1年後

式の朝。

 鏡の前に並んだ蒼は、そっと手を伸ばして、顔を覆っていた白いガーゼを外した。


 右の頬に、くっきり残る醜い痕。

 まるで頬の半分をなぞるような古傷が、白い肌の上で光っていた。


 「……」

 蒼は無意識にその傷を指先で触れた。

 何度も、何度も。


 

(汚いな。)


 心の底から、そう思ってしまう。


 ガーゼで隠していた日々のほうが、気持ちはまだ楽だった。

 こんな顔で、みんなの前に立つのか。

 あの人たちは、どう思うだろう。


 「蒼」

 恭弥の声で、はっと我に返る。

 鏡越しに目が合う。

 「それ、気にしてるのか」

 「……だって、目立ちます。式に出るのに、こんなの……」

 蒼はまた頬を撫でようとしたが、恭弥がそっとその手を取った。


 「触るな」

 「え……」

 「傷でもなんでも、お前の顔だ。俺は好きだ」


 その言葉に、蒼の呼吸が止まる。

 ふと視線を落とすと、恭弥の手が自分の手の上に重なっていた。


 温かくて、強い手。


 怖くない、と言われているようだった。


 式場に入ると、恭弥の両親もすぐに気づいた。

 母親が近づき、まっすぐに蒼の頬を見た。


 「これが、あなたの生きてきた証ね」

 その声に、蒼が一瞬固まる。

 しかし次の瞬間、母親は微笑んで手を伸ばした。

 「綺麗よ。ちゃんと前を見てる人の顔だもの」


 「……そんな」

 「本当よ。ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」

 母親が振り向くと、恭弥の父親も静かに頷いた。


 「人間は、完全な顔より、戦ってきた顔のほうが強い」

 低い声でそう言うと、父親は軽く肩を叩いた。

 「誇れ。隠すな」


 蒼は唇を噛んだ。

 胸の奥が、熱くなる。

 「……ありがとうございます」


 母親は優しく笑い、ハンカチを差し出した。

 「いいの。泣いてもいいのよ、けどね、うつむかないで」


 恭弥が横で静かに言う。

 「もう隠すな。お前がここまで生きてきた証だ。俺はそれごと、お前を愛してる」


 その言葉に、蒼はようやく頷いた。

 鏡の中の傷を見つめても、もう涙はこぼれなかった。

 それは醜さではなく、確かに“自分”の一部としてそこにあった。


 式場の扉が開き、光が差し込む。

 恭弥が手を差し出す。

 蒼はその手を取って、一歩を踏み出した。


 もう、隠す理由なんてどこにもない。


 結婚式場は、花の香りと祝福の声で満ちていた。


 天井の高いホールにはシャンデリアが輝き、柔らかな光が赤い絨毯の上を流れていく。

 恭弥と蒼がゆっくりと歩みを進めるたびに、拍手とフラッシュの光があがった。


 完璧な式だった。


 恭弥の家の力もあって、豪奢な装飾に音楽、料理まで、すべてが一流。

 お義母さんは朝から泣き通しで、恭弥の知り合いや関係者もずらりと並んでいた。


 けれど、その賑やかさの中で、

ただひとつだけ、空席があった。


 「……」

 蒼は式の最中、その“空白”から目を離せなかった。

 親族席の端。そこだけぽっかりと、何もない。

 本来なら、自分の家族が座るはずの場所。

 花に囲まれた白い椅子が、静かにぽつんと取り残されている。


 笑顔を保とうとしても、胸の奥がずっと痛んだ。

 その痛みを、恭弥は横目で気づいていた。


 だが、彼が動こうとするより早く


 「はい、蒼くん!」


 突然、明るい声が響いた。

 お義母さんだった。

 スカートを揺らして小走りにやって来ると、蒼の目の前にすっと立った。

 ちょうど、空席が彼の視界から見えなくなる位置。


 「どう? 緊張してない? もう最高に素敵よ!」

 その言葉に、蒼は少し目を瞬かせる。

 「え、あ……ありがとうございます」


 「ねぇねぇ、見た? あそこの花、あなたの好きな色なのよ!」

 「え……本当だ……」


 お義母さんは、まるで子供を励ますように、蒼の肩に手を置いて次々と話しかけた。

 「みんな、あなたのこと見てるのよ。こんなに綺麗で、優しい子が恭弥の隣にいるなんて、誰だって羨ましがってるわ!」

 「そんな、僕なんか……」

 「だーめっ。“僕なんか”は禁止したでしょ!」

 明るく言いながら、指を振る。


 その笑顔に、蒼の頬が少し緩んだ。


 お義母さんはさらに続けた。

 「それにね、さっき会場のスタッフさんが言ってたの。『あの二人、理想の夫夫だって』。ほら、嬉しいでしょ?」

 「……はい」

 蒼の声がほんの少し震えた。


 お義母さんは、その微かな震えを感じ取りながらも、あくまで明るく笑った。

 「この日をずっと楽しみにしてたのよ。あなたのドレス姿……じゃなくて、スーツ姿!本当に似合ってる!」


 周囲のざわめきと拍手の中、蒼はようやく笑顔を取り戻していった。


 空席の存在を、今はもう見ないようにして。

 お義母さんは、それを分かっていた。


 自分が立ち続けていれば、蒼はもう過去を見ずに済むと。


 「ほら、顔を上げて」

 お義母さんがそっと蒼の顎に指を添えた。

 「今日のあなたは、うちの家族の誇りなんだから」


 その言葉に、蒼の胸の奥がじんと熱くなる。


 家族。


 その響きに、どこか遠いものを感じてきた。

 けれど、今は違った。

 この人たちは、確かに自分を迎えてくれている。


 式が終わり、写真撮影の時。

 蒼がカメラに向かって微笑むと、すぐ隣でお義母さんが囁いた。

 「ね、いい笑顔」

 蒼は小さく頷き、恭弥の手をそっと握った。


 本当の家族は、今ここにいる。

 その実感が、静かに胸の奥に広がっていた。

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