余裕がなかった

ショッピングフロアを何度も何度も往復したあと、恭弥はエスカレーターの前で諦めたように足を止めた。

もうどこを探してもいない。逃げられた。

人の波が途切れた瞬間、静寂が押し寄せる。

掌がわずかに震えているのを感じた。


そのとき、背後から小さな声が聞こえた。


「…………恭弥さんっ!」


振り返ると、蒼が人混みをかき分けてこちらへ小走りでやってくる。

その顔は、信じられないほど無邪気で――頬を少し紅潮させ、何かを背中に隠していた。


「恭弥さんっ!」

蒼は息を弾ませながら笑って言った。


恭弥はしばらく動けなかった。

怒りと安堵が一気に胸にこみ上げ、呼吸の仕方さえ忘れそうになった。


「……どこに行ってた」

低い声。いつもよりもさらに静かで、温度がない。


蒼はびくりと肩を震わせながらも、嬉しそうに手を前へ出した。

そこには、小さな紙袋が握られていた。


「これ……!」

恭弥の目の前に差し出す。


袋の中には、深い青色の触り心地の良いシルクのネクタイ。蒼がなけなしの自分の財布に入ってるお金をかき集めて買ったような、控えめな包装だった。


「……今日、ずっと恭弥さんに何か贈りたいなって思ってて……。でも、びっくりさせたくて……その……」


嬉しそうに言いかけた蒼の言葉を、恭弥の沈黙が遮った。


彼の表情は変わらない。

ただ、目の奥だけが、鋭く、冷たい。


「来い。」


突然腕を取られ、蒼は驚いたまま人の少ないフロアの端へと連れて行かれる。

外の喧騒が遠ざかり、二人だけの空間になる。


恭弥は壁際に蒼を立たせた。

言葉を選ぶ余裕も、抑える力も、もうほとんど残っていなかった。


「……俺がどんな気持ちで探してたと思う。」

声は低く、静かなのに、ひとつひとつの言葉が重く突き刺さる。


「荷物も全部俺が持ってた。携帯も、お前に買った物も…今財布だけ持ってるな、完全に逃げられたと思った、そんなこと、もう二度とするな。」


蒼は小さく息を呑み、目を伏せた。


「……ごめんなさい……サプライズ、したくて……」


「サプライズ?」


恭弥は短く息を吐き、笑みともため息ともつかない音を漏らした。

「そんなやり方で俺を驚かせて、どうするつもりだったんだ」


蒼の瞳が揺れる。

彼の中の「嬉しい」と「怖い」がごちゃまぜになって、涙が滲む。


「……ごめんなさい……でも……渡したかったんです」


震える手でまた今度こそはと差し出されたネクタイを、恭弥はしばらく見つめた。

怒りが完全に消えたわけではない。

けれど、その拙い気持ちの真っ直ぐさに、胸の奥の張りつめた糸が少しだけ緩む。


ゆっくりと手を伸ばし、蒼の頭に触れる。

「……もういい。わかった」


蒼は驚いたように顔を上げる。

恭弥はその髪に指を通しながら、深く息を吐いた。


「嬉しい、蒼。でも……二度と俺をあんな気持ちにさせるなよ、次は何しでかすか分からない。」


「……はい」

蒼は泣きそうな笑顔で頷き、胸に小さく息を吸い込んだ。


恭弥はネクタイを握りしめ、視線を落とす。

「……ありがとう」

その一言だけを、低く穏やかに。


蒼の目が潤む。

二人の間に流れた空気が、ゆっくりと柔らかく戻っていった。


蒼は俯いたまま、どう返せばいいのか迷っていた。恭弥は、そんな蒼の手をそっと握り、少し間を置いてから、低く穏やかな声で言った。


「……プレゼントをしたいなら、次は俺のそばでやってくれ。俺が目をつぶってる間にでも、手を引いて一緒に連れていけ。何をしてもいい、けど離れるな。」


蒼は思わず顔を上げた。恭弥の瞳は真っ直ぐで、どこか優しさを帯びているけれど、その奥には、どこか常軌を逸した狂気めいた闇が潜んでいた。蒼は息を飲み、思わず後ずさる。


「は、はい……」


蒼が小さく震えながら答えると、恭弥はその手をそっと握り直し、ぎゅっと引き寄せた。強引ではない。けれど、逃げられない圧力のような存在感に、蒼の胸はざわついた。


蒼が手を握り返すのを確認すると、恭弥は一瞬だけ深呼吸をした。目の奥の狂気めいた光はまだ残っているが、表情は柔らかくなり、気を取り直したように肩の力を抜いた。


「よし……じゃあ、気を取り直して今日は思い切り楽しもう。」


その声には、普段の落ち着きと、少しだけ楽しげな響きが混ざっていた。蒼はそんな恭弥の姿を見て安心して小さく頷き、恭弥の隣で歩き始める。





さっきのアクセサリーショップに戻って、店の中を見渡す恭弥は、品物を手に取り、ちょっとした仕草で蒼に見せたりして、気持ちを切り替えた様子だった。


蒼も、最初は緊張していた手元や視線が徐々に落ち着き、店内の明るい空気に少しずつ溶け込んでいく。


「これ、似合うと思います…」


蒼が小さく提案すると、恭弥は目を細めて考え込む。鋭い視線はまだ健在だが、決して威圧的ではなく、むしろ蒼の意見を真剣に受け止めている。


「…うん…悪くないな、買おう。」


二人の間に、微かに笑みのやり取りが生まれた。狂気の光はまだ消えないけれど、緊張と期待の混じった距離感のまま、蒼と恭弥は少しずつ、穏やかで楽しい時間を共有し始めていた。

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