最終話 昼に還るひと
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
その眩しさに目を細めながら、紗月はゆっくりと体を起こした。
時計の針は八時を指している。
休日の朝。
いつもより少し遅い時間に目覚めたのに、心は不思議と軽かった。
机の上には、あの小さなメモが置かれている。
――「やっと、昼がきれいだと思えた」
何度も読み返しても、文字は薄れない。
まるで海斗の声が、紙の繊維の奥に染み込んでいるようだった。
彼がいなくなって、数日が経った。
けれど、喪失感よりも先に世界の色が変わった。
同じ道、同じ風景。
それでも、ひとつひとつがやけに鮮やかに見える。
昼の光が、もう痛くない。
むしろ優しい。
――「君が昼を好きになってくれたなら、それでいい」
あの言葉が、胸の奥に灯り続けていた。
紗月はベランダに出た。
冬の名残が薄く残る風が、頬を撫でる。
青空の下で、洗濯物が静かに揺れている。
その動きが、生きている証のように思えた。
スマホのカメラを起動し、空を撮る。
レンズ越しの青は、どこまでも澄んでいる。
写真を保存してから、タイトルをつけた。
――「昼に還るひと」
撮った空の中に、海斗がいる気がした。
それは形を持たない存在。
でも確かに、彼の温もりがこの光のどこかに残っている。
もし海斗が本当に夜の影の中にいたのなら、その“影”に触れた自分もまた、少しだけ夜を抱えているのかもしれない。
けれど、もう怖くはなかった。
夜を知ったからこそ、昼がどれほど美しいかを知ったのだから。
午後、街へ出た。
久しぶりにメイクをして、お気に入りのイヤリングをつけた。
ショーウィンドウのガラスに映る自分の顔は、どこか明るく見える。
以前のように無表情ではない。
人混みの中を歩きながら、ふと視線の端に見覚えのあるカフェの看板が映った。
「CAFE LUNA」
足が止まる。
でも、今度は迷わなかった。
扉を開けると、昼下がりの柔らかい光が店内を満たしている。
あの夜の静寂とは違う、穏やかなざわめき。
ミルクフォームをかき混ぜる音、コーヒー豆の香り。
どれも現実的で、生きている音。
カウンターの奥に、新しい店主らしき男性がいた。
紗月に気づくと、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。初めてですか?」
紗月は首を横に振る。
「いえ、前に一度だけ来たことがあって……」
「そうですか。じゃあ、おかえりなさい」
その一言に、胸がふっと温かくなった。
――おかえり。
たったそれだけの言葉が、こんなに沁みるなんて。
席につき、カプチーノを頼む。
カップの表面には、泡で描かれた小さな月の模様。
あのときの夜の名残を思わせた。
ふと、隣の席に目を向ける。
そこは、あの夜に海斗が座っていた場所。
椅子の背には、淡い陽光が射している。
その光が、人の形を取っているように見えた。
――見えているのは幻かもしれない。
けれど、心が確かに“誰かがいる”と感じている。
それだけで、十分だった。
「海斗さん、今日の昼もきれいですよ」
小さく呟いた声は、泡の弾ける音に紛れて消えた。
でも、窓際の風鈴がふっと揺れて、優しい音を鳴らした。
海斗が返事をしてくれたような気がした。
帰り道、街の喧噪を抜けると、空が茜色に変わっていた。
昼と夜の境界が混ざり合う瞬間。
そのグラデーションの中に、彼の笑顔が滲んで見えた。
――「君が光の中にいられるなら、それでいい」
その声が、どこからともなく響いた気がした。
紗月は立ち止まり、空に向かって微笑む。
「うん。私は、もう大丈夫。あなたがくれた夜があるから、いまは昼がこんなに綺麗です」
頬を撫でた風が、どこか懐かしい匂いを運んできた。
それは、あの夜、傘の下で感じた匂いと同じだった。
やがて、街の灯りがひとつ、またひとつと点き始める。
夜が来ても、もう怖くない。
だってその夜の向こうに、きっとまた朝がある。
そして、昼が待っている。
紗月は小さく息を吸い込み、歩き出した。
夜へではなく――昼の方へ。
家に着くと、部屋の窓から月が覗いていた。
雲の切れ間から見えるその形は、まるで笑っているようだった。
机の上のメモを見つめ、ペンを取る。
新しい一行を書き加える。
――「あなたがくれた夜を、抱いて歩いていく」
その文字を見つめながら、紗月は静かに目を閉じた。
心の奥で、昼と夜が静かに溶け合っていく。
もう、境界はどこにもなかった。
外では、夜風がやさしく揺れていた。
その音が、まるで“おやすみ”の声のように聞こえた。
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