僕達は幸せに見えますか?

昼過ぎの光がカーテンの隙間から差し込み、柔らかく床を照らしていた。

玄関のドアが開く音と同時に、軽やかな足音が響く。


「ただいま戻りましたっ…」


蒼は両手に小さな紙袋を抱え、頬をほころばせながら靴を脱ぐ。

今日は久しぶりにひとりで外へ出た。

結婚してからずっと、恭弥の許可と同伴がなければ絶対に外には出られなかった。


でも今は、行き先と帰る時間をきちんと伝えれば、自由に出かけられるようになった。


それが、嬉しかった。

久しぶりに感じる季節の風も、人の声も、目に映る街の色も、全部新鮮で、心が弾んだ。


けれどリビングのドアを開けた瞬間

「……あれ?」

そこに、ソファに腰掛けている恭弥の姿があった。


普段なら夜遅くに帰る彼が、昼間から家にいるなんて珍しい。

黒いシャツの袖をまくり、湯気の立つカップを手にしていた。


「おかえり」

低く穏やかな声が、部屋の空気を包む。


「え……恭弥さん、どうしたんですか? こんな時間に」

驚く蒼に、恭弥はわずかに口元を緩めた。

「仕事が早く終わってな、たまには昼に帰るのもいいだろう。」


机の上には、白いアルバムが開かれている。

表紙には金の文字で「Wedding Day」と書かれていた。


「あ、それ……」

「やっと届いた。」


蒼は駆け寄り、隣に座り込む。

ページには、純白の花と笑顔のふたり。

蒼の頬に恭弥の手が添えられ、互いをまっすぐに見ている写真。


「……懐かしいですね」

「まだそんなに経ってないだろ」

「でも、昔のことみたいです」


ふたりの間に、静かな笑いがこぼれる。

蒼はページを指先でなぞりながら、ふと視線を落とした。


アルバムをまた開くと、紙のページが柔らかく擦れる音がした。

白い見開きの中に、晴れの日の光が閉じ込められている。

結婚式の写真……笑顔も、緊張も、すべてがそのまま残っていた。


蒼は一枚の写真を指差した。

「これ、覚えてます? 入場のとき、僕が歩くの遅すぎて、恭弥さんが腕を引いて僕が逆に前に出すぎたやつ……」


恭弥は小さく笑う。

「お前、ガチガチでロボットみたいだったぞ」

「だって……あんなに人いたら緊張しますよ」

「……確かに。あの日のお前は、完全に緊張してた」


蒼は照れたように頬を押さえて笑う。

その笑いがあまりに柔らかくて、恭弥はふと目を細めた。


ページをめくる。

今度はケーキ入刀の場面。

白い生クリームがやたらと豪華で、蒼がナイフを持つ手をおぼつかなくしている。


「これ……」

蒼は思い出したように口元を押さえる。

「僕、ケーキを落としかけて、危なかったんですよね」

「その直前に、俺が“もう少し右”って言ったんだ。それでお前が逆の右に動かして……」

「ああ……!ふふっそうでしたね!」


ふたりで声を上げて笑う。

時間が柔らかくほどけていくようだった。


次のページには、式が終わったあと、控室でふたりだけで写った写真。

蒼が恭弥の肩に寄りかかり、目を閉じている。


蒼は小さく息を呑んだ。

「これ、僕……疲れて寝ちゃってるんですよね」

「そうだ。人前ではずっと緊張してたくせに、俺の隣座った瞬間に寝た」

「恭弥さんの隣、落ち着くんですよ」


その言葉に、恭弥はわずかに眉を緩めた。

「……そうか」


しばらく、静かな間があった。

ページをめくる手を止めたまま、蒼がぽつりとつぶやく。


「この日から、僕……毎日こうして笑えるとは思ってませんでした」

「……俺もだ」


恭弥はアルバムを閉じ、指先で表紙を軽く撫でた。

「だけど、今こうして振り返ってみると、まぁ、悪くないだろう」


「はい、すごく。」


蒼は微笑み、そっと彼の腕に自分の指先を重ねた。

その手に、恭弥は何も言わず、ただ軽く握り返す。


外では、夕方の風がカーテンを揺らしていた。

結婚式の写真の中の笑顔と、今のふたりの笑顔が、同じ明るさで並んでいた。


テーブルの上には、式の日に撮られた写真が一枚。

蒼が偶然、視線を落とすとそこには笑っている自分と恭弥が写っていた。

満面の笑み、けれど、少しだけ胸の奥が痛む。


「……僕たち」

蒼はそっと声を落とした。

「僕達は、幸せに見えますか?」


恭弥はしばらく黙って蒼を見た。

何かを測るように、ゆっくりとした目の動きで。


「見えるさ」

静かな声でそう言って、恭弥は蒼の手に自分の手を重ねた。

「俺から見ても、誰から見ても。ちゃんと“幸せ”に見える」


「……そうですか」

蒼の指が少し震えた。

安心と、少しの寂しさが混じったような震え。


「でも、“見える”だけじゃなくていい」

恭弥は言葉を続けた。

「見える以上に、そう“在る”ようにすればいい。俺たちが」


その言葉に、蒼は静かに頷く。

恭弥の掌のぬくもりが、自分の手の奥にまで染みていく。


外では、春の風が窓を揺らしていた。

もうどんなに派手な祝福がなくても、

この静けさが、いちばんの幸福なんだと蒼は思った。


「……はい。僕、ちゃんと幸せです」

「ならそれでいい」

恭弥がわずかに口角を上げ、肩に腕を回す。


二人の指輪が淡く光を反射していた。


アルバムを閉じると、恭弥は表紙を指先で軽く叩いた。

「……こうして見ると、変な出会いだったのに、ここまで進展できて……嬉しいな」


その声音には、照れ隠しも皮肉もない。

ただ事実を確かめるような、穏やかな響きだった。


蒼は、ちょっと驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑った。

「ふふ、変な出会い、でしたね……ほんとに」


「お前、まだあの時のこと覚えてるか」

「忘れませんよ。だって、最初、めちゃくちゃ怖かったですもん」


恭弥は一瞬だけ目を細め、それから喉の奥で小さく笑った。

「だろうな」


「だろうな、って……!僕にとっては笑い事じゃないですよ」

蒼は笑いながらも、少し頬を膨らませた。

「初めて会ったとき、目も合わせられなかったんですから。ほんとに、ずっと黙ってて」


「……あの時のお前は、すごい顔してた」

「だって、誰よりも恭弥さんが怖かったので…」


その正直な一言に、恭弥は肩を揺らして笑った。

「それ、今さら言うか」

「今だから言えるんです。あの頃の僕が、こんなふうに笑っていられるなんて思いませんでした」


蒼は微笑んだまま、アルバムの上にそっと手を置いた。

恭弥はその指先に視線を落としながら、低く言う。


「……俺も、お前に“笑われる日”が来るなんて思ってなかった」


その言葉のあと、短い沈黙。

けれどその沈黙は、もう重くはなかった。


蒼は少し照れくさそうに笑い、

「じゃあ、おあいこですね」

と小さく呟く。


恭弥はその言葉に目を細めた。

「そうだな」


窓の外では夕日が傾き、薄く金色の光が部屋を満たしていく。

二人の笑い声がその光に溶けるように広がっていった。



                   END

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