月に咲く

 鈴虫の声が聞こえる。

 私は縁側に座り、足をばたつかせながらそれを聞いている。

 人の声も聞えた。女の子の声だった。

「いい香りだね」

「そうだね」

 それに相槌を打つ自分。

「おかあが言ってたの、月に咲くんだって」

 庭に立つ木を指さしながら言っていた。

「月にお花が咲くの?なにそれ、へんなの」

「うーん、わかんない」

 他愛のない事に思えた。

 白昼夢の一つに過ぎないようにも思えた。

 だが、


「……というのは『存在する』、という言葉を使うときに、自分でいったい何を言おうとしているのかを、君たちならばずっと前からよく知っているにちがいないのだが……」

 学舎に響くつまらぬ高説が頭の中身をかき混ぜるようだった。

「……われわれの方では、一所でこそ、それが分かっているつもりだったのに、今となっては……」

 なんだ。この記憶は存在しないとでも言いたいのか。

 まったく、くだらない。

 欠伸を嚙み殺し、私は何とか現にしがみついていた。

 その頃の記憶はと言うと、風にたゆたう香気に負けず劣らず曖昧で、鮮明になりかけたかつての情景も色なき風に滲んでいった。それが何とも歯がゆかった。別に何か不便が生まれるわけでもないのだが、こうやっていつも講義の合間にノスタルジアに囚われるようではわざわざ上京した甲斐がない。

 にしてもだ。

「……」

 妙な夢を見ていたような気がする。

 その昔、「なぜ東京へ行かれるのです」と女中に聞かれたことがあった。なぜそんなことを聞くのかと、逆にこちらが尋ねたくなったが、「父がそう言うから」と適当に返しておいたのだ。

 彼女の言いたいことはわかっていた。

 家業を継ぐだけならばわざわざ東京へゆく必要はない、ということなのだろう。

 無論、私もそう思う。しかし父によれば

「ひとの上に立つ者として、お前は見聞を広めなければならない。それに、これからはそういう時代になるのだ」

 だそうだ。

 それほど大きな商事でもないのに、意識ばかりは一流だった。

 そんな愚痴を侍女にこぼす訳にもいかず、家のご意向ということにしておいた。実際そうだった。

 元々、うちは小さな商いだった。

 代々から続いているようで、お茶を専門に扱う田舎の問屋だったそうだ。

 それが明治になってから、つまり今の代になってから急に勢いづいたのだ。

「おーい、いつまで呆けてるか。もう講義終わっとるけん」

「……すまん、すまん」

 気がつけば講義が終わっていた。帰らねば。

「近ごろいつもそんな感じやな。それとも、おぼっちゃんにはつまらなすぎて堪えられんと」

「お前の方こそ、一言も言わずに行儀良く聴いてられるな」

「当たり前じゃ。聴いとらんけん。寝とる」

 丸眼鏡をかけた小うるさい男と、私は校舎を後にした。

 下宿屋は戸塚町にあった。学舎との兼ね合いでここに決まったらしい。

 下宿先は例の侍女が手配した。

「……」

「どうしたん?戸崎。まだ寝ぼけとんのか」

「いや、なんか変な夢を見ていたような気がしてな」

「ちゃんと寝とるか?ほら、あんまり現を抜かしてると、な」

 そう言った彼の視線を辿ると、我らの下宿の先に掃除をしている奉公の姿が丁度見えた。

「うるさい……」

 私の本当の気持ちなど、知らないくせに。

「おーい!」

 私を尻目に彼はその娘に声をかけた。

「あら、お帰りなさい」

 驚いたかのような大きい瞳に、秋の暮れが注していた。

「いってきたで」

「お疲れ様です」

 二人の間を抜ける風にまた、あの香りを感じた。

「……」

 やはり、そうだった。

 あの時の記憶。

 かつて屋敷に居た子供は私だけでなかった。だが束の間だったのか、記憶違いだと思うほど僅かなものだったのだ。

「ほら、戸崎さんも。夕餉の支度、できてますよ」

「ああ」

 なぜ直ぐに母親諸共消えたのか。

「……」

 私の父の性分を考えればそう難しい事ではない。

 例の侍女は娘を奉公に出し、すぐに戻って来たと言う。

 ここへ私をあてがったのは当て付けか。

 酷な事だ。

「そろそろ霜降ですね。ささ、入りましょ」

「……そうだな」

 その匂いを嗅ぐといつも昔の頃を想起した。甘くてやさしい香りだったが、少し切ない感じのする匂いだった。何か花の、何と言う花だったかは思い出せないが、昔の頃、私がまだ幼子だった時分よく嗅いでいた香りだったと記憶している。

 だが、その肝心の花の名前が思い出せないのだ。

 そう。

 月に咲く、その花の名前が。

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月に咲く 樫亘 @tukinoihakasa

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