世間体を気にする

チャイムが鳴った瞬間、蒼は洗濯物を畳む手を止めた。


宅配なんか頼んでいない。


 胸の奥が、ざわりと波打つ。

 インターホン越しに聞こえたのは、低く、鋭い声だった。


 「早川恭弥はいるか。」


 その声を聞いた瞬間、リビングにいた恭弥が顔を上げた。


 無言のまま立ち上がり、玄関へ向かう足取りには、明らかな警戒があった。


 扉を開けた瞬間、空気が変わった。


  そこに立っていた女性は、結んでいない黒髪をそのまま背に流していた。


 光を受けてさらりと揺れる髪は驚くほど艶やかで、年齢を感じさせない。

 肌は透き通るように白く、微笑むたびに柔らかい影が頬に落ちる。

 目元の形は恭弥とよく似ていて、少し尖った線をしているのに、表情が豊かだからか不思議と怖さは感じなかった。


 対して、隣にいる男性は全く印象が違った。

 髪は一筋の乱れもなく綺麗にオールバックに撫でつけられ、仕立ての良いスーツを隙なく着こなしている。

 立っているだけで、空気が張り詰めるような圧があった。

 大柄な体格も相まって、その姿はまるで一枚の絵のように整っているのに、誰も近寄れない威厳を纏っていた。


 2人は、恭弥の両親だった。


 「父さん……母さん……なんでここに」


 「なんで、だと?…お前が“男を家に住まわせている”と聞いた。恭弥、事実か。」


 空気が重く落ちた。

 蒼は息を詰め、そっと恭弥の背後に身を隠した。


 男の声は低く、静かなのに怒りがはっきりと滲んでいる。


 「……事実だ。」


 恭弥の声が響いた瞬間、父親の眉がぐっと吊り上がった。

 「恥を知れ。そんなことで世間に顔向けできると思っているのか。」


 母が小さく息をついた。

 「あなた、まずは落ち着いて」

 「黙っていろ!」


 その一喝に、蒼の肩が跳ねた。

 恭弥の腕がさりげなく伸び、蒼の手を後ろで掴んだ。

 

まるで「大丈夫だ」と言うように。

 けれどその手のひらは、驚くほど冷たかった。


 「蒼、聞くな、部屋に行ってろ」


 「……いえ。僕、ここにいます」


 声が震えた。けれど、引けなかった。


 「僕は、恭弥さんが」


 「君は黙っていなさい。」

 父の視線が蒼に突き刺さった。

 その冷たい一言に、喉の奥が詰まったように言葉が出ない。


 「彼に言う資格はない。」

 恭弥が低く返す。

 「蒼は俺が選んだ。」


 その一言で、場の空気が一気に張り詰めた。

 父親の表情が変わり、拳がわずかに震える。


 「お前がそんな“選び方”をする人間だったとはな。」


 「父さんが何を望んでいようと、俺の人生だ。」


 静かに、しかし強く言い切った恭弥に、蒼は息を飲む。その背中は、まっすぐで、恐ろしいほど揺るがなかった。


 なのに、掴まれた手は、ほんの少し震えている。


 「……この家に、彼がいる理由はなんだ。」

 父が、蒼を見た。

 視線が刺さる。

 逃げたいのに、足が動かない。


 「……その、僕……」

 声がかすれた。

 恭弥が手を握る力を少し強める。

 「俺が連れてきた。蒼の意思じゃない……最初はな。」



 父が冷ややかに鼻を鳴らす。

 「つまり、強引に引き込んだと?」



 「今は違う。」

 「証拠は?」


 恭弥の眉がぴくりと動いた。

 怒りを飲み込むように息を吸い込み、目を伏せた。


 その沈黙の間に、母が静かに口を開く。

 「ねえ、あなたが怒るのもわかるわ。

でも、見なさいよ。恭弥、こんなに真っ直ぐに誰かを庇ってる。」


母の言葉が最後まで届くより早く、父の低い声がそれを遮った。


 「庇っているだと? “庇う”などというのは、恥を自覚している者のすることだ。」


 その冷たい声に、蒼の背筋がびくりと震えた。

 父の視線が一瞬たりとも外れない。まるで罪を断ずるような目だった。


 「お前は“早川”の名を背負って生まれた。その名がどれほどのものか、忘れたのか?」

 「忘れてない。」

 恭弥の声は低く、抑えた怒りを含んでいる。


 「ならば何故、その名を穢すような真似をする。」


 「俺の生き方が“穢れ”だと?」

 「違うとでも言うのか。」


 その一言に、部屋の空気が一段と冷えた。

 父の声には、感情よりも“裁き”のような重さがあった。


 「お前は裏で生きている人間だ。そこに一般人を巻き込んでどうするつもりだ。」


 恭弥の眉がぴくりと動いた。

 その一瞬を、父は見逃さなかった。


 「……やめろ。」

 恭弥の声が低く掠れた。

 その声音に母がはっと顔を上げ、蒼が不安げに彼を見る。


 父の唇が冷たく歪む。

 「やめろ? お前の裏の顔を彼に隠しておきたいというのか。」


 「黙れ!」

 恭弥の声が鋭く跳ねた。

 だが父は止まらない。


 「血に手を染めて生きるお前が、人を守ると?笑わせるな。見た感じ、彼は…まだ知らないようだな。」


 その言葉が落ちると同時に、蒼の呼吸が乱れた。

 視線が自然と恭弥の横顔へと吸い寄せられる。

 彼の拳が震えているのが見えた。


 「恭弥さん……?」

 掠れた声で呼ぶと、恭弥は一瞬だけ目を伏せた。

 だが父はその様子を冷静に観察しながら、さらに言葉を落とした。


 「彼がお前の近くにいる限り、いつか彼も“血の臭い”を嗅ぐことになる。お前が何をしているのか、お前の世界にどれだけの闇があるのかを。」


 蒼の唇が震えた。

 言葉が出ない。

 目の前の空気が一気に遠くなったような感覚に襲われる。


 恭弥の指先が、かすかに蒼の袖を掴んだ。

 だがその力はどこか弱々しく、いつものような確信がなかった。


 父が続ける。

 「早川家は、綺麗事で成り立っていない。お前のする事は全て、“汚れ”そのものだ。そんな場所に、彼を置くのか。」


 「……黙れって言ってる。」

 低く、唸るような声。


 だがもう遅かった。

 蒼はその場で、足元がすくむように一歩引いた。

 心臓の鼓動が痛いほど響く。


 恭弥はその一歩を見逃さなかった。

 視線が、痛みのように蒼の動きを追った。


 「……蒼。」

 呼んでも、蒼は答えられなかった。

 恐怖が、無意識に体を支配していた。


 恭弥の顔に、ほんの一瞬だけ影が落ちる。

 その目は、絶望の色をしていた。


 「やっぱり、こうなるのか。」

 小さく吐き出す声は、自嘲にも似ていた。


 父が冷たく言い放つ。

 「それが現実だ。情を持つから脆くなる。お前が選んだ世界に、そんな温度は不要だ。」


 その瞬間、恭弥が父の胸ぐらを掴んだ。

 「お前が…お前が全部壊したんだ!」


 「違うな。壊したのは、自分自身だ。」

 父の静かな声に、恭弥の手が強張った。


 沈黙の中で、蒼の小さな息が震える。

 それを見た恭弥の表情が、さらに崩れていった。


 「……そんな顔で、見ないでくれ。」


 声は、怒鳴り声ではなかった。

 ただ、何かを守れなかった人間の、壊れそうな低さだった。


 沈黙が落ちた。


 恭弥の手はまだ父の胸ぐらを掴んだままだった。


 その緊張を裂くように、震える声が響く。


 「……僕は…恭弥さんと、絶対に離れません。」


 その声の主は、蒼だった。

 唇を強く噛みしめ、肩を震わせながら、それでも一歩前に出た。


 「どんなことがあっても、僕は恭弥さんのそばにいます。」


 その言葉に、恭弥の指先がわずかに動いた。

 父の胸倉を掴んでいた手が、力を失うように離れていく。


 父は蒼を見た。

 氷のように冷たい目だった。


 「……震えているな。」

 低い声が、静かに落ちる。


 蒼の肩がびくりと跳ねた。

 それでも視線は逸らさなかった。




 「勇気があると言えば聞こえはいい。だがお前はただ、本当に怖いものを知らないだけだ。」


 その言葉には、ぞくりとするような静けさがあった。

 まるで「現実を知れば、その強さなど簡単に壊れる」と告げるように。


 恭弥が再び一歩前に出ようとしたその瞬間


 「あなた。」


 母の声が鋭く割り込んだ。

 柔らかい声なのに、不思議と強い。


 「もうやめて。これ以上は、ただ脅しているだけよ。」


 父が視線を向けた。

 だが母は怯まなかった。


 「私たちは、最初から確かめに来ただけでしょう? この関係が、歪なものじゃないかどうか。」


 その言葉に、部屋の空気が少し動いた。

 母はゆっくりと恭弥と蒼の方を見た。


 蒼はまだ小刻みに震えていたが、その手は恭弥の袖を掴んだまま離さなかった。

 恭弥も、蒼の手を包むように握り返している。


 「……見たところ、少なくとも恭弥の支配や依存には見えないわね。」

 母は小さく息を吐き、静かに笑んだ。


 「あなたたち、ちゃんとお互いを見てる。だから、今回はそれでいいと思うわ。」


 父がわずかに眉をひそめた。

 「本気でそう言うのか。」


 「ええ。本気よ。」

 母はまっすぐに父の目を見る。

 「あなたは、あの子が何を選んでも最終的に自分で責任を取る人間だって知ってるでしょう?」


 しばしの沈黙ののち、父はゆっくりと息を吐いた。

 「……勝手にしろ。」


 そう言って踵を返そうとした瞬間、母が蒼の方に微笑みを向ける。


 「驚かせてごめんなさいね。本当は、ただ“どんな子か”見に来ただけだったの。……大丈夫、あなたたち、健全に見えるわ。」


 その穏やかな笑みは、さっきまでの冷たい空気をやわらげた。


 「この人は、私が説得しておくから。また後日落ち着いた頃に、改めて顔を出すわね。」


 そう言って、母は父の腕を軽く引いた。

 父は不満そうに眉を寄せながらも、抵抗しなかった。


 門へ向かう二人の背中を、恭弥は沈黙のまま見送った。


 扉が閉まったあとも、部屋にはまだ、あの男の残した緊張が薄く残っていた。


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