if 愛が支配に変わる
蒼が恭弥の告白を受け入れられなかったifです
蒼は動けなかった。
胸の奥が、脈打つたびに痛い。
「付き合ってほしい」
その言葉がまだ耳に残っていて、頭のどこかで反響していた。
信じられない。
こんなに急に、こんなふうに。
それに、あの目。あんな熱のある目で見られたことなんて、一度もない。怖い。
食器を洗う手が震えて、皿の縁が小さく鳴った。
冷たい水が指の上を流れていくのに、胸の奥は熱くてたまらなかった。
好きだ、なんて。
どうしてそんなことを。
しばらくして、玄関の方で物音がして、恭弥が戻ってくる気配がした。
蒼は慌てて手を拭き、呼吸を整えようとしたけれど、心臓の音ばかりが早くなっていく。
足音が近づく。
リビングのドアが開く。
「……さっきのこと、考えたか?」
低い声。
蒼はうつむいたまま、指先を握りしめた。
「……考えました。でも、やっぱり……無理です」
その瞬間、空気が凍ったように静まり返った。
恭弥は何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。
長い沈黙のあと、低く、押し殺した声が落ちる。
「……理由を、聞いてもいいか。」
「……僕、怖いんです」
声が震える。
「あなたが何を考えてるのか、まだ全然わからなくて……。僕なんかを“好き”って言ってくれる理由も、怖い。だって、昨日まで見知らぬ人だったのに……」
恭弥のまぶたが、かすかに動く。
目の奥に、怒りとも苦しみともつかない光がよぎった。
「……そうか」
その一言だけで、部屋の空気がさらに重く沈んだ。
蒼は思わず一歩、下がった。
恭弥はその距離を見つめて、ゆっくりと息を吐く。
「……お前がそう言うなら、もう言わない」
そう言いながらも、目だけが離さない。
まるで理性をぎりぎりで押しとどめているような視線。
蒼の喉がひくりと動く。
何か言おうとして、言葉が出ない。
「……でも、俺はお前を忘れられそうにない」
恭弥の声は低く、かすれていた。
彼の拳がわずかに震えて、手の甲の血管が浮き上がる。
その目に、まだ消えない熱が宿っている。
蒼はその熱を直視できず、視線を落とした。
「……ごめんなさい」
恭弥は小さく息を吐いて、ゆっくりと背を向ける。
足音が遠ざかる。
扉が閉まる音がして、静寂だけが残った。
蒼は崩れるようにその場に座り込んだ。
手のひらを胸に当てると、鼓動がまだ速い。
拒んだはずなのに、胸の奥はなぜか痛くて、息が詰まる。
怖い。
嫌いじゃないけど…
蒼は両手で顔を覆い、冷たい空気を吸い込んだ。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
蒼は小さく息を吐き、リビングの空気を震わせないように立ち上がった。
床のきしむ音さえ、やけに大きく響く。
「……今まで、本当にありがとうございました」
靴を揃えながら、呟く。
声は震えていないのに、指先だけがわずかに震えていた。
静かにドアノブへ手を伸ばした。
その瞬間。
「どこへ行く」
低い声が、背筋を凍らせた。
蒼は振り向けなかった。
振り向けば、きっとあの目を見てしまう。
「……お世話になりました。迷惑ばかりかけたので、これ以上は……」
「待て、出るな」
恭弥の靴音が近づいてくる。
床を踏むたびに、蒼の喉が乾いていった。
背中のすぐ後ろで息が落ちる。
恭弥の影が蒼を覆う。
その視線に刺されるようで、息をするのさえ難しい。
「考え方を変えた」
恭弥が静かに言う。
「もう“付き合ってほしい”とは言わない。……お前を俺の所有物にする。」
蒼はゆっくりと振り向いた。
その言葉が何を意味するのか、理解するのが怖かった。
「……は、し、所有物……って……」
「そうだ」
恭弥の声は穏やかだった。
だがその穏やかさの奥に、理性の糸がひどく張りつめているのがわかる。
「出ていけば、またあんな場所に戻る。誰かに見られる。触れられる。……それが俺は嫌なんだ」
蒼の胸が小さく波打つ。
その理由は痛いほど真っ直ぐで、だからこそ怖かった。
「……僕は、恭弥さんの……」
言葉を探すように唇が震える。
「……持ち物じゃ、ないです」
恭弥の表情がかすかに揺れた。
だが次の瞬間には、静かな執着が戻っていた。
「じゃあどう呼べばいい。……俺の手の届くところにいてくれる存在、そう呼ぶしかないだろう」
蒼は息を呑み、後ずさる。
恭弥の指がドアの上に置かれ、退路が塞がれた。
「勝手に出るのは許さない」
声は低く、落ち着いているのに、その奥で燃えるものがある。
「……俺が、お前を守る、大切に飼う」
「い、いや……でも、僕は」
言葉を重ねようとする蒼を、恭弥は遮った。声は変わらず穏やかだが、その瞳には決意が宿っていた。
「俺はな、すごく運がいい。使えるものが多い。金も、コネも、人を動かす権力がある」
恭弥はそう言って、肩越しに淡々と続けた。
「お前を守ることもできるし……逆に潰すことだってできる。だから言ってるんだ。ここにいるほうが安全だって、わかるか?」
蒼の指がぎゅっと靴の紐を握りしめる。胸の奥で、何かが縮こまった。
「それって……」
蒼の声はか細く、逃げ場を求めるようだった。
恭弥は一歩詰める。距離は短くなるが、触れようとはしない。ただ、その威圧が蒼の動きを奪う。
「お前ならわかるはずだ、今何をすればいいか。何をすれば安全にこれから暮らせるか」
蒼は目を伏せる。過去の影、外の世界での生活、恭弥の言葉の重み。
すべてが一度に押し寄せる。
「……恭弥さん、僕は……」
声が詰まる。足元で、靴が不安定に揺れた。
やがて、震える手が靴を床に戻す。
ゆっくりと靴を脱ぎ、素足でリビングへと戻る。
その動作は小さく、屈辱にも似た決断の証だった。蒼の瞳には涙が浮かんでいるが、声は出ない。
恭弥はその様子をじっと見つめたまま、はじめて少しだけ息を吐いた。肩の力が抜ける瞬間、どこか安堵めいたものがこぼれた。
「いい判断だ、お前は賢いな。」
低く、しかし確かな褒め言葉。蒼の震えた肩がわずかにほぐれるのを、恭弥は見逃さなかった。
「あぁ、安心する。お前がここにいるのが、一番いい」
だが、その口元には笑いがない。恭弥は蒼の側に寄ると、着ていたかろうじて人前に出られそうな白いシャツを脱がせて、かわりにスウェットを静かに脱がされて震える腕の中に差し出した。
「着ろ。こんな服お前には必要ない」
蒼はシャツを受け取りながら、返事をする力さえ残っていなかった。ただ、震える指先で一生懸命に着る。恭弥はそんな蒼を見下ろし、目を細める。
その瞳にあるのは、独占欲と同時に、守りたいという歪んだ優しさだった。蒼はその重みを抱え込み、顔を上げることができない。部屋の時計だけが冷たく時を刻んでいる。
恭弥は小さな声で付け加えた。
「お前が納得する形で、ゆっくりと。だが、俺は待つ。どんなに時間がかかっても、絶対に放さない」
蒼の瞳がようやく恭弥に向いたとき、そこには戻りたい願いと逃げたい本能が混ざっていた。恭弥はそれを見て、ほんの少しだけ肩を落とした。
「……さっきのはいい判断だよ、本当に。」
褒め言葉は甘くもあり、冷たくもあった。蒼はか細く笑いを押し殺し、裾をぎゅっと握った。
部屋の外は静かだ。だが、二人の間に漂う空気は、決して晴れやかではなかった。恭弥の狂った“独占欲”は明瞭に示された。蒼はそれを受け入れるしかないと知りながらも、心のどこかで震え続けていた。
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