伝わらない感情
冷たい日々が続いていた。
それは落ち着いているというより、何も起こらないように息を潜めている日だった。
蒼はテーブルの上の食器を片づけながら、ちらりと向かい側を見た。
恭弥はノートパソコンに視線を落としたまま、眉間に軽く皺を寄せている。
以前なら、何気ない言葉を交わす時間だった。
今は、長い静寂だけが続く。
「……恭弥さん」
静寂を切り裂くように、呼ぶ声が少し震えた。
恭弥が蒼を見つめる、視線が、あの目が怖い、
怖くても、言わなきゃと胸の奥で押し出す。
「僕、何か……嫌われること、しましたか」
その言葉に、恭弥の時が止まる。
すぐには言葉が出てこなかった。
「……いや」
短く否定したあと、しばらく沈黙が落ちる。
「じゃあ、どうして……最近、あんまり話してくれないんですか」
蒼は俯いたまま、声を震わせた。
「僕……何か、恭弥さんが、不快になるような事、したなら……」
「違う」
低い声が遮る。
恭弥はゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、あの日確かにお前を怖がらせてしまった。だから、気をつけてるだけだ」
「え……」
蒼は顔を上げる。
恭弥は真っ直ぐな目をしていた。
「この前の夜のことが……ずっと頭から離れない。お前が怯えた顔を、もう見たくないんだ」
(……僕のこと、そんなふうに)
胸の奥が熱くなる。けれど同時に、痛くもあった。
「でも、それじゃ……僕、恭弥さんに嫌われたみたいで……」
その瞬間、部屋の明かりがふっと消えた。
「えっ……」
暗闇に弱い蒼の声が小さく震える。
次の瞬間、窓の外が真っ白に光った。
轟音が空気を裂くように響き渡る。
「……っ!!」
反射的に両耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じた。
雷が苦手な蒼の身体は、完全に固まっていた。
「蒼っ」
恭弥がすぐ近くに寄る。
もう一度雷が落ちた瞬間、蒼は思わず体を引いてその手から逃げてしまった。
「へ、平気……ですっ…」
震えながらも言葉を絞り出す。
だが腕で体を押えても震えは止まらなかった。
「嘘をつくな。」
恭弥の声は、低く穏やかではなかった、怒りを含んでいた。
すぐに自分の上着を脱ぎ、蒼の肩を包み込むようにかける。
「怖いなら怖いって言え」
「で、でも……恭弥さんに、また……迷惑かけたくなくて」
掠れた声で絞り出した瞬間、恭弥の喉がわずかに鳴った。
「……迷惑?」
「俺がお前にそんな顔させたのは、あの日が初めてだった。だから二度と同じことをしたくなかった。それだけだ、迷惑なんて思うか」
蒼は小さく震えてそれ以上言葉を返すことができない。
雷鳴が再び落ち、部屋全体が一瞬だけ光で満たされる。
蒼は反射的に近くにいた恭弥の胸に顔を押しつけた。その仕草に、恭弥の腕がわずかに強くなる。
「……もう我慢するな」
「恭弥、さん……」
「怖いなら、ちゃんと怖がれ。
嘘をつかれる方が、ずっと腹が立つ」
その言葉は冷たく響いたのに、
包み込む腕の温度は、痛いほど優しかった。
蒼はただ、胸の中で息を整えながら、
「怒ってるのに、離さない」
そんな矛盾のようなぬくもりに、少しだけ泣きそうになった。
外ではまた雷鳴が落ちる。
けれど今度は、恭弥の胸の中で震えながらも、
蒼は目を閉じて、二人でその音を受け止めた。
滴が窓をつたう音だけが、部屋に残る。
蒼はまだ、恭弥の胸の中にいた。
けれど腕の力が、ほんの少しだけ緩む。
ゆっくりと、恭弥が蒼を離した。
その顔は暗がりの中でもわかるほど強ばっている。呼吸が荒く、手がまだ震えていた。
「……お前が嘘をつくたびに、俺が何を考えてると思う?」
恭弥の声には、まだ怒りが残っていた。
でも、それ以上に滲むのは焦燥と、痛み。
蒼は唇を震わせながら必死に声を出した。
「……ごめんなさいっ……」
「謝れって言ってるんじゃない。」
恭弥の声が、低く重く落ちる。
「お前が平気だって嘘をつくたびに、俺は蒼がまた何かされたんじゃないかって思う。守れなかったんじゃないかって……そう考えるんだよ。」
その言葉に、蒼の目が揺れる。
恭弥の視線が真っすぐ蒼を捉えた。
その目の奥には、怒りとは違う、
もっと深い恐れが見えた。
「俺は、お前に触れるのも、声をかけるのも、
もう全部慎重にしなきゃならないと思ってる。
……なのに、お前が嘘をつくと、俺は自分の中で何も信じられなくなるんだ。」
そして低い声が落ちた。
「……お前は、俺の気持ちを踏み躙ってるんだ」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。けれど、鋭く刺さる。冷たい刃のように静かで、痛いほどまっすぐだった。
蒼の喉がきゅっと鳴る。
何か言い返そうとしても、言葉が出てこない。
「俺は、あの日からずっと考えてる。どうしたらお前を怖がらせずに、ちゃんと守れるか。
それだけで、毎日頭の中がいっぱいなんだ。」
「それほど蒼を愛している。」
恭弥の拳が震えた。
声は掠れて、苦しそうに続く。
「それなのに、“平気です”なんて嘘をつかれたら……俺がお前のためにやってること全部、無駄みたいに感じる」
蒼の胸が苦しくなった。
自分の嘘が、こんなにも恭弥を傷つけていたことを、今やっと理解する。
「……そんなつもりじゃ、なかったです……」
か細い声で言う。
「わかってる」
恭弥が短く遮った。
「けどな、わかってても……止まらないんだ。
怒りも、不安も、全部混ざって…お前の顔を見ると俺はどうしていいかわからなくなる。」
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