ずるいゲーム
恭弥はキッチンで静かにコーヒーを淹れていた。
湯気が立ち上る音とともに、香ばしい香りが部屋を満たしていく。
やがて色違いのカップを二つ持ってベッドのほうに戻ってきた。
「ほら、そろそろ起きろ。熱いうちに飲まないと」
蒼は返事をせず、布団の中から顔だけ出して視線をそらす。
それでも恭弥はいつも通り、何事もなかったように微笑んでコップを差し出した。
「ひどいこと言って悪かったって。」
短く、それだけを。
その穏やかな声音に、胸がじくじくと痛んだ。
優しくされるほど、怒りの芯がどこかに逃げていく。
“許したくない”と思っているのに、あの低い声を聞くだけで喉の奥が詰まってしまう。
「……知りませんよ。勝手にすればいいじゃないですか」
そう言いながらも、蒼は差し出されたコーヒーを受け取ってしまった。
カップの縁から立ち上る香りが、少しだけ気持ちをほぐす。
恭弥は隣に腰を下ろし、そっと蒼の髪を撫でる。
「言えてなかったけどな、お前が作ってくれた料理、冷めてたけど美味しかった。ほんとにごめんな」
その言葉に、胸の奥が一気に崩れた。
どうして今、そんなふうに、優しく言うんだ。
その優しさが、いちばん卑怯だ。
「やめてください」
掠れた声で言った瞬間、涙が止まらなくなった。
「そんな顔、しないでください。……怒ってたいのに、どうしてっそんなふうに謝るんですか!」
恭弥が驚いたように息を呑んで、蒼の頬に伸ばしかけた手を止める。
蒼はその手を振り払うように、涙を拭った。
「許したくないのにっでも、優しくされると……わかんなくなるんです!」
震える声が、部屋に溶けていく。
恭弥は何も言わず、ただ苦しそうに目を伏せた。
「なぁ、蒼、俺が、全部悪かった。全部、ほんとに、ごめん」
そう言った声は、かすかに掠れていた。
本気で後悔して、焦っていることが伝わってきて、蒼の涙はさらにこぼれた。
そのまま二人の間に静寂が落ちた。
ただお互いの荒い呼吸だけが、近くで響く。
怒りと、愛しさと、苦しさがぐちゃぐちゃに混ざって、蒼の胸は締めつけられるように痛んだ。
それでも、恭弥の手がそっと布団から覗く蒼の肩に触れたとき、もう拒むこともできなかった。
その優しさが、憎らしいほど、温かかった。
蒼はまだ膝の上でカップを握りしめたまま、顔をそむけていた。
涙の跡が乾かないうちに、恭弥が静かに身を寄せる。
「……蒼」
低く呼ばれただけで、胸の奥がざわつく。
恭弥はためらいもなく、蒼の頬に唇を落とした。
一度、二度、三度、四度…
蒼はびくっと肩を震わせて、「や、やめてっやだっやめて、ください…っ!」と掠れた声を出す。
それでも恭弥は止めなかった。
もう一度、涙の跡をなぞるように唇を寄せた。
「嫌か?」
「…ん、…いっ、嫌です……」
言いながら、声は小さくなる。
恭弥はかすかに笑って、もう一度だけキスを落とした。
頬の端、目尻、こめかみ。
触れるたび、蒼の呼吸が小さく揺れる。
「や、だ……って…んっ言ってるのに……!」
「言葉より、顔が正直だな」
囁く声が耳に近くて、息が詰まる。
「……ほんと、ずるい人です」
「お前もな」
蒼はもう抵抗するのをやめて、視線を落とした。
指先がカップを離れ、恭弥のシャツの裾をぎゅっと掴む。
恭弥はそんな蒼を見下ろしながら、ふっと微笑んだ。
「……この方法、いいな」
「……何が、ですか」
「言い争うより、よっぽどお互いの本音が出る」
蒼は恥ずかしそうに顔を背ける。
けれどその耳まで赤くなっているのを、恭弥は見逃さなかった。
「次は、泣かせる理由を間違えないようにする。」
そう言って、もう一度だけ優しく唇を触れさせた。
今度は蒼も、何も言わなかった。
ただ静かに目を閉じて、その温度を受け入れた
足元で、ぬるりとした感触が走った。
蒼が小さく息を呑み、慌てて下を見た。
「……あっ……」
膝の上にあったはずのカップが、傾いて倒れている。
こぼれたコーヒーがマットに広がっていて、黒い染みがじわりと大きくなっていく。
恭弥の部屋はどこを見ても高そうな家具ばかりで、そのマットも例外じゃない。
「あ、あっ…う、わ…どうしよう、これ……」
蒼は顔を青ざめさせ、慌ててティッシュを掴んで押さえる。
「ごめ、す、すみませっ……僕、あの、ほんとに、わざとじゃなくてっ!」
恭弥が一歩近づいた瞬間、蒼はびくっと肩を震わせた。
「落ち着け。熱くないか?」
「だ、大丈夫です…でも、これ、ま、マットが……」
「いい」
そう言うや否や、恭弥は布団を持ち上げ、蒼の頭の上にばさっと被せた。
「っひ…!!な、なんですかっ」
布団の向こう側で、何かを拭う音がしている。
蒼は布団の中でじたばたしながら、情けない声を上げた。布団の端が抑えられているのか、逃げられない。
「ご、ごめんなさいっ!ごめんなさい!ほんとに!あの、弁償しますから……!」
「いいって言ってるだろ」
布団越しにため息が聞こえ、少し間があってから恭弥の声が落ちる。
「蒼、ゲームしよう」
「え?」
「俺が『いい』って言うまで、布団から顔を出したらお前の負け」
「え……?」
「負けたら罰ゲーム。お前の苦手な激辛料理、喉が焼けるまで食べてもらう」
蒼は布団の中で固まる。
「……僕が勝ったら?」
「お前の言うこと、何でも一つ叶えてやる」
「そ、そんなの……」
「ルールはシンプルだ。出たら負け、いいな?」
蒼は布団の中で唇を噛んだ。
しばらくして、恭弥の足音が離れていく。
布団の外で、何かを持ち上げる音、袋の擦れる音。
たぶん、マットを片付けている。
静かに時間が過ぎていった。
息を殺して待っているうちに、蒼の頬の熱が少しずつ引いていく。
この人、やっぱりずるい。
叱られると思ったのに、殴られると思ったのに、笑いに変えられて、調子が狂う。
やがて、外から柔らかい声がした。
「……もういいぞ」
蒼はゆっくり布団をめくり、顔を出した。
目の前には、片付け終えた床と、穏やかに笑う恭弥。
「お前の勝ちだ」
「……ほんとに?」
「ああ。何でも一つ、叶えてやる」
蒼はまだ不安そうに布団を握ったまま、小さく息を吐いた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます