どこにも行かないで

蒼はキャベツを手に取りながら、恭弥の横顔をそっと盗み見た。

まだ少し眉間に皺が寄っている。

先ほどまでの焦燥が、完全には消えていないのがわかる。


(……そんなに、僕のこと見てくれてたんだ)


心の奥がほんのりと温まるのと同時に、

あの掴まれた感触がまだ手首に残っていた。


痛くはないのに、妙に熱い。


蒼がカートの中にキャベツを入れると、恭弥は小さく呟いた。


「……あのくらいの距離でも、不安になる自分が嫌になる」

「恭弥さん……」


「お前がどこか行くわけないのはわかってるのに、

 一瞬見えなくなるだけで……心臓が止まりそうになる」


低い声に、蒼は目を伏せた。

人目があるのに、恭弥の言葉はひどく親密に聞こえる。


「……僕、そんなに信用できないですか?」

思わず出たその言葉に、恭弥が一瞬だけ目を見開く。


「違う。そういうことじゃない」

「じゃあ……」


蒼が小さく首を傾げる。

恭弥は言葉を探すように唇を噛み、そして静かに吐き出した。


「お前を失うのが怖いだけだ」


一拍。

まるで時間が止まったように、蒼の動きが凍る。


「……そんな、大げさですよ」

笑って誤魔化そうとしたけれど、声がうまく出ない。


恭弥の目が真っ直ぐに蒼を捉えていた。

それは、怖いほどの真剣さだった。


「大げさじゃない」

彼はそう言って、そっと蒼の耳元に顔を寄せた。

周囲のざわめきの中で、彼の声だけが鋭く届く。


「この手を離した瞬間に、どこか遠くへ行ってしまいそうでたまらない」


蒼の喉がひくりと動いた。


(……そんなふうに、言わないで)


胸の奥がざわつく。

恭弥さんの言葉はいつも甘いのに、どこか苦しい。


「……僕、そんな簡単にどこにも行かないです」

「ならいいんだ」


そう言って、恭弥はまた蒼の手を引いた。

ただの軽い引き寄せなのに、拒めない力がある。


そのままふたりは、無言のままレジへと向かった。


外に出ると、夕方の風が頬を撫でる。

ビニール袋がかさかさと揺れて、

その音が妙に静かに響いた。


「……恭弥さん」

蒼が小さな声で呼ぶ。


「ん」

「さっきの、ちょっと怖かったです」


恭弥が立ち止まった。

その言葉はまるで、彼の胸を直接刺したようだった。


「……悪い」

「でも」


蒼が続ける。

「嬉しくも、ありました。ちゃんと僕のこと、見てくれてて」


恭弥が息を吐く。

その表情には、苦笑と照れが混ざっていた。


「……お前には敵わないな」

一瞬だけ視線が重なり、ふたりの間に柔らかい空気が少し戻った。




玄関の扉を閉めると、外のざわめきがすっと遠のいた。

代わりに、ふたりの呼吸と、袋の中でカサリと揺れる野菜の音だけが残る。


「…ただいま」

恭弥が靴を脱ぎながら、いつもの調子で言う。

その声を聞いた瞬間、蒼はほっと息をついた。

外で張り詰めていた空気が、少しずつ解けていく。


「冷蔵庫、開けておきますね」

「あぁ。俺は荷物片づける」


二人で無言のまま台所へ向かう。

夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、キッチンを柔らかく染めていた。


蒼は袋からキャベツを取り出し、軽く洗ってまな板に置く。

包丁の刃がまな板に当たるたびに、トントンと小さな音が響く。


その音を背後で聞きながら、恭弥が静かに言った。

「……さっきのこと、まだ気にしてるか」


蒼は手を止めて、少しだけ振り返る。

「もう、そんなに気になりますか?…少し、だけですよ。でも、ちゃんと伝えてもらえたから」


「伝えるっていうより……出てしまったんだ」


恭弥の声は、ほんの少しだけ掠れていた。


「僕も、恭弥さんが不安になるくらい、大事に思われてるのがわかって……それだけで、ほんと、嬉しいです」

そう言って、蒼は小さく笑った。


恭弥の視線がふっと緩む。

彼は近づいて、蒼の頭を軽く撫でた。

「……ありがとう」

「髪、ぐしゃぐしゃになります」

「いい。サラサラだからすぐ元に戻る。」


からかうような声に、蒼がむっと頬を膨らませる。

それを見て、恭弥が小さく笑った。


「さっきまでの空気、もう戻ったな」

「戻しました。僕が」

「偉い。」


ふたりの間に、ようやく穏やかな笑いが満ちる。




食卓につくと、恭弥がひと口食べて言った。

「……これ、うまいな」

「ほんとですか?」

「本気で言ってる。外で食べるより、ずっと味が違う。」


蒼はその言葉に静かに微笑んだ。

「僕も、恭弥さんと一緒に食べるのが一番です」


一瞬、恭弥の手が止まる。

そしてゆっくりと、テーブルの上で蒼の手を包んだ。


「……もう、どこにも行くなよ」

「行きませんって」

蒼が笑って答える。

その声は柔らかくて、確かな響きを持っていた。


窓の外では風が吹き、カーテンが静かに揺れた。

小さな食卓の上には、温かな料理と、ふたりの穏やかな時間だけが残っていた

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