第6話 葛原けい子(その2)

 業平はふと視線を上げ、写真集を閉じると、静かに口をひらいた。


「抜き乱る人こそあるらし白玉の

 間なくも散るか袖のばきに 在原業平」

(『古今和歌集・雑歌上』)


「うわ、出た……いきなり古典和歌……」とけい子が眉をひそめる。


 すかさず、まちこが前に出て訳す。


「けいちゃんへの言葉だよ——」


「『気持ちが乱れているそなたの心は、白玉のように真っ直ぐで、 その涙が袖を濡らすほど純情なのだ』……って」


「な、何それ! アンタそんなこと言ってんの!?」


 けい子は真っ赤になって業平を睨んだ。


業平は「そうとも」と言わんばかりにうなずく。


 在原業平がそう告げた瞬間、狭い木造本屋の空気がピリッと張り詰めた。写真集を机に置いた業平は、現代の女子高生たちを静かに見渡した。


「先鋒は——葛原けい子」


「……は?」


 けい子は、聞き返すというより“受け止めきれない”という顔をした。


「あ、あたしぃ? なんで? こういうのは雑魚でいいじゃん、雑魚で!」


「雑魚!? 俺!?」柳棚が涙目で抗議する。


 しかし業平はふわりと袖をはためかせ、和歌を詠んだ。


「大原や小塩の山も今日こそは

 神代のことも思ひ出づらめ 在原業平」

(『古今和歌集・雑歌上』)


「出た……和歌爆弾……」とけい子が一歩のけぞる。


 すかさず翻訳係・小野まちこが前に出る。


「えっと……業平先生はこう言ってるんだよ」


 まちこは紙を持ち直しながら訳す。


「『次の戦いは神代の戦いのようだ。お前ならば荒ぶる先陣を任せられる』……らしいよ」


「……あたしが“荒ぶる先陣”?」


 けい子は唖然としたが、よく考えてみれば自覚はあった。


 自覚はあるが、言われるとムカつく。


「アタシのどこが荒ぶってるってのよ!」


「全部だよ」まちこは微笑んだ。


「でも、だから先生はけいちゃんを選んだんだよ。 “切り込み隊長”にね」


「切り込み隊長……」


 その言葉を口にした瞬間、けい子の胸の奥が少し熱くなった。


 柳棚国男は隅で「俺は雑魚……雑魚か……」と膝を抱えていた。まちこたちは柳棚本屋を後にして、白百合学園に向かった。


柳棚はちゃぶ台に突っ伏し、明日の練習試合を思いながらうめいていた。


「俺……勝てるのかな……」


 すると業平がふと現れ、短く一首を詠む。


「人知れぬ我が通い路の関守は

 宵々ごとに うちも寝ななむ 在原業平」

(『古今和歌集・恋歌三』)


  柳棚はしばらく考え、ハッとした。


  “関守”とは自分の弱さ、怖さのことだ。明日の相手は自分自身の不安だと気づく。


「……なるほど。弱さを怖がってちゃダメだな。俺の声を、歌を、信じるんだ」


 震える手で短冊を握りしめ、柳棚は静かに決意した。


 業平は黙ってうなずき、微かに微笑む。


(——これでいい。あとは、自分で戦うだけだ)



 翌日、校門の前で先鋒に抜擢されたけい子と対面した柳棚は、心の中で静かに自分に言い聞かせた。


(さあ、神代の戦いを始めるか……)


 けい子は校門前で拳を握りしめた。先鋒として戦う覚悟が、体の奥から湧き上がる。


(——怖い。でも、逃げない。あたしが切り込むんだ。仲間を信じて)


 深く息を吸い、心を落ち着ける。その思いを短歌に託した。


「五月の鷹は我が胸を裂き飛び立つか 影は光のきずな風立ちぬ 葛原けい子」


 一方、柳棚は部室の隅で、自分の弱さを見つめていた。


(——俺は雑魚だ。怖い。でも……逃げたくない。仲間のために戦うんだ)


震える手で短冊を握り、心を落ち着ける。自分の声、自分の歌を信じる。


「吾(あ)の不安いだきてなお絆あり頼みの仲間声をそろえて 柳棚国男」


五月の光は淡く、だが二人の心には確かな熱が宿っていた。


(——これでよい。自分自身を信じ、仲間を信じ、戦う時)


けい子は先鋒として歩みを進め、柳棚もまた次に戦う自分を想いながら静かに決意を固める。


二人の短歌が、互いの背中をそっと押していた。勝敗は葛原けい子の圧勝だった。しかしそれでも柳棚国男は満足していた。


「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 

 我が身一つは もとの身にて 在原業平」

(『古今和歌集・恋歌五』)


 けい子が横で首をかしげる。


「……先生、また古典和歌ですか?」


 まちこは少し離れた机から静かにメモを取りながら、笑みを浮かべる。


「業平先生の歌はね、今の私たちのことを詠んでるんだよ」


 けい子が眉をひそめる。


「え、私たち? どういう意味ですか?」


 まちこがゆっくりと説明する。


「『昔の春とは違うけれど、今の春もまた大切だ』って意味かな。つまり、生徒たち一人一人が成長していることを、先生は喜んで見守っているんだと思う」


 業平は静かにうなずく。窓の外、五月の光がけい子の髪を金色に染めていた。


「……なるほど。私たちの成長を、先生は春の変化みたいに感じてるのか?」


 けい子は業平の和歌を理解し、目に少し光が宿る。


(ChatGPTによる、一部添削やどかり、和歌は『在原業平』(コレクション日本歌人選004)から

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