何をしている人なの?

蒼は布団の端をいじりながら、ようやく口を開いた。

「……じゃあ」

小さな声が、やわらかく空気を震わせる。

「僕のこと、嫌いにならないでください」


恭弥の動きが止まった。鋭い目が蒼をとらえる。


「……そんな願いか」

低く、掠れた声。


蒼はうつむいたまま、指先を握りしめる。

「僕……怒ったり、泣いたりしてばかりだから……いつか、嫌われるんじゃないかって……」


その言葉に、恭弥は短く息を吐いた。

「嫌いになるわけないだろ?」

静かに、けれど迷いのない声で言う。

「お前の全部、ちゃんと見てる。」


蒼の瞳が揺れて、唇がかすかに震えた。

その空気のまま、恭弥はふと微笑んだ。


「……でもな」


「せっかくだし、もう少し現実的な願いはないのか?」


その言い方が、ほんの少しだけ強く聞こえた。

蒼の肩が、びくっと跳ねる。


「え、あの…す、すみません、こういうこと、じゃなかった…ですかっ?」

声が震えて、言葉が絡まる。

「そういうつもりじゃ…ただ、そう思っただけで……」


「いや、違う、違う」

恭弥は慌てて手を伸ばした。

「責めてるわけじゃない、そういう意味じゃなくて……」


「ごめんなさい、僕、変なこと言って……」

「だから違う!」


声が重なって、二人の間の空気が一瞬張りつめる。

恭弥はすぐに口を閉じ、深く息を吐いた。


「……悪かった」

かすかに沈んだ声。

「俺の言い方が悪かった。責めたつもりなんて一つもない」


蒼は俯いたまま、かすかに頷く。

その肩が小さく震えていて、恭弥はそっと手を伸ばしてその手を包んだ。


「……お前が何を願っても、俺はちゃんと聞く」

「……」

「だから、もう一回だけ。ほんとの気持ち、言ってみろ」


少しの沈黙。

そして、蒼が小さく息を吐いて、ぽつりと呟く。


「……じゃあ」

「うん」

「……僕のこと、これからもちゃんと見ててください」


恭弥は目を細めて、小さく笑った。

「……なるほどな」


ゆっくりとその手を握り、指先で涙を拭う。

「もう、不安にさせない」


蒼は頷いたけど、まだどこか恥ずかしそうに視線を逸らしている。

そんな様子を見て、恭弥がふっと微笑んだ。


「……でも、ほんとは何か欲しい“物”でもいいんだぞ。アクセサリーでも、服でも」

「い、いいです……それより、あ、今みたいに……」

「今みたいに?」

「ちゃんと、見ててくれる方が……ずっと嬉しいです」


その言葉に、恭弥の表情がやわらいだ。

静かに蒼の頭を撫でながら、苦笑を漏らす。



 「……ほんと、お前には敵わないな」


 恭弥がそう呟いて、静かに蒼の髪を撫でた。

 その指先が優しすぎて、蒼は少しだけ身を引く。

 温かいのに、どこかくすぐったくて、落ち着かない。


 「……なあ」

 恭弥が小さく声を落とした。

 「それでも、本当に欲しいものはないのか?」


 蒼は瞬きをした。

 まだ聞くのか、という顔で恭弥を見上げる。

 「……ないですってば」

 「本当に?」

 「本当にっ」


 「……嘘ついてないか?」

 「もう、しつこいですよ!」


 声が少し強くなる。

 蒼自身、そんなつもりじゃなかったのに、出てしまった言葉に驚いていた。


 「僕、本当にっ欲しいものなんかないです!ずっと言ってますよね!もう適当に買って、勝手に満足しててください!」


 その瞬間、恭弥の表情がわずかに止まった。

 低いままの視線が、ゆっくりと蒼をとらえる。

 重い沈黙が、部屋に落ちる。


 蒼の胸が一気に冷たくなった。

 怒らせた。


 そう思った瞬間、身体が固まる。


 恭弥は目を細め、小さく息を吐いた。

 「……今日は、生意気だな」


 その声が静かすぎて、蒼の心臓が跳ねた。

 「……ご、ごめんなさい……」

 視線を逸らして、手を握りしめる。

 「怒ってますよね……?」


 「怒ってない」

 恭弥はすぐに言った。

 慌てたように手を伸ばし、蒼の肩を軽く叩く。

 「違う。そういう意味じゃない」


 「でも…」

 「違うって」

 恭弥の声がやわらかくなる。

 「生意気って言ったのは…お前が、ちゃんと本音で言えるようになったからだ」


 蒼は目を瞬かせて、わずかに息を呑む。

 恭弥は少しだけ照れたように視線を逸らした。

 「前なら、俺の顔色ばっか見てただろ。今の方がずっといい」


 静かな声。

 その優しさが逆に胸に刺さって、蒼は何も言えなくなった。


 「…じゃあ、こうしよう」

 恭弥がふっと立ち上がる。

 「待ってろ。今から買いに行ってやる」


 「え、ちょ、ちょっと待ってください……! ほんとにいらないって、僕っ言いましたよね!?」

 「あぁ、聞いた。でも、俺が欲しい」

 「……なんですかそれ」

 「俺の自己満足」


 苦笑を浮かべて、恭弥は上着を手に取った。

 蒼が慌てて袖を掴む。

 「ほんとに行くんですか……?」

 「行く。いい子にして待ってろそしたらとびきりいい物買ってやるからな」


 それだけ言って、恭弥は出ていった。


 そして、夜。


 玄関のドアが開く音に、蒼はびくりと顔を上げた。


 リビングに戻ってきた恭弥の腕には、紙袋がいくつも下がっている。


 床に並べられた袋から、次々と現れるのは、眩しいほどのブランドロゴ。


 アクセサリー。

 服。

 香水。

 家電まで。


 リビングの空気が一気に変わる。

 蒼はその光景に、ただ呆然と立ち尽くした。


 「……冗談、ですよね……?」

 声が震える。

 「こんなに…どうするんですか、これ……」


 「どうもしない」

 恭弥は淡々と答える。

 「お前が“なんでもいい”って言ったから、なんでも買ってきた」


 「そ、そんな意味じゃ……!」

 蒼の言葉が喉の奥で詰まる。

 「僕……本当に、欲しくなかったのに……」


 「わかってる」

 恭弥はゆっくりと蒼に近づいて、手を伸ばす。

 「でも、俺は欲しかった。お前が、これを見て困る顔」


 「……もう、やめてくださいよ」

 蒼の声がかすれる。

 涙がにじんで、頬に伝う。

 「優しくされるの、ずるいです……」


 恭弥はその涙を拭わずに、ただ見つめていた。

 少しだけ、笑うように息を吐いて。


 「……お前がそう言うと、また買いたくなるな。」


 蒼は顔を覆って、小さく首を振った。

 「……もう、ほんとに…やめてください……」


 リビングの灯りの下で、二人の影が重なる。

 優しさが痛いほど滲む夜だった。



「……これ、ほんとに全部、恭弥さんが買ったんですか?」

「そうだ」

 淡々とした声。けれどその奥に、どこか切り捨てるような響きがあった。


「いや、でも……こんなにたくさん、普通じゃないですよ」

「普通じゃないと、なんか問題か?」



「……恭弥さんって、ほんとに、何の仕事してるんですか?」


 言った瞬間、蒼は自分の声がかすかに震えているのに気づいた。

 恭弥の動きが止まる。


 沈黙。

 その沈黙が怖くて、蒼はさらに続けてしまった。


 「その、こんなに……何でも買えるくらいの……」


 言いながら、蒼は視線をさまよわせた。

 テーブルに積まれたブランドの箱が、無機質に光を返す。

 目に入るたび、胸がざわついた。


 「……気にしなくていい」


 その言葉が、ひどく冷たく響いた。

 恭弥の声の温度が、ほんのわずかに下がっただけで、空気の密度が変わる。

 息を吸うことさえ慎重になるような、静かな圧。


 「でも、僕、知りたいです」

 勇気を振り絞って口を開いた。

 恭弥の眉が、わずかに動く。


 「蒼」


 名前を呼ばれた瞬間、身体が固まった。

 音ではなく、視線で縛られる感覚。

 それでも蒼は、かすかに唇を動かす。


 「……だって、何も知らないままでいるの、嫌なんです」


 恭弥の瞳が、鋭く細められた。

 その沈黙が、どんな叱責よりも重く響く。


 「詮索するな」


 低く、静かに落ちた声。

 その一言が、胸の奥を叩いたように痛かった。


 「そ、そんなつもりじゃっ」

 「いいから」


 声が遮られる。

 恭弥が一歩近づくたびに、空気が肌を刺すように張りつめた。

 蒼の足が自然と後ずさる。

 その腕を、恭弥がゆっくりと掴んだ。


 「……っ、や、恭弥さん……」

 「余計なことを考えるな」


 低音が耳をかすめる。

 その響きに、背筋が勝手に震えた。


 「でも……」

 言いかけた唇を、恭弥の大きな厚い手が塞いだ。


 大きな手は蒼の小さい顔では更に存在感が増して、口だけを塞いだつもりが、鼻まで塞がれて蒼は息が止まる。

 力づくではないのに、逃げられなかった。

 掌の熱が、恐ろしくはっきりと頬に伝わる。


 「……俺のことは、俺が言いたくなった時に話す」

 囁く声が、耳の奥をくすぶるように残る。

 「それまでは、信じてろ」


 その言葉に、蒼の心臓が早鐘を打つ。

 怖いのに、目を逸らせなかった。

 恭弥の瞳は冷たく光っていた。

 けれど、奥に一瞬、焦りのような影が見えた。


 沈黙の中で、恭弥が手を離した。

 その一瞬で、体の力が抜けて、ソファに倒れ込むように腰を落とす。


 頬に残る熱がじりじりと痛い。

 涙が止まらなくて指先が小刻みに震えているのを、蒼は止められなかった。


 「……怖がらせたな」

 息を混ぜるような声だった。


空気が、痛いほど張りつめていた。


 「もう二度と、詮索するな」

 低く落とされた声が、床を這うみたいに響く。


 恭弥はゆっくりと歩を進める。

 その静けさが、怒鳴り声よりもずっと怖かった。


 「知ろうとするな」

 「……でも、僕は――」


 次の瞬間。

 恭弥の手が、蒼の顎を掴んだ。

 冷たい指先が、顔の向きを固定する。

 息をするたびに、喉の奥が焼けるようだった。


 「……お前、まだ言うのか」

 言葉は穏やかだった。

 なのに、温度がまるでなかった。

 目の奥の光まで、静かに閉ざされている。


 蒼の胸がひゅっと縮む。

 涙がさらに滲んで、視界がぼやけた。

 「う、もう、や……めてください……」

 かすれた声が漏れた。


 恭弥は何も言わず、その頬にかかる髪を指で払った。

 その仕草さえ、どこか怖い。

 まるで、見えない線を引くような静けさで逃げ場を塞ぐ。


 「俺の世界に、足を踏み入れるな」

 「……っ」

 涙が一粒、頬を伝って落ちた。


 「なにが見たい」

 低い声が、耳のすぐそばで響いた。

 「金か、力か?それとも俺がどんな人間か…」

 「ちが、いますっ……そんなことじゃ」

 「じゃあ黙れ」


 その瞬間、蒼はびくりと震えて、両手で顔を覆った。


 堪えきれず、嗚咽が漏れる。


 「ごめんなさい……ごめんなさいっ」


 恭弥の手が止まった。

 その言葉が、まるで刃物のように彼の胸を突いた。


 沈黙。

 しばらく動けなかった。

 息をすることさえ、怖かった。


 そして、恭弥の肩がふっと落ちた。

 掴んでいた手が緩む。


 「……俺が、怖がらせたな」

 小さな呟き。

 声が震えていた。


 蒼は答えられないまま、涙を拭った。

 恭弥はその頬を撫でることもできず、ただ拳を握りしめていた。


 「……悪かった」

 低い声で、それだけを言った。


 その言葉が本物の後悔に満ちていたから、余計に胸が締めつけられた。

 蒼は息を詰めながら、涙の向こうで小さく頷いた。


 恭弥は、ほんの少しだけ視線を伏せて、かすかに自嘲するように笑った。

 「……守りたいだけだったのに。やり方を間違えたな」


 静寂の中で、蒼のすすり泣く音が、夜の空気に滲んで消えた。


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