傷を隠した
玄関の灯りがついて、遅く帰ってきた恭弥が無言で靴を脱ぐ。
めずらしくマスクをしていた。
コートを脱いで、いつもより動きが固い。
「……風邪、ですか?」
蒼が控えめに声をかけると、恭弥は小さく首を振った。
「気にするな」
その声は短く、少し掠れていていつもより低かった。
それでも蒼は心配で、薬や冷えピタまで用意した。
食卓についた恭弥は、マスクを外さずに、下の部分だけずらして食べる。
器用にスプーンを運ぶ姿に、蒼の眉が寄った。
「……ほんとに、風邪じゃないんですか?」
「違う」
「じゃあ……どうしてマスクを?」
「気分だ」
それ以上は何も言わず、食事を終えた恭弥はソファに座る。
ネクタイを緩めて目を閉じる彼に、蒼はためらいながら近づいた。
「……恭弥さん」
「ん」
蒼は膝の上に跨って、胸に額を預けた。
恭弥は動かない。ただ静かに息をしている。
甘えると思ったら…そのまま、蒼は伸ばした指でマスクの端を掴んだ。
一瞬のためらいのあと、グイ、と下げる。
「っ!」
蒼の手が止まった。
恭弥の頬に、殴られた跡。鼻には詰め物。
うっすら乾いた血。
「……なに、これ」
「戻せ」
「でも」
「戻せって言ってるだろ!」
怒鳴り声が響いた。
蒼の肩が震える。恭弥は顔を背け、拳を強く握った。
「勝手に見るな。お前に関係ない」
「でも、け、怪我してるじゃないですか!」
「放っておけ」
息が荒くなる。
蒼が何か言おうとしても、恭弥の目がそれを封じる。
強く、怖いほどの怒気が漂って、空気が張りつめた。
「俺のことは、俺がなんとかする」
その一言に、蒼は何も返せなかった。
部屋の空気は凍ったまま。
ただ、恭弥の拳の震えだけが、静かに夜を震わせていた。
蒼は震える手で、恭弥の頬についた血を服の端でそっと拭おうとした。
「…っう…でも、血が」
小さな声が震えて、涙がぽろりと落ちる。
恭弥は目を細め、怒りを抑えきれず低く唸る。
「俺が買ってやった服で拭くとは、いい度胸してるな……」
その声に、蒼はさらにびくっと肩を震わせ、涙が溢れる。
「あ、ちがっ僕……」
そのまま何を思ったのか蒼は恭弥に顔を近づけて、恭弥は蒼の頬についた血を舐めようとする仕草を見た瞬間、恭弥は全力で制する。
「おいっ!絶対にダメだ!お前にはティッシュで拭く選択肢はないのか!」
低く響く声に、蒼は目を大きく見開いたままハッとする。
「……わ、わかりました……!」
膝の上から急に飛び降り、慌てて部屋の隅にある救急箱まで駆ける。
両手でしっかり抱え、パタパタと足音を立てて戻ってくる。
「…これで、ちゃんと拭きます……!」
息を弾ませ、震える手で包帯やティッシュを差し出す蒼。
恭弥は少しだけ息を整え、冷たい視線を蒼に向けたまま、まだ怒気を帯びたまま静かに言う。
「……やっと、まともな選択をしたな」
部屋には張りつめた空気だけが残った。
その緊張に、蒼はまた肩を震わせながらも、必死に傷を処置しようとする。
蒼は救急箱からそっとガーゼを取り出し、恭弥の頬をゆっくりと拭った。
薄い血の色が白い布に滲む。けれど蒼の指先は、その痛々しさよりも、恭弥の整った顔立ちの方に吸い寄せられてしまう。
目元のライン、鼻筋。
あんなに怒っていたのに、こうして間近で見ると、息をのむほど綺麗だった。
(もし、この顔に傷が残ったら。)
そんな考えがふと頭をよぎり、胸の奥がきゅっと痛んだ。
ぼんやりしていた蒼に、恭弥が低く問いかける。
「……今、何考えてた」
「えっ……い、いえ、なんでも……」
視線が泳ぎ、言葉が喉でつっかえる。
恭弥はわずかに眉をひそめ、次の瞬間
蒼の脇腹を指で軽くつついた。
「……ひゃっ!? な、なにするんですか!」
体が跳ね上がる。蒼の声が裏返った。
「言えよ」
恭弥は淡々とした声で続け、もう一度、同じ場所をつつく。
「これ以上そこを突かれたくないなら、ちゃんと答えろ」
蒼は顔を真っ赤にして、慌てて両腕で脇腹を押さえた。
「っあ…んっや、やめてくださいっ言いますから!」
「じゃあ言え」
少し間を置いて、蒼はしどろもどろに言葉をこぼす。
「……その、恭弥さんの……顔に、傷がついたらどうしようって……思ってました」
恭弥は一瞬だけ目を見開き、そしてふっと息を吐いた。
「……そんなことか」
呆れたように言いながらも、声はどこか優しかった。
蒼はますます赤くなり、俯いたままガーゼを握りしめる。
恭弥は蒼の脇腹に再び指を伸ばす。
「……大げさなやつ」
呟きながら、ふと笑みがこぼれる。
「ひゃっ、ちょっ、もうやめてください! 答えたらもうつつかないって、言ったじゃないですか!」
蒼は顔を赤くして、必死に両腕で脇腹を押さえながら、ぷりぷりと抗議する。
恭弥はその様子を見て、声を上げずに肩を震わせながら笑った。
「……わかった、わかったよ。悪かった」
それでも微笑む顔には、いたずらっぽさが残っていて、蒼はなおもムッとした表情を隠せない。
「……ふん、もう、信じませんから」
「信じなくていい。でも、今のは可愛いな」
恭弥のその言葉に、蒼はさらに顔を真っ赤にしながら、うつむいてしまった。
脇腹の戦いは終わったけれど、恭弥の笑みは、蒼の胸をじんわりと熱くさせていた。
手当がひと段落して、蒼は油断した恭弥の横顔を見つめた。
ふと、思いつきで小さく指を伸ばして脇腹をつついてみる。
「ん…」
恭弥はわずかに声を漏らしたものの、すぐに何事もなかったかのように落ち着いた。
蒼はびっくりして、指を止めて顔を見上げる。
「……恭弥さん、こういうの強いんですか?」
純粋な疑問の声に、恭弥は一瞬考えるように目を細めた。
「そうだな……」
その後、低く微笑むと、蒼の肩を軽く押した。
「俺に反撃をしてくる生意気な奴には、お仕置きでもしてやらないとな」
言葉の端に、楽しげな色気が混ざる。
蒼が一瞬理解できずに固まった瞬間、恭弥は指先をくすぐるように滑らせた。
「ひゃっ、や、やめ……っ」
蒼の声を聞くと、恭弥は笑みを深め、全身に手を伸ばす。
腹、脇、足裏……容赦なく、くすぐりの嵐。
「や、やめ…っ、恭弥さんっ!あふっ…ひっ!や、やめてっください!んっ」
蒼は両手で必死に防ごうとするが、恭弥の手は柔らかく、そして確実に蒼を責める。
「……これで生意気な態度も直るだろ?」
低い声に笑いが混ざる。
「うわぁっ……も、や、やめ、もう……んっだめ…恭弥さんっ…!」
蒼は涙目で笑いと悲鳴を混ぜながら、全身を悶えさせた。
恭弥はそんな蒼の反応を楽しみつつ、くすぐりを続けた。
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