『視える街』
神田 双月
第1章 「視える人々」
その噂は、SNSの片隅から始まった。
――「この街、最近“見える人”が増えてるらしいよ」。
最初にそれを目にしたのは、高校二年の中原結衣だった。
放課後の電車の中、友人の香澄がスマホを覗き込みながら笑っていた。
「ねえ結衣、これ見た? “視える街”ってハッシュタグ。やばくない? 幽霊見えるとか言ってる」
「またそういう都市伝説でしょ」
「ううん、動画もあるんだよ。夜の交差点で“誰もいないのに”手を振ってる人の映像。音声には、なんか変な声も入ってる」
結衣は興味なさそうに窓の外を見た。
夕焼けに染まった桜代(さくらしろ)市の街並み。郊外とはいえ、夜になれば人通りも減り、駅前以外は静かな住宅地だ。
けれど最近、この街の夜は、どこかおかしかった。
電柱の影が妙に濃く、曲がり角で誰かに見られている気がする。
すれ違う人が一瞬こちらを見て、また前を向く。
それだけのことなのに、胸の奥に冷たいものが走った。
――あの夜から。
結衣は思い出したくなかった。
二週間前、放課後に立ち寄ったコンビニの帰り道。横断歩道の向こう側に、親友の香澄が立っていた。
「ねぇ、こっち来て!」と手を振る香澄。
だが、彼女はその三日前に――交通事故で死んでいる。
あの時、結衣は確かに“見た”。
血の気のない顔、笑っているはずなのに涙を流している目。
そしてその瞬間、赤信号が点滅した。
「……結衣?」
香澄の声が耳に残っている。
次の瞬間、車のクラクション。視界が白く弾け、気づけば道路の中央で立ち尽くしていた。
誰もいなかった。香澄の姿も、あの声も。
それ以来、夜の街で「視線」を感じるようになった。
振り返っても、そこには誰もいない。
でも確かに、誰かがこちらを見ている。
噂が本当だとすれば――自分はもう、“見える側”なのかもしれない。
⸻
同じ夜。
タクシー運転手の加藤真は、いつものように終電帰りの客を乗せていた。
時刻は午前1時半。
車内の無線が小さくノイズを立て、バックミラーに映る客の顔がぼやける。
「どちらまで?」
「……桜代中央の交差点まで」
低い声。
真はナビを操作しながらバックミラーをもう一度見た。
だが、後部座席は空っぽだった。
心臓が凍る。
さっきまで確かに、乗せたはずだ。
料金メーターも作動している。
汗がにじみ、指先が震える。
「お客さん?」
返事はない。
だが、次の瞬間、シートが“ギシ”と沈んだ。
そこに、何かが座っている。
バックミラーには、黒い髪の後頭部が映っていた。
顔は見えない。
けれど、窓ガラスに反射した影がこちらをじっと見ている。
「……っ!」
思わずブレーキを踏むと、車内の明かりが一瞬だけ灯った。
誰もいない。
真は息を荒げたまま車を発進させた。
そのとき無線がノイズ混じりに鳴る。
「……加藤、応答せよ……桜代中央交差点で……」
雑音の向こうから、同僚の声。
「……死体が見つかった……」
⸻
翌朝、ニュースが流れた。
“桜代中央交差点で女性の遺体発見。身元は不明。”
結衣は画面を見ながら固まった。
映し出された現場の映像――それは、香澄を最後に見た、あの場所だった。
⸻
そのころ、桜代総合病院の夜勤室。
看護師の井上沙耶は、カルテを整理していた。
午前3時、ナースコールが鳴る。
302号室。
ついさっき心停止を確認したばかりの、患者・山口正雄(享年78)。
「……嘘でしょ」
モニターには、心電図が一瞬だけ動いていた。
沙耶は部屋へ向かう。
ベッドの上には、静かに眠る遺体。
だが、手すりの上に――誰かの指跡が残っている。
湿った音が背後で鳴った。
ゆっくりと振り向くと、ナースステーションのモニターに、廊下の映像。
カメラの前を、ゆらりと何かが横切る。
それは、白衣を着た自分自身だった。
⸻
同時刻。
桜代署の刑事・高橋勇作は、モニター室でその映像を見ていた。
連続自殺事件の現場カメラを解析していたが、決定的な異変を見つけてしまう。
どの映像にも、被害者の背後に“同じ顔”が写っている。
性別も年齢も違う被害者たち。
だが、背後に映るその顔は――自分自身。
モニター越しに、彼が微かに笑う。
高橋は息を止め、目を逸らした。
その瞬間、画面の中の“もう一人の自分”が、ゆっくりとこちらを向いた。
⸻
桜代の夜に、冷たい風が吹く。
街灯の下で、誰かが立ち止まり、空を見上げる。
空には、星よりも多くの“目”があった。
見ている。
見られている。
やがてそれが区別できなくなる。
“見える街”は、まだ始まったばかりだった。
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