鬼の晩餐

堀井菖蒲

第1話 さらわれた花嫁

 私は一人、嫁ぎ先へ向かっていた。


 実家から八里の道程。迎えもなければ付き人もなく、馬もない。おまけに雨も降っていた。貰い物の黒縮緬は、子泣きじじいのように重い。


 それでもやっと、待ち合わせの祠に辿り着いた。夫は山中の一軒家に住んでいて、ここへ迎えに来てくれることになっている。


 だが、待てど暮らせど来やしない。人格に難ありと聞いていたが、嫁を迎えに来ないとはどういう了見か。野宿は慣れているけれど、ここでは御免被りたい。


 なにせ、人食い鬼の出る山だ。


 日は沈み、雨脚は強まる。途方に暮れて溜息をついた時、視線を感じた。


 樹上から、何者かが見下ろしている。


 荷物に手を伸ばし、銃を構える。兄っちゃから譲り受けた村田銃。


 肉食獣だ。


 毛穴が引き攣り、奥歯を噛みしめた。引き金を引く。姿は見えなくとも、急所は見える。


 だが、逃げられた。


 闇が割れ、何者かが飛び出してくる。次の瞬間、身体が浮き上がっていた。


 眼前で少年が笑っていた。私は彼に抱えられ、空を舞っている。


「鬼に鉄砲向けるとは、面白れぇ奴だ。俺の嫁にしてやる」


 そう言って枝から枝へ跳躍し、山に深く入り込んでいく。


 やっと下ろされたのは、広い洞窟だった。洞窟には囲炉裏があって、火が燃えていた。地べたに座り込んだまま、相手を見上げる。


 十五の私と変わらないかもう少し幼くて、着崩した襟元から薄っぺらい胸が覗いている。


 長く乱れた銀髪。そこから、二本の角が生えている。


 洞窟の壁に、その影が揺れていた。


 こんな子供、組み伏せてやる。拳を握りしめたが、たった今までこの細い腕に抱えられ空を飛んでいたことを思い出した。


 相手は、鬼なのだ。


「お前、変態ジジイの新しい嫁か」


 まだ会ったことはないけれど、数知れぬ噂を一纏めにしたら「変態ジジイ」は的を得ている。


「お知り合いだすか」

「この山を自分のものだと勘違いしてる愚か者だが、お陰で人が寄り付かねぇから放っておいてる」

「その方の嫁っこさ行かねばならねのだす。帰してたんせ。できればお宅まで案内してけるど助かるす」


 鬼は口を半開きにした。


「俺に道案内を頼むのか」

「だって、飛んで来たから道分からねぇもの」


 鬼の唇がふにゃりと歪んだ。


「やめとけやめとけ、酷ぇ男だぞ。裸の嫁を木に吊して鞭で打つような奴だ」

「百も承知だす。鞭で打たれようが逃げ出すつもりはござらねぇ」


 固い決意を馬鹿にするなとそっぽを向く。鬼が、はて、と首を傾げる。


「あの変態が、こんな小便臭ぇ娘を嫁に所望するかねぇ」

「小便臭ぇ!? おいだば村で一番早くおしめ取れだんだすよ! 小便臭ぇとは失礼な!」


 五十過ぎの爺さんが十五の娘を嫁に望むとは。それも、何番目か分からないくらいだらしない結婚歴だという。


 兄っちゃはこの縁談に腹を立てたが、伯父さんは手を叩いて喜んだ。「何の取り柄もね醜女が玉の輿さ乗った」と言って。


「両親が早くに亡くなり、兄っちゃに育てられました。兄っちゃは父っちゃの跡継いでマタギをしておりましたが、胸をやられまして。『うつされではたまらん』とマタギの仲間から外されました。仕方なく内緒でおいが山さ入り、熊を撃っておりました。毛皮売りに行った先で盗品だと疑われ『撃ったのはおいだ』で捲し立てでしまい……。女マタギがいると騒ぎになったのだす」


 腹を立ててしまった自分を蹴り飛ばしてやりたい。愛想笑いで誤魔化して、別の店に行けば良かった。


頭領シカリの伯父さんに叱責され、兄共々村を追い出されるところでした。そさ文豪先生のお使いの方がいらして、『嫁に来てくれたらお兄さんを療養所へ入れてあげましょう』と言うてくれたんだす。なもかも、話のネタになるような珍しい娘を探してたところ、女マタギの噂聞き付けたとか。おいが嫁っこさ行かねば、兄っちゃは野垂れ死んでしまうす。どうか、この通りだす」


 地べたに額を擦りつける。どんな仕打ちを受けようが、兄っちゃが助かるなら耐えてみせる。第一、そう簡単に虐められるつもりはない。すばしっこさにも腕っ節にも自信がある。


「なるほどな」


 鬼は顎に手を当てて、小さく何度か頷いた。どうやら分かって貰えたようだと安堵の息を付いた時、鬼が手を伸ばして黒縮緬の着物をはいだ。勢いで肌襦袢がはだけ、胸が露わになる。


 鬼がプッと吹き出した。


「豆をのっけたまな板みた……」


 ゴン、と鈍い音が言葉を遮り、鬼が額を抑えて蹲った。私は自分のおでこをさすりながら、フンと鼻を鳴らして立ち上がる。


「村一番の石頭だすから。簡単に手籠めにされねぇ!」


 鬼は身体を折り曲げて笑い出す。


「こんなおもしれぇ嫁は初めてだ! 鬼に頭突き喰らわせるとは!」


***


 花嫁衣装を抱えて、鬼はどこかへ行ってしまった。


 途方に暮れて、辺りを見渡す。洞窟の奥は闇に飲み込まれていた。肌襦袢のままでいるわけにはいかない。布きれでもないかと探索すると、着物が至る所に落ちていた。


 闇の中で幾つか拾い、囲炉裏端に戻ってくる。


 みんな女の着物だった。粗末な木綿のものもあれば、絹織物もある。錦に心引かれるけれど、走るには不向きだ。


 薄手の木綿を広げてみると、大輪の花が染められていた。しばしその花を見つめていたが、丸めて炎に投げ込んだ。


 木綿を舐めるように炎が燃え上がり、頬を焼く。私は、姿を消していく着物を睨み付けた。


 この山には鬼がいて、時々娘を掠うという。娘達は帰ってこないから、喰われてしまったと信じられている。


 あの少年が、人食い鬼か。人外の力を持っているかも知れないが、まだ子供。鉄砲があれば戦える。


 今なら、逃げることは出来る。だが鬼は「お前の兄っちゃを助けてやるから待ってろ」と言った。今逃げて村に帰っても、病気の兄っちゃを支えて生きていく力は、私にはない。


 ならば、腹を括ろうか。


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