第3話 小野さくら

 小野まちこたち一行は介護ホームに到着した。在原業平は(記帳しなければならないのに住所不定ではと思ったが、ペンを渡すと達筆な文字でさらさらと書くのだが、誰も読めなかった)、来客ということにして、祖母・小野さくらに会いにきた親戚とした。

 車椅子で出てきた祖母は痛々しいと感じてしまう――痴呆症で追い出したのが小野まちこの母だったからである。まちこはそんな母をフォローするように祖母に会いにきていた。(お小遣いも貰えるし)。


 小野さくらのうしろで車椅子を押しているのは、柳棚国太郎だった。柳棚国男の祖父である。小野さくらと柳棚国太郎は犬猿の仲と言ってもいい。さくらは短歌の先生で、俳句をやっている柳棚国太郎とはいつも口論になるのだ。それなのに二人ともにこやかだった。


(柳棚の爺さんもここに入れられたのか?)そう、まちこは年寄はどこも邪魔ものなんだと思った。


「おばあちゃん、元気だった?」


「どうしたんだい、今日は。そのうしろにいるのは顧問の先生かい?」


「違うんだけど、ちょっと困っているの」


そのとき、いきなり在原業平が歌いだした。


「すみわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿もとめてむ」

(都に飽きたので、田舎を旅してたら迷子になっちゃって)


 まちこは驚いて業平の前に立ちはだかった。


「ああ、懐かしい。それは在原業平の歌ではないですか。女学生の頃、年上の人に重ねて業平歌集を読んだりしてましたわ」


「爺さん、季語がないな。『すみわびぬ』は古語としていいですが、ちといいすぎかな。宿なしということかな?」と、柳棚の爺さんが言う。


「あんたは黙っていなさい。この人はうちの孫娘の顧問なんだから、下手な俳句評はよして下さいよ。この歌は在原業平がつくった名歌なのですよ」


 それを聞いて柳棚の爺さんは体を縮めていた。


「おばあちゃん、柳棚さんの言うことは半分あたっていて、この人はいま住む家がないの」


「ほれ、みろ! わしの言うことは間違ってないじゃないか」


 それを聞いて祖母は顔をしかめた。しかし、すぐに明るい声で、


「柳棚さんのところは、あんたがここに来たから部屋が空いているのでは? それにあんたの孫(柳棚国男)も歌をやるとか?」


「あの馬鹿息子(柳棚国男)は、女々しい女の尻ばかり追いかけおって」そう言って、私の顔をジロリと見た。


「まちこはあんたの孫なんかに惚れません! せめて相聞歌を交わす相手でなくては」そう言って、歌を高らかに詠んだ。


「おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつせなれば」

(馬鹿話ばかりで泣きたくなるわ! わたしの怒りは沸騰しそう)


小野さくらが歌をくちずさむと、すかさず在原業平が答えた。


「桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに」

(さくらさん、老いて散っていく、そのはかなさは美しい)


小野さくらは、自分のことを歌ってくれたと思い感激して歌を返す。


「わびぬれば身をうきくさのねを絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」

(つらすぎて、こんなところにいられないわ。どこか遠いところへ連れてって)


さくらの心に、青春の緋寒桜が咲き始めていた。


 二人が和歌で会話している間に、小野まちこと柳棚国太郎の間で在原業平の住む手配は決められていた。

 そして小野さくらは、彼女の短歌協会にも顧問として業平を推薦するというのだ。とんとん拍子に業平の落ちつく場所は決まってゆく。

 そして小野まちこの顧問にまでなろうとは、誰が予想したであろうか。


 そんなさくらに焼き餅を妬いてか、柳棚国太郎は話をまとめて、部屋に戻る時間だと告げる。


「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」

(夢だと思いつつ、目覚めたらもうあの人と別れなければならない)


小野さくらは女学生の卒業式に、恩師との別れを想い涙した。


「から衣きつつなれにしつましあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」

(わたしも、なじんだ着物のように別れが辛いぞ。しかし、これも旅だからなあ)


 用件が済むと、柳棚国太郎は小野さくらを部屋に帰そうと車椅子を押した。

 今生の別れのように、祖母と業平爺さんは和歌を交換しあったのだ。


 とりあえず業平爺さんの住む家は決まったわけだった。

 そして、本当に我が短歌部の顧問になるとは、誰が想像しただろうか。

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