第3話 赤い簪

 風が木の葉を揺する音と鳥のさえずり、虫の声。


 調和の取れたそれらの音に異音が混じる。笹の擦れる音。徐々に近付いてくる音に耳を澄ませ距離を測る。


 今だ。


 笹から飛び出すと驚いた熊が咆吼をあげて立ち上がる。丸裸になった急所に銃弾を見舞う。父っちゃ譲りのこの方法は、一発で仕留めねばやられる。


 熊は天を仰ぎ、巨体を横たえる。


「やったな」


 虎吉さんがひょいと木から下りてきた。


「虎吉さんが上手さ追ってけたお陰で」

「俺は天才だからな」


 鼻の下をシュッと擦る。


 虎吉さんの方が獣の気配を捉えるのが上手いし、獣側も鬼を脅威だと感じている。だから熊を見つけて私のところへ追い込んで貰う事にした。


 始めた頃は闇雲に追い回し、肉を不味くした。さりげなく追えるようになったのは最近の事。


 虎吉さんは熊一匹ペロッと平らげてしまうから、毎日せっせと熊を撃ち鍋をこしらえる。


 今日も腹を満たせる。そう思うと笑みが溢れた。


***


「なんと艶やがなんだべ。紅色がしったげお似合い」


 そう褒めると、虎吉さんは口をへの字に曲げた。


「なんでこんな格好をせにゃならんのだ」

「大人でなぇば怪しまれますし。んだども虎吉さんは大人の男の人にしては華奢だすし。おいだば死んだ事になってらしね」


 麻の葉模様を纏ったら、華奢な女人そのものだ。笠を被れば顔に塩梅よい影が落ち、色香を醸し出す。


 銃弾が残り少なくなってきた。弾がなければ熊を撃てず、虎吉さんの腹を満たせない。そこで町へ行き、熊の皮やこしらえた薬を金に換え、弾を買うことにした。


「えが、相手が女だと店主は足元見てくるす。腹立てずシナ作って『この値で売らねば旦那さ叱られる』て泣き付くんだすよ」

「分かった分かった。もう耳にタコができた。金が手に入ったら、もっと美味ぇ飯が食えんだろ。何だっけ。味噌と醤油と塩?」

「んだ。味噌と醤油と塩。残った銭こで買えるだけ弾仕入れてきて下され。あ、がに股はいけねぇ。内股でこう、しゃなりしゃなりと歩くのだすよ」

「ああ、面倒くせぇ!」

「鼻をほじるのもいけねぇす!」

「ああ、ナヲは嫁の中で一番生意気だ!」


 憎まれ口を残して、虎吉さんはピョンと跳び上がった。大きな袋を下げているのに、中身が空気であるように軽々枝から枝へ飛び移る。


 その姿が消えてから、ふうっと大きく息を吐いた。


 鬼の嫁になってから、一人になるのは初めてだ。


 虎吉さんは暫く帰ってこない。今なら、ここを抜け出せる。


 兄っちゃが療養所へ行ったから、しがらみは何も無い。遠い遠い場所で住み込みの仕事を探すか、マタギで食いつなぐか。その気になれば、生きていく術はきっとある。


 郭公の鳴き声が、森の中に木霊する。季節は春から夏に変わった。いつの間にか時間が過ぎたが、毎日それなりに楽しかった。


 もう虎吉さんと笑い合うこともなくなる。


 そう考えたら、得体の知れない寂しさが、シューっと胸に湧いてくる。


 どこへ行こうが、独りぼっちだ。


 両親を亡くしてから、虎吉さんも寂しかっただろうか。闇夜にポツンと放り出されてしまったように。


 だったら。


 私は森に背を向け、洞窟に入る。


 折角虎吉さんがいないのだから、掃除でもして住まいを心地よく整えよう。





 だったら、二人の方がいい。


***


 行きと同じくらい膨らんだ袋には、沢山の銃弾と、塩や醤油味噌に砂糖まで入っていた。


「変な格好のラッパ吹きから買った」


 そう言って、鞠を小さくしたようなあめ玉を口に放り込んでくれる。とろりとした甘さが口いっぱいに広がった。虎吉さんは上機嫌で、紅の着物のまま胡座を組んだ。


「母っちゃと出かけた時とは随分様子が変わってたなぁ。あの変な髪型は廃れたのか?」

丁髷ちょんまげの事だすか? 丁髷も刀も、明治になって廃止されたす」


 答えながら、随分昔の話をしているなと思う。お侍さんがいた時代は、私が生まれる前の事。


「母っちゃはよく、町に連れて行ってくれた。俺が人間に馴染めるようにってな。母っちゃは俺に人間として生きて欲しかったのかも知れねぇ。生えてきた角を見て、悲しそうな顔をした」


 懐の紙包みから飴を取り出し、口に入れる。虎吉さんの口の中も、とろりと甘く満たされるはず。なのに何故か、酸っぱいものを食べているような顔をする。


「里に帰りたいと思わねぇのか? ナヲは」


 虎吉さんの瞳は、少し碧い。小刻みに揺れる碧を見つめ返しながら、首を振る。


「熊を味噌で煮るとんめぇんだすよ。イタドリもきざんであるす。シャキシャキとおもしぇ歯ごたえだすよ。お砂糖があるから、熊の脂で甘辛く炒めるべ。まだまだ、虎吉さんに食べさしたいものが一杯あるす。山は里よりんめぇ物が沢山あるし、熊もいるし」

「そっか」


 虎吉さんの頬が、赤くなった。頬紅を塗ったみたいだ。顔を伏せて、懐をもぞもぞ探りだす。


 口紅が少しはげているから、何か買い食いしたのだろう。その姿を想像すると、ふふふと笑みがもれる。


 しばらくして、虎吉さんは何かを手に押しつけてきた。


「わぁ、かんざし!」


 真っ赤な珠飾りのついた簪が、手の平に乗っかっている。


「お、女に贈り物をするなら何が良いかって飴屋に聞いたら、簪を勧められたんだ」


 照れくさそうに鼻の頭を掻く。


「殿方がおなごに簪贈るのは、結婚申し込む時だすよ」

「そうなのか。なんだ、ちぐはぐだな」


 虎吉さんは唇を尖らせる。


「だってもう、俺達夫婦めおとだからな」


 そう言いながら、虎吉さんが手を伸ばしてきた。虎吉さんの胸が、頬に当たる。心臓が、ドキンドキンと跳ね上がり、口から飛び出してしまいそう。


「ナヲといると、腹の下がギュウっと痛くなる」

「お、おいもだす……」


 身体の奥が熱くなって、どうしていいのか分からなくなる。虎吉さんの腕に力がこもり、下腹がまたギュッと痛んだ。


「でもまだ、無理なんだ。先月ナヲに月のものが来るようになったが、俺はまだだ。多分、もう少しだと思うが」


 少し甘い湿った匂いにクラクラして、もっと深く抱きしめて欲しくなる。何かがとにかく欲しくて、満たされないのがじれったい。


「もう少し、待っててくれ」


 その、もう少しは何時なのだろう。虎吉さんと私の時間は、流れ方が違う。

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2025年12月10日 07:32 毎日 07:32

鬼の晩餐 堀井菖蒲 @holyayame

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