第28話 覚醒――試される拳

 時を同じくして、上空を一羽の赤い鳥が旋回していた。

 赤い鳥の視線の先には、ケインと大猩猩の激闘が映っている。だが、それを見ているのは、鳥であって、鳥ではない。

 その瞳に映る戦闘の光景は、遠く離れたカフェの一席へと届いていた。

 椅子に深く腰を下ろしたトリニティ・バウマンは、仮面の目穴へ親指と人差し指で作った輪を軽く当て、まるで双眼鏡でものぞくかのように視線を遊ばせる。

 彼女の姿勢には緊張感など微塵もなく、ただ余興を楽しむ観客のような余裕だけが漂っていた。


朱剛あごうちゃん、負けちゃうじゃん~」


 茶化すように口元を歪めたトリニティが口にした名は、大猩猩を指していた。

 朱剛は彼女が自在に召喚し、使役している怪物の一体にすぎない。だが、数多の中でもとりわけお気に入りだ。

 建物を木端のように破壊する膂力、巨体に似合わぬ俊敏性、筋肉の鎧に包まれた耐久力――その力ゆえに、戦場に放てば、たいていの敵は絶望する。

 ペルニット町〈冒極〉支部支部長、ケイン・ニールデン。

 支部長として、長年の実戦を積んできたこともあるのだろうが、核心は別にある。

 ――あのグローブ。

 膂力を増幅させる魔道具であるのは疑いようがない。そこへ彼自身の魔力強化が重なれば、朱剛の怪力すら凌駕する。

 このまま戦闘が長引けば、劣勢に立たされるのは朱剛の方だ。


「彼の作戦には鍵人物キーパーソンだからね。仕方ないなぁ、てこ入れちゃいますか」


 彼――スティレオが描いた作戦図において、ケインは要となる駒だった。

 ゆえに、ここで敗北を許すわけにはいかない。

 トリニティの瞳からは、先ほどまでの軽薄さがわずかに薄れ、観察者としての冷ややかな色が覗いた。


「本気出していいよ、朱剛ちゃん」


 その言葉を合図に、トリニティの固有魔術が静かに発動した。

 気配も詠唱もなく、ただ「命じる」だけで力を与える――それが彼女の異能の一端。

 その効果は即座に現れ、鳥の視界に映る大猩猩へと伝播する。

 次の瞬間、朱剛の姿が変貌を始めた。




 突如、ケインの目前で大猩猩――朱剛が胸板を両拳で激しく打ち鳴らしはじめた。

 重低音の衝撃が鼓膜を震わせ、瓦礫に散らばった埃までも小刻みに跳ねる。戦意の誇示にしては異様に長い――そうケインが訝しんだ刹那、朱剛の巨体に変化が走った。

 黒ずんだ皮膚は内側から赤熱するように色を帯び、怒張した血管が浮き上がる。赤毛は一本一本が逆立ち、獣の輪郭をさらに荒々しく膨張させていく。

 空気そのものが震え、圧迫感が数倍にも膨れ上がった。


(何だ!?)

 

 明らかに、朱剛が各段パワーアップした力をまとった状況に、ケインは思わず戸惑いを浮かべた。

 だが、そのわずかな逡巡すら許さぬように、朱剛が咆哮とともに地を蹴った。

 巨体とは思えぬ速度で迫りくる影。

 ケインは瞬時に身構え、拳を突き出して迎え撃つ。

 両者の拳が激突した瞬間、爆ぜるような衝撃波が空気を裂き、周囲の建物が震動に揺れた。

 均衡は一瞬。力の差が、今度は逆転した。

 骨の髄まで響く衝撃に力負けし、ケインの体は弾き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられた。

 ケインが息を整える間もなく、朱剛は上空へと跳躍する。

 両腕を組み上げ、巨大な鉄槌のごとき一撃が振り下ろされ、地面は陥没。爆ぜるように土煙と瓦礫が四散した。

 辛うじて身を投げ出し直撃だけは免れたケインだったが、朱剛は間髪入れずに両腕を解き、左の薙ぎ払いを繰り出す。

 瓦礫を薙ぎ飛ばしながら迫る腕に、ケインは両腕を交差させて受け止めた。

 瞬間、腕に走る圧力は骨を砕く鉄槌そのもの。

 嫌な音とともに左腕が折れ、激痛が視界を白く塗り潰す。

 そのまま吹き飛ばされたケインは地面を削り、石畳を砕きながら滑走した。

 必死に足を突き立て、何とか踏みとどまったケイン。

 息は荒く、肩で大きく呼吸しながらも、ケインの戦意は衰えていなかった。

 鋭い眼光で朱剛を睨み据え、わずかに揺れる足を無理やり踏みとどめる。


「やるじゃないですか」

『GULAッ』

「勝ち誇ってるんですか? ……それはまだ、早いでしょう」


 ボロボロとなったケインを目にして、朱剛が再び胸板を両拳で打ち鳴らす。

 勝鬨をあげる魔物に、ケインは静かに告げた。――まだ終わっていない。

 視線を落とす。赤黒く腫れあがった左腕。折れているのは明らかだった。

 自由が利くか確かめるように右手を開閉する。開く、閉じる――その動作に問題はなく、まだ右手は使えるようだ。

 彼が身に着けた魔道具【イカした革手袋ヒューストン・グローブ】は、腕力を底上げする代物。だが、それだけではない。

 一日に一度だけ――その力を三倍にまで引き上げる切り札。

 代償は重い。発動の直後、【イカした革手袋】は過負荷に耐えきれず、しばらく無力化される。

 魔物の耐久を思えば、正面からの殴り合いでは決定打にならない。

 勝利を掴むには、一撃。

 虚を突き、確実に仕留める一撃が必要だ。

 損傷を負いながらも、なお勝ちを諦めぬケイン。その姿に、朱剛はドラミングを止め、荒い鼻息を鳴らして睨み据える。

 互いに張り詰めた緊張の糸。

 ケインの額を伝う汗が落ちた瞬間、朱剛が一気に間合いを詰め、巨腕を振りかぶった。

 迎え撃つケインは、折れた左腕に鞭を打つような勢いで地面を叩きつける。舗装を砕いた瓦礫と土煙が巻き上がり、その身を覆い隠した。

 土煙の中で、ケインはふと左腕に目を落とす。

 赤黒く腫れた腕から、素早く【イカした革手袋】を外す。その動作は一瞬、意味を持たぬ仕草のように見えた。

 一瞬の後、巨腕が煙を叩き潰した。

 土煙が散り、そこに残ったのは――【イカした革手袋】ただひとつ。

 朱剛は、魔力が込められた【イカした革手袋】をケインと勘違いしたのだ。


『……ッ!?』


 虚を突かれた朱剛の動きが止まる。

 遅れて、反対側から走る気配。


「ふんッ!」


 短い息と共に、ケインの右拳が渾身の力を宿して朱剛の胴を撃ち抜いた。

 巨体がくの字に折れ、凄まじい衝撃音とともに家屋をなぎ倒し、路地の奥へと吹き飛んでいく。

 砕け散った瓦礫の中、朱剛は完全に沈黙した。


「ふー……まだ現役いけますね」


 右肩を回しながら、ケインは静かに呟く。

 そして、倒れた魔物の生死を確かめるべく、吹き飛んだ方向へと足を進めていった。

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