第2話 熊鍋
韋駄天のように地をかける鬼は、獣を軽々飛び越した。
不意を突かれた獣はギュッと地面を踏みしめて止まる。次の瞬間立ち上がり、高々と両手を上げ威嚇する。
首に月の模様を抱く熊。
鬼が懐に入り込み、拳を打ち込む。
拳は腹に食い込み、苦しげな呻きをさそう。肉を叩く音が森に響き、熊の巨体が揺れる。
鋭い爪が反撃してくる。
それをひょいと跳んで交わし、くるりと回って顎を蹴る。伸びて来る腕を潜り、肋の下に拳を入れる。
あそこは心臓のある場所だ。
グゥと苦しげなうめき声を上げ、巨体が地面に倒れる。
「今日のメシだ」
鬼がにやりと笑う。我を忘れて見つめていた私の耳が、微かな物音を捉えた。
笹の中に、もう一匹。
すぐに銃を構え、耳を、肌をそこに集中する。
感覚が捉えたのは、小熊の姿だ。おそらくここに横たわる熊の子供。その急所に狙いを付ける。
引き金にかけていた人差し指に力を込める。
不思議なのだが、引き金を引いた瞬間に分かる。
この弾が、命を取ったのか外したのか。
弾は子熊の心臓に命中したはずだ。藪に分け入り、横たわる熊を発見する。小熊と言っても、私の身体よりも大きい。
手を合わせてから
「へぇ、大したものだな。一発で仕留めたか」
「勿論だす。……血抜きは済んだすか」
「血抜き。なんだ、それは」
首を傾げる姿を見て、思わず肩を竦めてしまう。
「その肉は、まずぇ」
「なんだと?」
「賭けてもえぇ。おいの捕った肉の方が、絶対に美味ぇ」
親熊の元へ行き、血抜きのために首を切る。しかし小熊のようにドクドクとは流れてこない。
***
「確かに美味ぇ。こんなに美味ぇ肉を食ったのは生まれて初めてだ」
そう言いながら、鬼は熊鍋を頬張る。あっという間に空にした椀をこちらに差し出すので、お代わりをよそう。フーフーと息を吹きかけながら、鬼がチラリと視線をあげた。
「しかし、なんでこんなに美味ぇんだ? 子供だからか?」
「それもあるべが、殺し方と後処理の違いだす。筋肉さ血回わると身が硬うなるし、死んだらすぐに血を抜かねば臭くなるす。小熊は自分が狙われてると気付かぬうちに死んだし、心臓動いでら間に血抜きしたから」
「成る程。ってこたぁ、鉄砲で撃つ方がいいって訳だ」
「殴り殺された熊を食ったことねぇが……。罠さ掛かった獣は肉が傷むと言うすから、同じ事だべ」
「なら、明日からおめぇが狩りをしろ」
「ぐふっ?」
驚いて肉を丸呑みしてしまい、変な声が出る。水で塊を飲み下してから、暢気に三杯目の椀を差し出す鬼を睨む。
「それより、兄っちゃの事はどうなった。『腹減ったからメシを食いながら話す』で言うたではねぇか」
そう言い捨てて森へ行ったので後を追うと、熊と戦っている場面に出くわしたという次第。鬼はああ、と面倒臭そうに鼻をほじる。
「ジジイに着物見せて脅した。『この女は俺が喰った。最後まで兄の事を気にかけてたから、約束通り面倒見てやれ。約束違えたら、てめぇを喰うからな』ってな。ジジイは小便漏らしながら頷いた」
「そうでしたが。それは、どうも」
これで兄っちゃの命は救われる。私は鬼に手を合わせ、椀を受け取った。
「ところで、この丸いやつは一体何だ?」
「ああ、つみれのことでございますか?
「肋の肉か。捨てるとこだろ」
「いたましぃ。んめぇんだすよ、骨の傍の肉っこは。熊は何一つなげるところはござらねぇ。骨は体力回復してくれるすし、内臓や脂肪は薬になるす。マタギの仕事は、狩猟と薬作りだす。それ売って収入にするのだす」
「金になんか興味ねぇな。しかし、この鍋はうめぇ。今までの嫁の中でおめぇの料理が一番美味ぇ」
一番という事は、これまで二人以上の嫁がいたということ。その嫁達の行方を想像すると肌が粟立つ。
ゴクリと生唾を飲み込んでから、探りを入れる。
「……前の嫁さも料理作ったのだすか」
「熊を捌ける女は一人もいなかったな。飯を作れと言ったらみんな蕗やら蕨やらを煮炊きする。それがまずいのなんのって。草ばっか喰ってられねぇっつの」
椀に視線を落とすと、つみれがぽかんと浮いていた。
ということはいつも、生肉を喰っているのか。それは熊であったり、狐や狸であったり、そして……。
「あ、あだ様は、何が好物だすか?」
夫の好みを聞く嫁を装い笑顔を作るが、頬がヒクヒク引き攣る。鬼はつみれをくちゃくちゃ噛みながら答える。
「何でも喰うが、鹿と人間は食わねぇ」
思いがけない言葉に椀を落としそうになる。鬼はずずっと汁を飲み、再び椀を差し出した。
「この山の神様は鹿の姿をしてなさる。間違って殺したら祟られるから、鹿は喰わねぇ。それに、俺の母っちゃは人間だ。共食いになるから人も喰わねぇ」
呆けたように、囲炉裏の炎を見つめる。
鬼が女を掠い喰っているというのは、単なる噂だったのか。
張り詰めていた気持ちがプツンと途切れる。すると急激に腹が減ってきた。だが、鍋は空になっている。
鬼は物欲しそうに鍋の底を覗き込む。
「足らん。もっと喰いてぇ」
「はいはい。追加でこしらえるべ。おいもまだ、食い足らねぇす」
「沢山つくれ。そんな小さな熊、全部喰える」
「ハイハイ」
本当ならば今頃、女を鞭で打つようなジジイに飯をつくっていたはずだ。それが何故か、鬼の嫁になっている。思わずふふっと笑みが溢れた。
「おいだば、ナヲと申します。あだ様は?」
「どういう意味だ?」
「だって、
「そんなもんか」
鼻をほじりながら、鬼は首を傾げる。しばらく鼻に小指を突っ込んでいたが、徐に引き抜いて手を叩いた。
「虎吉だ。しばらく呼ばれてねぇから、忘れるところだった」
「虎吉……。鬼なのに、虎?」
鬼改め虎吉さんが顔を真っ赤にしたので、失言だったと口を押さえる。虎吉さんはふて腐れたように目を伏せた。
「母っちゃが知る中で一番強い動物だそうだ」
「虎の方が、鬼さんより強ぇのだすか?」
「知らん。鬼の方が強ぇだろうが、鬼に鬼と付けるのはおかしいだろ」
「確かに……。んだども人は人と付けるすよ。天皇陛下はむつひと様で、お子様はよしひと様」
「字が違う」
「そうなんだすか。あれ、虎吉さんは字読めるのだすか。おいだば学校にほとんど行けねかったから、漢字は読めねぇ。鬼さも学校があるのだすか?」
「知らん。鬼の学校など聞いたことねぇ。字は、母っちゃが教えてくれた」
虎吉さんは、寂しそうに目を伏せた。
「子供の頃はまだ角が生えてなかったから、人として生きるかも知れねぇと」
一言一言を噛みしめるように虎吉さんは言う。
その母様は、今どこにいるのだろう。里のようなものがあって、父様と暮らしているのだろうか。
「女の人で字を教えられるという事は、寺子屋さ通ってらしたんだすね。お嬢様だ」
「ああ。父っちゃの話では、商人の娘でそれは美しいと評判だったらしい」
誇らしげにふふんと鼻を鳴らしたが、すぐに視線を落としてしまう。
「俺が覚えているのは、しわくちゃで白髪だらけのばあさんだけど。
「それから、ずっとお一人で?」
「大体、な」
胸がギュッと痛んだ。私も寂しかったけれど、兄っちゃがいた。山から帰ってこなくて独りぼっちの夜は、心細くて仕方なかった。
虎吉さんはどれくらい一人でいるのだろう。時折嫁がいたようだけど、名前を呼び合うような仲ではなかったようだ。
それはそれで、寂しい。
鍋がぐつぐつ音を立て始めたので、虎吉さんの椀を満たした。
「仲のえ夫婦になるべね。ふつつか者んだども、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」
「お、おお」
虎吉さんの指が、一瞬触れた。やけに熱く感じて、その指先をさする。
「つみれはもうねぇのか」
「え、ええ。みんな食ってしまいました」
「なら、明日つくってくれ」
鍋で暖まったからか、虎吉さんのほっぺたが赤くなっている。
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