第十四話 私の全て

 家の中に入れられる。ぼろ雑巾のような俺は。されるようにしかできなくて。


 沙良は何か言っている。あの後大変だったんだよぉ――料金の払い方とか。お金とか。何とか払えたからいいけどさ――


 それらの声はどこか遠く響く。さながら俺は、水中にいるようだった。


 周りが遠い。息ができない。景色はぼやけている。


 沙良の部屋に通される。


 ぬいぐるみたち……



『…………!』



 何かを悟ったような、ひそやかな、だが強い気配。


 おれは。


 彼女はどこまでも無邪気だ。どうしたの、何があったの、もしかして――


 どこまでも彼女の声は遠い。俺は。おれ、は。



 ふいに。



 何か柔らかいものが顔に当たる。



 それは彼女の胸囲。



 おれは……彼女に、抱きしめられていた。


「どうしたの? 何か、あったの? 何か辛い、つらいことでもあった?」



 栓をしていた気持ち。それを、誰かが急に取り去るがごとく。


 それはあふれた。



 涙。慟哭。衝動。



 俺のこの気持ちは誰のせいだ? 


 誰が、俺をこんな風にしたのだ? 


 君、君、きみなんだ。そう、それは確実に彼女で。


 なのに彼女は。彼女は只、ただ受け止めて、くれて。


 それが無性に嬉しくて。




 



 そして俺も。


 俺を壊した君に癒されて慰められて受け入れられて。


 それがとても――とても嬉しい、だなんて。そんな滑稽――


 そんなものがこの世界に存在するだなんて。



 絶望は希望に、希望は絶望に。



 はっきりとした境界のない、それはグラデーション。


 それは真昼の黄昏のように、俺を包んだ。



 そして。

 


 キス、された。彼女の淡い唇が俺を包む。


「――――! 駄目、だ」


「え」


「こんな事、しちゃ駄目だ!」


「君はこんなこと、もう辞めるんだ。金輪際、こいつとあってはいけない」


「え、なに、……こいつ?」


「俺だ。俺とは、もう会わないでくれ。そして……」



 くしゃ、と彼女の顔が崩れる。可愛らしい顔がゆがむ。



「ほんとうに、ほんとうにどうしたの? なんで、そんなこというの?」


 涙を流しながら、彼女は喚く。

「言わないで、一人にしないで。私と、ずっとそばにいて。私嫌われちゃった? なんか嫌なこと、したかな。嫌わないで、私の事好きで、好きでいてよ――」


 震える。そんな事じゃないんだ。そんな事、じゃ。


 君の真意はどこにあるんだ。


「君は無理やりこの男に――俺にやられていたんじゃないのか?!」


「そんな事、そんな事、ない! 私は好きだよ、きみちゃんのこと」


 彼女は理解できない事をいう。


「だってきみちゃんは、私に――」


「やめろ!」


「君はそんなことを言う子じゃないはずだ。優しくて、清らかで、汚れが無い……」


「どうしたの? きみちゃん。いつもはそんな事、言わないじゃない。いい子でない私が好きだって。無茶苦茶な私も好きだよ、って、言ってくれるじゃない。きみちゃんは私を無駄なラベリングから解き放ってくれる。違うラベリングを、くれるの」


 いい子でない、キミが――好き? あいつ、いったい沙良に何を。


「きみちゃんは私の全部なの。皆とは――違う。私を受け入れてくれる。必要としてくれる。だから。好きなの」


 沙良は俺を抱きしめる。縋り付くように。


 受け入れているのはキミではなく。この、おじさんだとでもいうのか。


 そして彼女はそれに。


 、に。癒されていたとでも、言うのか。


「きみちゃんには私が必要、私にはきみちゃんが必要、お金も、くれるし。――ね?」


 脱力した。


 なん、なんて、――事だ。



 この子は。この子はこの男に



 確かに。この、瞬間にも。


 俺の声は届かない。

 君と俺の間には深い峡谷があって。

 声はすべてそこに消えゆく。


 むなしい。

 虚無――

 


 瞬間。

 


 俺は、物言わぬぬいぐるみに戻っていた。

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