第2話: 幻惑と不信 - 消えた警察官
朝のホームルームは、いつになくぴんと張り詰めた空気に包まれていた。
紅咲先生の声が、いつもよりも幾分か緊迫した響きを帯びて教室に広がる。
「……おはようございます、皆さん。今日は皆さんに、いくつか注意喚起があります」
その声色に、私のまどろんでいた眠気はわずかに引っ込んだ。
先生は黒板に目をやりながら、生徒たちを見回す。
「最近、この周辺で不審者の目撃情報が多数寄せられています。特に、夕方以降の一人歩きは控えるようにしてくださいね」
私の隣の席の友達が、うんざりしたように小さく呟いた。
「また不審者かあ……」
私も同感だった。このところ、毎日のように不審者情報が校内放送で流れている。
紅咲先生は続けた。
「それから、最近流行している『ダアマン教団』という団体の勧誘にも注意してください。安易に連絡先を教えたり、話に乗ったりしないように。学校でも警戒を強めていますが、皆さんも気をつけてくださいね」
その時、教室のドアが勢いよく叩かれる音がした。教頭先生が厳しい顔で入口に立っている。
「静かに! 紅咲先生の話をよく聞くように!」
生徒たちのざわめきがすっと収まる。教頭先生はいつも厳格だが、その奥底には生徒を案じる気持ちが透けて見えるようだった。
再び静けさの戻った教室で、紅咲先生はゆっくりと締めくくった。
「何か不安なことがあれば、すぐに先生か、保護者の方に相談するようにしてください。いいですね?」
「はい!」
生徒たちの声が重なる。私も気を引き締め、わずかながらの緊張感を胸に抱いた。
放課後。西日が赤く廊下を染める中、私は一人、帰路を急いでいた。部活動をしておらず、特別な用事もない。特別なことといえば、母が韓国に単身で旅行に行っていることくらいだ。商店街の福引で当たったらしい、今日の夕食は冷凍食品で期待できないなぁ……美味しいけど。
いつも通りの、何気ない日常のはずなのに、あんな事件があったのに帰っても家に一人だという事実に足取りは重く、胸の奥には得体の知れない不安が渦巻いていた。朝のホームルームで聞いた不審者情報や、あの「ダアマン教団」という物騒な話が、心に影を落としているのだろうか。何かが、どこかおかしい――漠然とした違和感が、全身を覆っていた。
通学路の公園を通り過ぎ、住宅街へと続く細い道に差し掛かる。いつもなら子供たちの声や生活音が響くはずのこの道は、今日に限って妙に静まり返っていた。まるで誰一人としていないかのように、人気がない。ふと、背筋に冷たいものが走る。嫌な予感がした。私の霊感が、何か不吉なことを告げようとしているのかもしれない。
「……誰もいない?」
周囲を見回すが、やはり誰もいない。私の気のせいだろうか。そう思いかけた矢先、背後からガサリと、乾いた物音が響いた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、黄色のレインコートを着た大柄な女だった。顔は深く被ったフードでほとんど見えず、その手に鈍く光る刃物が握られているのが、西日の残光に照らされて嫌にはっきりとわかる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。まさか、通り魔……?
女は怯えたような、しかしどこか異質な呻き声を漏らした。
「……ウ、ウウ……」
そして、その刃物を、私の方へゆっくりと向けてくる。恐怖で体が硬直し、足がすくんで動けない。
「ひっ……!」
私は一歩、また一歩と後ずさる。女はゆっくりと、しかし確実に私との距離を詰めてきた。このままでは、やられてしまう。そう本能的に悟った私は、足に全身の力を込め、無我夢中で走り出した。
「誰か! 誰か助けて!」
息を切らしながら、私は助けを求めて叫んだ。しかし、周囲には誰もいない。住宅街の静けさに、私の声だけがむなしく響き渡る。
その時、遠くから微かに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。希望の光だ。私は無我夢中でサイレンの方向へと走った。角を曲がったところで、一台のパトカーが停まっているのが見えた。そして、その横に、一人の警察官が立っている。
「警察官の人! 助けてください! 通り魔が!」
私の声に気づかないのか、警察官は微動だにしない。警察官の背後まで歩み寄り、話しかけようとした。
一瞬の出来事だった。警察官の首が、まるで大きな刃物で切断されたかのように、すとんと地面に落ちた。転がる警察官の頭、うっ血した目と目があってしまった。
「え……?」
信じられない光景に、私の思考は停止した。目の前で、人が……? 呆然と立ち尽くす私に、通り魔の女がゆっくりと近づいてくる。フードの奥で、その顔が不気味に歪んでいるように見えた。女は再び、意味不明な言葉を呟いた。
「……ふふ………いかない……」
「いやああああ!」
恐怖が限界を超え、私は叫び声を上げて、その場から逃げ出した。我を忘れて走り続け、通り魔の姿も見えなくなっていた、息も絶え絶えに自宅のドアに飛び込んだ。
震える手で携帯電話を掴み、警察に電話をかける。しかし、喉はからからに乾き、恐怖で声はひどく掠れて、まともに話すことができない。ただ、息を切らしながら、通り魔が、警察官の首が、と、それだけを伝えた。
数十分後。安立刑事と、別の男性警官が自宅にやってきた。私は、まだ震えが止まらない声で、さっき起こったことを必死に説明した。
「あの、その……通り魔に襲われて……それで、警察官の方が……私の目の前で、首を切られて、殺されてしまったんです……!」
しかし、私の言葉は信じてもらえない。男性警官は困惑したような表情で言った。
「立花さん。落ち着いてください。その……警察官の死体、というのはどこにも見当たりませんでしたが……」
安立刑事も、冷静な口調で続ける。
「そうだね、現場には血痕一つ残っていなかった。君が見たのは、もしかしたら幻覚だったんじゃないかな?」
安立刑事の言葉が、私の心に冷たい水を浴びせる。幻覚? 私が、この目で、確かに見たのに……。
「でも、私……本当に見たんです! 警察官が、通り魔に……!」
私は必死に訴えた。
男性警官は、私を諭すような口調で言った。
「しかし、そんなことがあれば通報があるはずだ。この辺りでそういった事件は何も報告されていませんよ。もしかしたら、連日の不審者情報のせいで、少し疲れてしまったのかもしれませんね」
安立刑事もまた、どこか困ったような表情で私を見つめている。私の言葉は、誰にも信じてもらえない。目の前で起こった現実が、ただの幻として処理されようとしている。
私の霊感は、時として普通の人には見えないものを見せてしまうことがある。だから、もしかしたら―ーあの警察官は、本当に霊だったのかもしれない。私の言葉に真実味がないと思われても、仕方がないのだろうか。だけど、あれはあまりにも現実的で、鮮烈な光景だった。
私の心の中に、今まで感じたことのない不信感が芽生え始める。私が信じていた常識や、社会の常識が、グラグラと音を立てて崩れていくような感覚。何が本当で、何が幻なのか。私は、いったい何を信じればいいのだろう……。
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