すっぽかした約束の夜

付き合って半年



「恭弥さん、今週の金曜日……夜、予定ありますか?」


リビングで書類を見ていた恭弥が、視線だけを上げた。

ソファの端に座る蒼の声は、いつもより少しだけ慎重で、どこか緊張を含んでいる。


「金曜か。特には入ってない。どうした?」


「えっと……」

蒼は指先でもじもじとシャツの裾をいじりながら、小さく笑った。


「その、金曜日は、僕たちが付き合って半年になる日で……一緒にちゃんとしたご飯でもどうかなって思って、僕頑張るのでっ」


恭弥の手が止まった。

その表情がわずかに緩む。


「……半年か。早いな」


「はい。あっという間でした」


少し照れながらうつむく蒼の頬が赤く染まる。


「なので、ちょっとだけ特別な夜にしたくて」


「いいな。それならその日は早めに帰る。何時にすればいい」


「八時くらい…で、大丈夫ですか?」


「わかった。八時に帰る」

恭弥はそう言って、短く頷いた。

「楽しみにしてる」


蒼の目が嬉しそうに輝く。

「はいっ僕もです」


その瞬間の蒼は、まるで小さな約束を宝物みたいに抱えているようだった。





金曜日。


部屋の中には、香ばしく料理の匂いが漂っていた。

テーブルクロスは白。

食器はいつもより上等なものを並べ、

キャンドルもロマンチックにひとつだけ灯して、光を落とす。


「ふぅ……」

蒼はキッチンのカウンターにもたれ、汗ばんだ額を袖でぬぐった。



「よし……あとは帰ってきたら温めるだけ」


時計を見る。

針はもう七時半。

あと三十分。


胸が高鳴る。

恭弥さん、驚くかな。

喜んでくれるといいな。


ソファに腰を下ろして、スマホを握りしめる。

画面を開いても、新しい通知はない。


「きっと、あと少しで帰ってくる……」


でも、八時を過ぎても、九時になっても、玄関の扉は開かなかった。


料理はその度に二度、三度、温め直された。

蝋燭の炎が小さく揺れて、時折、パチリと音を立てる。


蒼は両手を膝に置き、俯いたまま、息を吐く。

胸の奥が、静かに痛んだ。

目に涙が溜まるけどそれも我慢した。


「……仕事、かな」


そう呟いても、慰めにはならなかった。

ただ、待つしかできない自分が、少し惨めに思えた。





玄関の鍵がようやく開いたのは十時を回った頃だった。


蝋燭の火はすっかり消えて、グラスの中の氷も全て溶けていた。


ソファに座ったまま、蒼は動けなかった。

何度目かのため息が、小さく部屋に響く。



玄関の鍵が、ようやく回る音。



「……恭弥さん」


その声には、安堵よりも張り詰めた怒りが混ざっていた。重い足取りで玄関に向かう。


恭弥はコートを脱ぎながら言った。

「悪い。会議が長引いた」


「……そうですか」

蒼の声は淡々としていた。

けれど、その手はぎゅっと固く握られている。


「連絡、一本もなかったですけど」


「出られなかった。ずっと社内に詰めてて」


「“出られなかった”じゃなくて、“しなかった”ですよね」


一瞬、空気が止まる。

蒼の瞳は、珍しく静かに怒っていた。


「僕、今日のためにずっと準備してたんですよ。

早起きして、買い物行って、メニューも考えて、恭弥さんが好きなやつ、喜んで欲しくていっぱい作ったのに」



恭弥が黙る。

口を開けば、余計な言葉が出そうで。



蒼の声は少し震えていた。


「半年前に“付き合ってください”って言ってくれた時、怖かったけど言ってくれたこと、今ではすごく良かったって思ってるんです。

だから、恭弥さんと付き合えて幸せなことを伝えるために。僕、頑張ったんです。今日くらい、ちゃんと喜んでほしかったから」


「蒼」

低い声が、少しだけ強くなる。

「そうやって責められても困る。俺だって、好きで遅れたわけじゃない」


「じゃあ僕はどうすればいいんですかっ」

感情がこぼれた。

「帰ってこない時間、ひとりでテーブル見て、料理がダメになっても!何回、きっとすぐ帰ってくるって思って、温め直したと思ってるんですか…

 仕事のほうが大事なら、最初から約束なんてしないでくださいよ!」


恭弥の眉間が動く。

「そんなこと、言うな」


「言いたくなるほど!寂しかったんです!」



声がぶつかる


「恭弥さんはいつもわかってるって言うけど、全然わかってない。

 僕、あなたの“仕事だから”の一言で何回我慢してきたと思ってるんですか」


「……我慢してたなら、最初に言えば」

「言えるわけないです!」


蒼の目に涙が滲んだ。

「言ったら困らせるってわかってたから、黙ってたのに!僕が何も言わないのを、都合よく“理解してくれてる”って思ってたんですか!」


恭弥が言葉を失う。

一瞬、反論の火が宿りかけて、それを押し殺した。


「……蒼、落ち着け」

「落ち着けません!」


泣きながら叫ぶ蒼を、恭弥はただ見ていた。

その姿に、胸の奥が痛むのに、

どう言葉をかけていいかわからない。


「僕、今日は一緒に食べたかっただけなんです!

 たったそれだけなのに、なんでこんなに苦しくなるんですか……」


その声はもう怒りではなく、かすかな悲しみだった。


沈黙。

時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。


恭弥は息を吸って、かすかに眉を寄せた。

「……悪い、今は何を言っても余計に傷つける気がする」


そう言って、ソファの背にもたれた。

視線を外したまま。


蒼は、唇を噛んだまま立ち上がる。

「…あぁ、そうですか…僕、もう寝ますから。」


「……」


扉の音が静かに閉まる。

残されたテーブルの上には、

ドロドロの料理と、ふたり分の皿が並んだままだった。

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