月に咲く

樫亘

 その匂いを嗅ぐといつも昔の頃を想起した。甘くてやさしい香りだったが、少し切ない感じのする匂いだった。何か花の、何と言う花だったかは思い出せないが、昔の頃、わたしがまだ幼子だった時分よく嗅いでいた香りだったと記憶している。だが、その肝心の花の名前が思い出せないのだ。

 わたしがこの離れに居を移してから、丁度三回目の秋だった。仕事場へ向かう林道も、もう見慣れたものだ。

 両脇にそびえ立つ萱のなにがしも、去年のそれと何ら変わりない様子だ。空に浮かぶ鰯の曇も、遠くに見える野山の錦も、本当に何ら変わりなかった。

 だが、人はと言うと、そうはいかない。

 わたしが初めてこの景色を見た頃、つまり丁度三年前の事。十六の歳を迎えた事で、生活の変化を強いられた。

 なぜ歳を取っただけで部屋を追われなければならないのかと当時のわたしは思ったが、屋敷の御偉方に文句を言う訳にはいかないので仕方なく従ったのだ。

 曰く、「お前はこれから家族ではなく、働き手として画さねばならない」と言う事だった。

 わたしの母もこの商社で働いていた。

 母は昔、今のわたしと同じように離れに住んでいたらしいが、わたしが生まれてから部屋が足りず、仕方なく屋敷の一室を間借りしていたのだ。

 わたしが元を離れるまでという約束だったようだが、部屋が余っているのであればそのまま住まわせてくれても良いではないかと思う。それとも、これまでの住まわせて貰った優しさと見るべきか。

 結局、わたしもこの商社で働くこととなり、屋敷に通っている。母は今、家政婦として離れの方の管理をしている。もう屋敷では働かないらしい。

 わたしは他の商社を知らないので何とも言えないが、母へ待遇は随分と良いように思えた。それほど融通が通るものなのだろうか。

 そろそろ、屋敷へ着く頃だ。

 このお屋敷は問屋の頃の名残りのようで、商いを始めた時に建てたそうだ。それほど大きいものではないが、今では本社として使われている。

 わたしはお屋敷の前まで来ると、正面ではなく端の方に設けられた勝手口から中へと入った。小さな頃から言いつけられていた事だ。

 正面玄関は来客用との事だが、わたしが生まれて此の方それが使われているのは数える程しかない。西洋館の顔に相応しい壮麗な造りだが、誰もくぐろうとしないのは少し勿体ない気がする。

「お早うございます」

 勝手口の鍵を開けて入ると、誰もいるはずのない中へ声をかけた。

「……」

 ここで働く事になった時、それとなしに教え込まれた記憶がある。一番若い者が一番早く来るのだと。

 その暗黙の了解を、これまで一度も違えた事はなかった。早起きは得意な方だった。

 厨房に明かりを入れて、玄関ホールへと向かう。花瓶の水を入れ替え、次に上の階へと向かった。芥子赤の絨毯に、マホガニーの建具が良く映えている。わたしはこの空間が好きだった。このくすんだ色合いも、かつては鮮やかな色彩を放っていたのかと思うと、想像が膨らむのだ。

 廊下を渡りながらカーテンを放っていく。最後に応接間を整えて朝の支度は終わりだ。

 廊下の突き当りから階下へ戻ろうとした時だった。

「あっ」

 一室の扉が僅かに開いているのが見えたのだ。

「……」

 先程は暗くて気が付かなかったのだろう。

 少なくとも、わたしが朝の支度をするようになってからは、今までこのような事はなかった。

「どなたかいらっしゃるのですか」

 不用心かとも思ったが、これまでこの屋敷に物盗りが押し入ったという話は聞いた事がない。戸締まりもしっかりとなされていた。

 扉をそっと押し退けて中を覗く。

 カーテンの僅かな隙間から、陽が部屋を青白く照らしていた。入ってから気付いたが、ここは書斎であった。当主さまが仕事をなされる部屋だ。入った途端、このような部屋があっただろうかという違和感に苛まれたが、それもそのはずだ。わたしが滅多に立ち入る事はない。

 中央の長机に目が行った。漏れ日が射している。

 そしてそこへ置かれた紙切れにも自然と目が行った。

 これは……。

「それは写真という」

「わっ……!」

 唐突に声をかけられ、思わず飛び跳ねた。

「し、失礼いたしました。いらっしゃったとは、つい知らず」

「……」

 そこには、ソファに深々と腰掛ける当主さまの姿があった。葡萄茶の腰壁にすっかり馴染んでしまって、気が付かなかったのだ。

 わたしが直り頭を下げると、彼はスッと手を上げて「構わん」というふうにした。

「すまない、お茶を一杯頼めるかな」

「はい、かしこまりました」

 わたしはそそくさと部屋を後にし、厨房へと向かった。

「……」

 あの紙切れ。

 写真というのは知っていたが、あそこに写っていた人。当主さまの他にも何人か写っていたが、その内の一人にどこか見覚えがあった。

 湯を沸かし、真新しい茶葉を見繕って素早く書斎へと戻った。

「失礼いたします」

 カーテンが開かれ、明りのある書斎は先程とはまるで違う部屋かのような様相だった。

「ありがとう」

 先程までお休みになられていたからだろうか。声がいつもよりしわがれているように聞えた。

 テーブルの端に屈み、トレーを置く。温めたティーカップ、ポット、その上にティーコゼーを被せた。

 黙々と配置するわたしの動作を彼はずっと見ているようだった。

 最後に砂時計をテーブルに置き、わたしは立ち上がった。トレーを前に抱えて扉の横へ待機する。

 すると彼はこちらへ「ちょいちょい」と手招きし、わたしをソファへ促した。

「失礼します」

 わたしが腰掛けると暫く沈黙が続いた。

 彼は昔から無口な人物であった。

 落ちる砂が半分になろうかという時、漸く彼が口を開いた。

「いよいよ様になってきたな」

「ありがとうございます」

「母親にそっくりだ」

「はい、まあ……」

 それで思い出した。

 先程の写真、若い頃の彼の隣に立っていた人物。あれは恐らく若い頃の母だったはずだ。

「……」

 また、沈黙が流れた。

 彼は東京の大學を出た後、すぐさまこの商社を継いだと聞いている。その後まもなくして今の奥様と出会ったと。

 一方、わたしの母はここで生まれた後、しばらく奉公へ出てまたここへ戻ってきたと聞いている。

 二人の歳は近いが、昔に交流があったのだろうか。

「訊かんのだな」

「……え」

 瞬間、何の事だか分からず戸惑った。

 そして、徐に窓の方へ顔を向けて言った。

「昨日はここで寝過ごしてしまってな」

「そう、だったのですね。そろそろ霜降の時節になってまいりました。体調を崩されるぬようにお気を付けてくださいまし」

「……おかしな夢ばかり見てしまって、ろくに休めなかったよ」

 気が付くと、もう砂が落ちきる寸前だった。

「君の方はどうだね、近頃」

「ええ、まあ。お陰様で」

「そうか」

 わたしは躊躇ったのだ。それを察した彼が切り出した。

「始業まで、まだ少しある。ちょっと付き合ってくれんか」

「ええ、大丈夫です」

「本当におかしな夢だったのだ……」

 彼の子供じみた微笑みだったが、少し、目尻の皺が深過ぎた。

「先ずは、そうだな……」

 そう言うと彼は、おずおずと語り始めた。

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