消えてもらうってことよ」

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