あなたと過ごす日々

夜が深く落ちた。


 式の喧噪も消え、照明を落とした部屋に、月の光だけが薄く流れ込んでいる。


 ジャケットを外す音が静かに響く。

 恭弥はベッドの端で小さく座る蒼の方を振り返り、短く息をついた。

「……落ち着いたか」


 蒼は頷く。けれど声は出なかった。


 喉が熱く、胸の奥がざわついて、ただ恭弥の仕草を目で追うことしかできなかった。


そう言って恭弥が近づく。

 指先が蒼の頬の傷跡をなぞり、静かに髪を耳にかける。

 蒼の肩がびくりと震えた。


「まだ、緊張してるのか」

「……少しだけ。こういうの、初めてなので」


 恭弥の目が細められる。

 優しさではなく、真剣な熱のこもったまなざし。

「怖いなら、無理にとは言わない」


 蒼は首を振った。

「怖くないです。……恭弥さんだから」


ゆっくりと距離を詰めてくる恭弥。

 背に触れた手は大きく、ためらいのない温度を帯びている。

「……逃げないのか」

「逃げません」

「じゃあ、覚悟はあるな」


 恭弥の低い声が、肌の近くで響く。

 蒼は小さく息をのんだ。

 そのまま顎を上げられ、目が合う。


時間の感覚がなくなる。

 指先が、頬から首筋、肩口へと滑り、ただ確かめるように触れる。

 蒼は小さく息を飲み、受け入れるように目を閉じた。


 ふたりの間に言葉はなかった。

 衣擦れの音と、かすかな呼吸だけが、静かな部屋に混じり合う。


 呼吸が熱を帯び、互いの間の空気が甘く濁る。

 指先が髪をなぞり、頬を伝い、ためらいもなく背に回る。

 蒼の指が恭弥のシャツを握った。


 距離はもうなかった。


 唇が重なり、言葉は溶け、世界がふたりだけになる。


 照明の落ちた部屋で、静かな呼吸と心音だけが続いていく。

 恭弥の掌が頬に触れたまま、囁くように言った。

「一生、離さない」


 蒼はその言葉を胸の奥で繰り返しながら、涙をこぼした。


 光の届かない夜の中で、ふたりの誓いだけが確かにあった。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


 蒼はぼんやりと目を開けた。

 視界の端で、恭弥がカーテンを少し開け、静かにこちらを振り向いた。

 「……起こしたか?」


 低く、少し掠れた声。

 蒼は首を振る。

 体のどこかにまだ熱が残っていて、まともに顔を見られなかった。


 恭弥はベッドの端に腰を下ろし、蒼の髪を指でそっと細い腰に手を回す。

 「痛くないか」

 その問いが、思った以上に真剣で、胸の奥にじんと染みた。


 「だ、大丈夫です……」

 蒼は慌ててそう言ったけれど、声がうまく出ない。

 恭弥は短く息をついて、首筋に視線を落とす。

 「無理してる声だな」


 小さく笑ったあと、枕元に置いてあった水を手に取り、蒼の前に差し出した。

 「飲め。体、乾くだろ」


 蒼はそっと受け取って、ひと口だけ飲む。

 冷たい水が喉を通る感覚に、ようやく現実に戻る気がした。


 「……恭弥さんこそ、寝てないですよね」

 「お前の顔をずっと見てた」

 その答えがあまりに自然で、蒼は一瞬、呼吸を止めた。


 恭弥は続ける。

 「昨日は無理させた。……次はもう少し、ちゃんとする」

 「……ちゃんとって」

 蒼が聞き返すと、恭弥は小さく笑うだけで答えない。


 その代わり、蒼の手を取って掌をなぞる。

 「お前が痛い顔するの、見たくない」

 それは誓いのような声だった。


 蒼は唇を噛んで、首を振った。

 「そんな顔、してません」

 「してた。……けど、綺麗だった」


 あまりにも真面目に言うから、蒼は布団に顔を埋めた。

 恭弥は苦笑しながら、その上からそっと髪を撫でた。


 窓の外では、朝の光が静かに揺れていた。

 ふたりだけの新しい生活が、ゆっくりと始まっていく。


朝の光が完全に部屋を満たす頃、

恭弥はコーヒーを淹れ、テーブルに置いた。

湯気の向こう、蒼はまだベッドの上で小さく丸まっている。


「いつまで寝てる気だ」

低く落ち着いた声がする。


「……起きてますって」

布団の中から聞こえる小さな声。

けれどそのまま動こうとしない。


恭弥は眉をひとつ上げ、ゆっくりと近づいた。

「顔を見せろ」


「い、いやです……」

「なんでだ」

「だって……恭弥さん、昨日のこと……」


その言葉に、恭弥の口元がわずかに緩む。

「昨日がなんだ、また思い出したいのか」


蒼の耳まで真っ赤になる。

「や、やめてください……っ」

布団を頭までかぶった蒼の背を、恭弥は指先で軽く叩く。


「別に恥じることじゃない。夫夫になったんだ」

「そ、そういう問題じゃなくて……っ」

「じゃあどういう問題だ」


布団の中で、蒼がもごもごと呟く。

「……恭弥さんが、いちいち、そういう言い方するから……」


「どんな言い方だ」

「……わざと、からかってるような」


「からかってない。事実を言ってる」

その静かな声に、また赤くなって、蒼は顔を出せなくなる。


恭弥は少しだけ笑って、布団の端を引く。

「……隠れてても、俺は昨日の顔を覚えてる」

「も、もうやめてください……っ」

ようやく顔を出した蒼の頬は、火がついたように赤い。


恭弥はそんな蒼を見つめたまま、軽く息を吐く。

「あぁ、そういう顔、俺しか見られないんだな」

「な……っ、恭弥さんってほんと、ずるい……」


「ずるい?」

「……そうやって真面目な顔で、恥ずかしいこと言うから」


恭弥は苦笑し、ベッドの端に腰を下ろした。

「うん…お前が拗ねる顔も悪くない」


蒼はぷいっと顔を背けたまま、

「知らないです」と呟く。


しばらく沈黙が続き、

カーテンの隙間から朝風が吹き込む。


恭弥はそっと蒼の髪を撫でた。

「昨日の話をしても、拗ねるだけか」


「当たり前です……」

「なら、これで終わりにする」


そう言って、恭弥は蒼の額に口づけた。

驚いて目を見開く蒼の視線を受け止め、低く囁く。


「……恭弥さん、ほんとずるい」

「そう言っても、離れないだろ」


「……離れません」


蒼はベッドの脇で、鏡の前に立ってシャツを手にしていた。

寝癖をきちんと直して、カーディガンのボタンを留めようとして

ふと、背中に視線を感じる。


「……恭弥さん?」

振り向くより早く、後ろから腕が回された。


「っ……!」

肩をすくめた蒼の背に、恭弥の低い声が触れる。

「朝から落ち着かない格好だな」


「ま、待ってください、まだ着替えてる途中です!」

「見りゃわかる」

「じゃあ見ないでください!」


蒼の抗議など意にも介さず、恭弥は背中に顔を寄せ、髪の香りを吸い込んだ。そのまま下腹部に手を回しゆっくりと力を込める。


その仕草に、蒼は耳まで真っ赤になる。


「ん……恭弥さん、ほんと、すけべ」

「ほう」

恭弥の口元がわずかに笑う。

「すけべ、ね」


「そうですよ!」

「すけべで上等だ」


「な、なに言ってるんですか!」

蒼が慌てて振り返ると、恭弥の腕はそのまま、離す気配もない。


「お前が可愛いから悪い」

「理由になってません……っ」

「俺の中では十分な理由だ」


淡々と告げる声に、蒼は言葉を失う。

顔を逸らしたその頬を、恭弥の指がゆっくりとなぞった。


「……朝くらい、少し甘えてもいいだろ」

「だめです、朝からそんな……」

「そんな、とは」

「……そういうことです」


恭弥は短く息をついて、蒼の肩口に唇を落とした。

「言い方が曖昧だな。もっとはっきり言え」


「い、言いません!」

蒼が慌てて身をよじるが、恭弥の腕はそれを逃がさない。


恭弥の喉の奥から、低い笑いが漏れた。

「そんな顔するな。そそる」


「もう、知りません」

ぷいと顔を背ける蒼の髪に、恭弥は軽く口づけた。


「朝飯の前に少しくらい、俺の相手しろ」

「……っ、ほんとにすけべ……」

「上等だって言ってるだろ」


その言葉に、蒼はまた真っ赤になって黙り込んだ。

静かな朝の部屋で、ふたりの呼吸だけが重なっていた。

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