涙の止め方

部屋の空気が、凍りついていた。


恭弥は、目の前で小さく震える蒼を見下ろしたまま、呼吸の仕方を忘れていた。


さっきまでの穏やかな会話が嘘みたいに遠い。


蒼は、ソファーに体を沈みこんで、両手で顔を覆っていた。


涙が指の隙間を濡らして、震えた声が零れる。

「…ひっ……うぅ、やだ……もう……」

かすれた声が、ひどく幼く響く。


恭弥は、ようやく自分が何をしていたのかを理解した。

怖がらせるつもりなんて、なかったのに。

ただ、「もう黙ってくれ」と思って口を塞いで、顎を掴んで……思い出せば思い出すほど相当な事をしていた事を思い出して、心に罪悪感だけが溜まっていく。



「……悪い」


喉の奥からようやく出たその言葉は、息のようにかすれていた。

けれど蒼は反応しない。肩が小刻みに揺れるだけだ。


恭弥はその場にしゃがみ込んで、蒼の目線に合わせようとする。

手を伸ばす。けれど、蒼の肩に触れた瞬間、びくりと身体が跳ねた。

その仕草があまりにも痛かった。


「……蒼」

低く呼びかける。返事はない。

涙の音だけが、静かな部屋を満たしている。


恭弥は焦った。どうしたらいいのか、わからない。


慰める言葉なんて、思いつかない。

方法なんて、教わったことがない。


代わりに頭に浮かんだのは、どうしようもなく不器用な発想だった。


寝たら、落ち着くかもしれない。


「……もういい。寝よう」

そう言って、立ち上がると蒼の腕を掴んでグイッと引いた。

「いっ、いたいっ……えっ?」

蒼が涙声で戸惑う。

「寝たら、泣き止む、絶対大丈夫だ。」

そう言いながら、ぐいぐいとベッドに連れて行く。


蒼は抵抗するでもなく、困惑したまま引かれていった。

ベッドに押しつけられるように座らされ、恭弥に布団を掛けられる。

けれど、横になっても泣き止まない。

涙がまた、枕に染みていく。


「……一体どうすれば、いいんだ…」

恭弥がぽつりと呟いた。

その声は、怒鳴りでも命令でもなく、ただの人間の声だった。

蒼のほうを見つめたまま、眉を寄せて、息を詰める。


「なぁ……蒼、俺はどうすればいい」

真正面から問いかけたその瞬間、蒼の泣き声が少し止まった。

でも、それは恐怖が増したからだ。

恭弥の真剣すぎる目が、また怖かったのだろう。


蒼は小さく首を横に振って、声にならない息を洩らした。

恭弥はそれを見て、また自分の無力さを噛みしめる。


静かな部屋の中で、泣き声と呼吸だけが重なっていった。


蒼は、涙の余韻を残したまま、枕に顔を埋めていた。


すすり泣きがまだ途切れない。


恭弥はその横に同じように寝転がって、何も言えずに見つめていた。


「……優しくして、ください……」

掠れた声が、布越しにこぼれた。

あまりにも小さな声で、けれど確かに聞こえた。


恭弥は息を止めた。

「……優しくしてるだろう」

低く返した声は、どこか強がっていた。


だが蒼は、何も言い返さなかった。

ただ枕を濡らし続ける。

その沈黙が、恭弥の胸をひどく締めつけた。


「……」

何を言えばいいのか、ほんとうにわからない。

怒鳴るでも、慰めるでもなく、ただ息が詰まっていく。


しばらく黙ったまま、恭弥は迷うように蒼に手を伸ばした。

指先で頬をなぞると、涙がまだ温かくて、喉が詰まった。

そのまま軽く頬に唇を寄せる。


「っひ……う…」

蒼の肩がぴくりと震えた。


恭弥は言葉をやめた。

頭に触れ、髪を指でとかすように撫でる。

「ん……恭弥さん、くすぐったい…」


肩を包み、背を静かに撫でる。

無言のまま、何度も。


最初は蒼が小さく身をこわばらせていた。

それでも逃げない。

やがて、呼吸が少しずつ穏やかになっていった。


恭弥は、その変化を確かめるように動きを緩める。

蒼の目が、まぶたの裏で小さく震えたあと、やっと静まる。


眠ったのだと気づいた瞬間、


恭弥の肩から力が抜けた。


泣きはらした頬に指を滑らせて、深く息をつく。

「……やっと、寝たか」

掠れた声が、夜に溶ける。


そのまま蒼の髪に手を置いて、

安堵と後悔が入り混じっていた。


本当に、わからない。どうすればよかったのか。


けれど、今はもう、泣き止んでいる。

それだけで十分だと思うしかなかった。






朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


静まり返った部屋の中で、蒼はまぶたをゆっくりと開ける。

まだ少し、目の奥が熱い。泣き疲れたせいだ。


隣には恭弥がいた。

寝返りを打つでもなく、同じ姿勢のまま眠っている。


その手が、蒼の髪の上にそっと置かれていた。

大きな恭弥の手が蒼の頭を包み込んでいた


ずっと、撫でてくれてたのか。


髪の毛が少し乱れていて、でもその触れ方はあまりにも優しかった。

蒼は小さく息を吸い込んで、胸の奥がきゅっと熱くなる。

怖かった夜の記憶が、ほんの少しやわらぐようだった。


「……恭弥さん」

寝顔を覗き込みながら、蒼はそっと呟く。

目の下に少し影がある。

きっと眠れていなかったんだろう。


それでも、撫でてくれてた。

自分を泣き止ませようとしてくれてた。


ふと、笑みが漏れる。

「お返し、しないとですね……」


小さく身を寄せて、恭弥の頬に唇を触れさせた。

ほんの一瞬の、柔らかい音。


その瞬間

恭弥のまぶたがぴくりと動いた。


「……蒼?」

掠れた声。

目を開けた恭弥の表情が、一瞬で止まる。

数センチの距離で目が合った、ほんのり青の入った美しい瞳。


「おはようございます」

小さな声。

その頬に、ほんのり赤みが差している。


恭弥は言葉を失ったまま、数秒動かない。

朝の光が彼の瞳に差し込んで、静かに揺れた。


「…何してるんだ」

ようやく出たその一言が、やけに掠れている。


蒼はこくりと頷いた。

「昨夜、ずっと撫でてくれてたので…その、お礼です」


恭弥は眉をわずかに寄せ、何かを言いかけてすぐにやめた。

口の中で息を整えるように、ゆっくりと瞬きをする。


「……そうか」

それだけ言って、目をそらす。

耳の先まで赤くなっているのを、蒼は見逃さなかった。


恭弥の沈黙が、いつもよりずっと優しく聞こえた。

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