番外編 夜明けを待つ音
夜の底は、いつも静かだ。
風の音も、人の声も、遠く霞んでいく。
それでも、世界は確かに動いていた。
自分だけが、その流れの外に取り残されている。
そんな気がしていた。
あの夜、彼女――紗月と出会うまでは。
雨の音に混じる、小さな嗚咽。
傘を差し出したとき、彼女の指先が震えていた。
その温度を感じた瞬間、自分の中で止まっていた時間が動き始めた気がした。
“生きていた頃”に感じていたものが、一気に戻ってきた。
体が軽くなるような、痛いような、不思議な感覚だった。
誰かに触れられるということが、こんなにも“存在”を確かにしてくれるなんて。
俺がこの場所に縛られている理由は、もうわかっていた。
後悔だ。
何も言えず、何も残せず、ただ消えてしまったこと。
それがずっと、胸の奥に残っていた。
昼の光を見ることができなかった。
まぶしすぎて、怖かった。
生きている人たちが歩くその中に、自分の居場所はなかった。
けれど、彼女といる夜は違った。
彼女の声は柔らかく、心の奥に灯をともすようだった。
彼女の孤独が、自分の孤独と重なっていく。
そしてその重なりが、なぜか心地よかった。
彼女が笑うと、空気が少しだけ暖かくなる。
彼女が泣くと、胸の奥が痛んだ。
――ああ、自分はまだ“人”の形をしているのだ。
そう感じられる時間だった。
彼女の部屋の灯りを、遠くから見ていた夜がある。
窓のカーテン越しに、青白い光が漏れていた。
机に向かい、ペンを動かす姿。
疲れて、顔を伏せて眠ってしまう姿。
そのどれもが、愛おしかった。
彼女は気づいていなかったかもしれない。
けれど、彼女の周りには、確かに“光”があった。
夜の中でも、彼女だけはずっと、昼のほうを見ていた。
俺が惹かれたのは、その真っ直ぐさだったのかもしれない。
だから、俺はもう彼女に夜を残していきたかった。
暗闇の中にも優しさがあると、伝えたかった。
夜明けが近づくにつれ、自分の輪郭が薄れていくのが分かった。
それは恐怖ではなく、静かな安らぎだった。
ようやく終わるのだと思った。
けれど同時に、もう一度だけ彼女に会いたかった。
最後の夜、ファミレスで向かい合ったとき、彼女の瞳に自分の姿が映っていた。
その瞬間、息をすることを思い出した。
生きていた頃よりも、ずっと生きていると感じた。
「海斗さんは、昼が苦手なんですか?」
そう訊かれたとき、少しだけ迷った。
本当のことを言えば、彼女が遠くへ行ってしまう気がしたから。
けれど、彼女の瞳がまっすぐで、逃げ場をくれなかった。
「昼を見るのが、怖いんです。……自分が、もうそこにいない気がして」
言葉がこぼれた瞬間、胸の奥が軽くなった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと微笑んだ。
その笑みは、まるで許しのようだった。
夜が終わる。
空の端が白み始める。
光が少しずつ差し込んで、街の輪郭を染めていく。
彼女の顔にも、その光が落ちた。
涙を拭おうとした俺の指先が、もう届かない。
透き通って、風のように揺れる。
――ああ、これでいい。
俺はもう、彼女の世界の一部になれた。
夜を恐れないように、光を見上げられるように。
それだけで十分だった。
「また、夜に会いましょう」
最後に言えた言葉は、それだけだった。
けれど本当は、もっとたくさん言いたかった。
ありがとう。
あなたがいてくれてよかった。
俺を思い出してくれて、ありがとう。
その全部が風になって、彼女の頬を撫でていった。
光が世界を満たしていく。
空が明るくなり、音が戻ってくる。
鳥の声、人の足音、車の音。
それらすべてが、まるで祝福のように聞こえた。
最後に見えたのは、彼女が空を見上げる横顔だった。
その頬に、確かに笑みがあった。
もう、俺が導く必要はない。
彼女は自分で、昼を見上げていける。
胸の奥で、静かに呟いた。
――「おはよう、紗月」
世界が完全に白く染まった。
それは消滅ではなく、帰還だった。
夜の影が昼に溶けていく。
もう恐れはなかった。
光の中で、誰かの声がした。
それは彼女の声だった。
“海斗さん、今日の昼もきれいですよ”
笑ってしまう。
まるで夢みたいだ。
でも、それでいい。
俺の夜は、彼女の昼の中で、生き続けるのだから。
――夜明けを待つ音が、静かに鳴り終わった。
夜しか会えない彼が、壊れた私の心を少しずつ癒していく 洸夜 @kouya0729
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