お返しの気持ち

ショッピングから数週間後。


オフィスの明かりがすっかり落ちた頃、恭弥はまだデスクに座っていた。

パソコンの画面には開きっぱなしのショッピングサイト。ページを行ったり来たりしては、ため息を吐く。


何を贈ればいいのか、まるで見当がつかない。


蒼がネクタイを渡してきたあの日から、毎朝それを締めるのが習慣になった。

柔らかい布の感触が喉元を包むたびに、彼の真っ直ぐな眼差しを思い出す。


だからこそ、安易なものでは返せない。


だが、考えれば考えるほどわからなくなった。

アクセサリーか、服か、それとも何か思い出になるようなものか。

贈り物は今まで何回もしてたはずなのに、服に靴、アクセサリーや家具、今回も同じようにすればいいはずなのに


彼の喜ぶ顔を想像しても、実際に渡す自分の姿が浮かばない。


結局、夜遅くまで悩んだ挙げ句、恭弥は何も買わずに家へ帰った。


家に帰ると、リビングの明かりが柔らかく灯っていた。


廊下からパタパタと蒼が駆け寄ってくる。


「……おかえりなさいっ」

「ただいま」


恭弥はコートを脱ぎ、蒼と一緒にリビングに行き、二人で食卓についた。


けれども沈黙のまま数秒が流れ、彼はぽつりと切り出した。


「……お前に、何か返したいと思ってな」


「え?」

「この前、ネクタイもらっただろ。すごく嬉しかった……だから、俺も何か渡したいんだが」


そこで言葉が詰まる。

蒼が小首を傾げるようにして、少しだけ笑った。


「僕なんかに、そんな……いいですよ。もう」

「よくない」


即答だった。

低く静かな声に、蒼が少し身を固くする。


「……だけど、蒼は一体何が欲しいのか、まったくわからない」


「え……」


「今日も仕事の帰りに店を何軒か色々見た。けど、全部違う気がして。……結局、何も買えなかった」


恭弥が小さく苦笑する。

不器用な男の照れくささが混じっていた。


「だから聞く。お前は何が欲しい?」

「え、えっと……」

蒼は視線を落として、指先をいじった。

「……特に、ないです。ほんとに、恭弥さんが毎日ネクタイ使ってくれてるだけで、僕は」


「……そうか」


わずかに息を吐く。

その声は、安堵と同時にどこか切なさも混じっていた。


「お前は、ほんとにそういうやつだな」

「え?」

「俺にくれるばっかりで、自分の欲しいもの言わない」


そう言いながら、恭弥は蒼の頭を軽く撫でた。

蒼はびくっとしてから、少しだけ笑う。


その夜はそれ以上何も言わず、ただ静かに時間が流れた。

けれど恭弥の胸の中では、まだ“お返し”の答えを探す熱が冷めていなかった。


次は、必ず見つけてやる。

その決意だけが、確かに残った。



そんな時突然蒼が何かを決心したように口を開いた。


「……ほんとに、なんでもいいんですか」

「なんでも」


蒼はしばらく黙り込んでから、箸を置いた。

「じゃあ……一つ、言ってもいいですか」


恭弥が頷く。

少しの間を置いて、蒼は小さく息を吸い込んだ。



「一緒に、スーパー行きたいです」



「……は?」



即座に返ってきた低い声に、蒼がびくりと肩をすくめる。

恭弥は一瞬、何を言われたのかわからずに固まった。


「スーパーって……あの、普通の?」

「はい。週末とかに、一緒に買い物したいなって。恭弥さん、いつも僕が行く前にネットで全部頼んじゃうから」


言い終えた蒼は、少し気まずそうに笑った。

けれどその笑顔の奥には、ほんの少しの寂しさが混じっている。


「……僕、たまに、一緒に選びたいんです。……くだらないですけど」


恭弥は黙って蒼を見つめた。

そんなことを“欲しいもの”として口にする彼の素直さに、胸の奥が妙にざわつく。


数秒の沈黙のあと、恭弥は目を伏せて小さく笑った。


「くだらなくない。……いや、むしろ、俺のほうが何もわかってなかったな」

「え?」

「お前が欲しいの、物じゃなかったんだな」


その声はいつになく穏やかで、わずかに照れが混じっていた。

蒼は驚いたように目を瞬かせ、頬を赤らめる。


「じゃあ……今度の週末、一緒に行こう」

「……いいんですか?」

「いい。俺がカート押す」


冗談めかしたその言葉に、蒼が思わず笑い声を漏らす。

それを見て、恭弥の口元もわずかに緩んだ。


静かな夜。

食卓に並ぶ湯気の向こうで、ようやく二人の間の温度がゆっくりとひとつに溶けていった。







週末。


雲ひとつない朝、二人は並んでスーパーの前に立っていた。


カートを押す恭弥の隣で、蒼は少し緊張したように小さく笑う。

「なんか……一緒に来るの、変な感じですね」

「そうか?」

「はい。恭弥さんとこういう場所って、ちょっと不思議で」


恭弥は短く頷いて、入口の自動ドアが開く音に足を進めた。


中は休日らしい賑やかさで、家族連れやカップルの笑い声が響く。

蒼はきょろきょろと周囲を見回しながら、カートの中に商品をそっと置いた。


「これ、安いですね」

「……それ、昨日も買った」

「あ、そうでしたっけ……」

「いや、戻さなくていい、これはいくらあっても困らない。」

「そうですね…」


そんなやりとりを重ねながら、時間は穏やかに過ぎていく。


けれど、恭弥はふとした瞬間に蒼の位置を何度も確認していた。


肉売り場で立ち止まっても、飲み物の棚に寄っても


その視線の先には、いつも蒼の姿があるかどうかを確かめる彼の目。


蒼は気づいていた。

恭弥が無意識に、自分を見張るように目を離さないことに。




(……あの日のせい、だ)




胸の奥が少し痛む。

あの日、サプライズをしようとして勝手に離れて、恭弥を怒らせた。

怒鳴られたわけでもないのに、あの時の恭弥の沈黙がまだ焼きついている。


「……恭弥さん」

「ん?」

「ちゃんと、いますからね。僕」


不意に言われて、恭弥は目を瞬いた。

その表情には、微かに照れたような色が浮かぶ。


「……知ってる」

短く答える声が、ほんの少し柔らかかった。


「お前がいなくなるようなこと、もうしないってわかってる」

「はい」


蒼は安堵したように笑い、カートの中にふたりが好きな小さなプリンを入れた。

恭弥はそれを見て、思わず口元を緩める。


「……それ、誰のだ?」

「えっと……恭弥さんと、僕のです」

「ふたり分、か」

「はい」


少し間を置いて、恭弥は静かに言った。

「……ならいい」


その言葉に蒼が微笑む。

彼の心には、まだ少しの緊張と温かさが入り混じっていた。





「わあ……見てください、恭弥さん。これ、安いです!」


蒼は嬉しそうに声を弾ませると、小さな袋を握りしめてパタパタと走り出した。

春キャベツの山にまっすぐ向かって、そのときだった。


「蒼。」


低い声がした直後、腕をぐいと引かれた。

身体が強く後ろへ引き寄せられ、蒼は驚いて振り向く。


恭弥の手が、自分の手首を掴んでいた。

外気の冷たさとは違う、加減なんてない熱を帯びた指の力。

その表情は、いつもの冷静さを失っていた。


「……離れるな」


それだけ。

声は低く、静かで、けれど震えるような圧があった。


蒼は小さく息を呑んだ。

ほんの十歩も離れていなかったのに。

ただ少し走っただけなのに。


「…ごめんなさい。ちょっと、安かったから…」


恭弥は答えない。

代わりに手を離すでもなく、しばらく赤くなった蒼の手首を掴んだまま視線を落としていた。


その横顔には、怒りよりも

焦りが滲んでいた。


人の波が二人の間をすり抜けていく。

やっと恭弥が指先を緩めた。


「……俺が悪い」

「え?」

「お前が走ったのを見て、嫌な予感がした。……また、いなくなるんじゃないかって」


その声は掠れていて、どこか自嘲めいていた。

蒼は胸の奥がきゅっと締めつけられる。


「……そんなこと、もうしませんって」

小さく笑って、そっと恭弥の手に自分の指を重ねた。

「ちゃんと隣にいますから……」


恭弥はしばらく黙ってから、目を伏せて頷く。


「わかってる。わかってるんだ」

ほんのかすかな苦笑。

「でも……頭より先に手が動いた」


蒼はその言葉に少し微笑んで、掴まれた手首をそっとさすった。

「じゃあ、もう少しだけ掴んでてください」


恭弥は息を止めるようにして蒼を見つめたあと、

静かに今度は優しく指を絡め直した。


そのまま二人は、手を繋いで野菜の山の前に立った。


「……ほら、やっぱり安いですよ」

「…そうだな」


恭弥の声はまだ少し低いけれど、

もう怒ってはいなかった。

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