早川の名前

薄暗い部屋に、時計の針の音だけが響いていた。

静まり返った空間の中で、


蒼はまるで息をすることさえ忘れたように硬直していた。肩は上がり、指先は強く握りしめられている。


恭弥はその様子をじっと見て、低く息を吐いた。

「……大丈夫か?」

できるだけ穏やかに声をかけたが、蒼は返事をするどころか、体をさらに強ばらせてしまう。


恭弥は困ったように眉を寄せ、そっと手を伸ばした。

「蒼、大丈夫だから…何も怖いことは」


その瞬間だった。


張りつめた糸がぷつんと切れるように、蒼が勢いよく恭弥にすがりついた。

「…っうぅ…恭弥さんっ!こ、怖かったです……!」


押し殺したような声で、しかし堰を切ったように涙がこぼれ落ちる。

胸元を握りしめて泣きじゃくる蒼の震えが、恭弥の腕に伝わった。


「……おい、蒼……」

思わず驚いて目を瞬かせる。

あまりにも子どもみたいに泣くから、

どうしたらいいのかわからなかった。


けれど次第に、蒼の小さな肩の震えがゆっくりと落ち着いていくのを感じて、恭弥は息を吐く。

「……やっと力抜けたな」

少しだけ苦笑して、乱れた髪を指先で整えた。


蒼は恭弥の胸に顔を押しつけたまま、涙混じりの声でかすかに「ごめんなさい……」と呟いた。

「謝るな。泣けるくらいなら、もう大丈夫だ」


そう言って、恭弥は静かにその背を撫でた。

部屋の中はまだ静かだったが、先ほどまでの重苦しい沈黙とは違って、どこか柔らかな空気が流れていた。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈




あの日から、数日が経った。

 恭弥の父親が激しく恭弥を怒鳴りつけた日のことは、蒼の中にまだ鮮明に残っていた。


 恭弥は普段通りに振る舞っているが、蒼の手を取るとき、声をかけるとき、そのどこかに「気遣い」が混じっているのがわかった。



 その日の午後、呼び鈴が鳴った。

 玄関へ向かった蒼は、その音だけで肩を跳ねさせる。

 ドアの向こうに立っていたのは、スーツ姿の恭弥の両親だった。父親の背筋はまっすぐに伸び、母親は穏やかに微笑んでいる。


「……こんにちは、蒼くん。少しだけ、時間をもらえる?」

 母親の声は柔らかく、それがかえって蒼の緊張を際立たせた。


「母さん…」

 背後から現れた恭弥が、低く言う。

 父親と視線を交わした瞬間、部屋の空気が一気に張り詰めた。


 テーブルを挟んで四人が向かい合う。

 母親は丁寧に頭を下げ、そして父親も、しばらく無言ののち、深く息を吐いて言葉を紡いだ。


「……先日は、言い過ぎた。息子の選んだ相手を、あんなふうに扱うべきじゃなかった」


 低く響く声に、蒼は思わず震えてしまう。

 その小さな仕草を、恭弥は横目でとらえていた。


「…あ、い、いえ。僕のほうこそ……ご迷惑を……」

 声が震えて、途中で途切れる。

 父親は困ったように視線を落とし、隣の母親がそっと彼の袖をつまむ。


「ねえ、あなた。そんなに堅くならなくても」

「……わかってる」


 父親はようやく、真っ直ぐに蒼を見る。

 その目に怒りの影はもうなかった。ただ、深い後悔の色だけがあった。


「蒼くん、といったな、私は、息子が誰と生きようと、それを止める権利はないと思っている。

 ……君がそこまで怯えるほど、私は酷いことをしてしまった。すまなかった」


 その言葉に、蒼の指がわずかに震えた。

 何か言いたいのに、言葉が喉につかえて出てこない。


 代わりに、恭弥が静かに口を開いた。


「……蒼は、まだ怖いと思ってます」

 淡々とした声だった。


「でも、それは当然です。俺だって、あの場にいたが二度と顔を見たくないと思っていた。それでも、こうしてもう一度来てくれたことは、感謝してます」


 恭弥の言葉に、父親の目が僅かに揺れる。

 しばしの沈黙のあと、彼はゆっくりと頷いた。


「……ありがとう。恭弥、蒼くん。少しずつ、信頼を取り戻せたらいい」


 母親が優しく笑う。

「あなたたちらしく生きていきなさい。焦らなくていいわ」



机の上に乗った焼き菓子の甘い香りが、ようやく張りつめていた空気を少し和らげていた。

 母がカップを置き、ふと恭弥と蒼の顔を見比べる。

 「それにしても」

 柔らかい笑みを浮かべながらも、その瞳は観察するように鋭かった。


 「二人とも、顔が絆創膏とガーゼだらけね。……怪我をしたの?」


 その言葉に、恭弥が一瞬だけ息を止めた。

 父が視線を上げ、短く眉を動かす。

 そして母の穏やかな笑みが一瞬にして無表情に変わり、ゆっくりと問うた。


 「まさかとは思うけど。恭弥?あなた、なにかやらかしたんじゃないでしょうね。」


 ピシ、と音がしたような気がした。

 リビングにあった柔らかな空気が、一瞬で張りつめる。


 恭弥と父の表情が同時に沈み、蒼は思わず息を呑んだ。


 母の声は静かで優しかったが、無表情で、そこには確かな圧があった。


 「早川の名を持つ者が、“負けて傷を負う”なんて、笑い話にもならないもの。」


 その言葉に、蒼の心臓が強く跳ねた。

 恭弥の母の目は鋭く、冗談を言う人のそれではなかった。


すべてを理解しているような口ぶり。


 彼女は、息子のしていることを、とうに知っているのだ。


 ただ、負けたかどうか。それだけが彼女にとっての一線だった。


 「母さん」

 恭弥の声が、静かに低く響いた。

 「……その話は、やめろ。蒼がいる。」


 母が一瞬、目を瞬かせる。

 しかしその顔に焦りはなく、むしろ落ち着いていた。


 「確認しただけよ。あなたが“勝って”帰ってきたなら、それでいいの。」



 「……食らってやった、って顔ね。」


 恭弥の唇がわずかに歪む。

 「母さんまで父さんみたいなことを言うな。」


 「大体同じ血よ。」

 その一言に、父が小さく笑う。

 それは皮肉にも似ていたが、どこか誇らしげでもあった。


 「ま、いいわ。」

 母が小さく手を振る。


 「早川が地に名を落とさない限り、私は何も言わないわ。」


 その瞬間、空気の棘がすっと和らいだ。

 母は再び穏やかな笑みを取り戻し、テーブルの上に焼き菓子を並べ直した。

 「ねえ蒼くん、このタルト気に入った?作り方教えましょっか?」


 唐突に明るさを取り戻した声。

 けれど蒼の心はまだ、冷たい緊張の余韻の中にいた。


 “早川が負けたら許されない”

 その言葉の重さが、じわじわと胸に沁みていく。


 

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