我慢をした
「…………本当ですっ」
彼に嘘は通用しないことを知っている蒼は諦めたように呟いた、
その一言で、空気がわずかに震える。
恭弥はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに蒼のそばへと歩み寄る。
ベッドの端に腰を下ろし、視線を落としたまま、深く息を吐いた。
「あぁ、もう…我慢できそうにない」
低い声が僅かに震えていた。
その手が、蒼の頬に触れそうに伸びかける……が、すぐに止まった。
わずかな距離。
あと数センチで触れるはずの空気の中で、恭弥の手は宙に凍りついた。
「違う。」
頭の中でそう声が響く。
この手を伸ばしてしまえば、今まで蒼を傷つけてきた奴らと何も変わらない。
欲望に支配された人間の一人になるだけだ。
その事実を自覚した瞬間、恭弥は小さく息を飲んで手を引いた。
だが、蒼は違う意味でその動きを受け取ってしまった。
怯えたように肩を震わせ、身体を後ろに引く。
「……ごめんなさい、準備が…」
小さく呟くその声は、今にも消えてしまいそうだった。
恭弥はその様子に、胸の奥を刺されるような痛みを覚えた。
自分の一挙一動が、蒼の恐怖を呼び起こしてしまったのだ。
「違う…!」
思わず声が出た。
蒼の瞳がびくりと揺れる。
恭弥は一瞬、言葉を探した。
感情の波を抑え込み、できる限り穏やかな声を喉から必死に絞り出す。
「勘違いするな。俺は……お前に、怖い思いをさせたいわけじゃない」
蒼は息を詰めたまま、恭弥を見上げる。
震える唇が、何かを言いかけて止まる。
「さっきのは……ただ、俺の気持ちが抑えられなかっただけだ。触れたいって思う気持ちより、お前を守りたいって気持ちの方が強い。」
その言葉が、蒼の中でゆっくりと広がっていく。
信じたい気持ちと、怖い記憶がせめぎ合う中で、胸の奥に少しだけ温かさが残った。
恭弥は静かに続けた。
「怖がらせて、悪かった。……でもな、俺はお前に触れるときは、絶対にお前がもう怖くないと思えたときだけにする」
その真剣な目に、蒼は初めて信じてもいいかもしれないと思った。
ゆっくりと首を振りながら、かすれた声で言う。
「……あ、あの…恭弥さん、僕……怖かったけど……もう、違います」
恭弥の喉が一瞬詰まる。
目を伏せ、小さく息を吐いてから何か、期待したように。
「そうか」
それだけ言って、蒼に触れないように、ただそっとその近くに手を置いた。
触れないのに、そこには確かに温もりがあった。
部屋を満たす静寂は、今度は怖さではなく、安心の沈黙に変わっていた。
「……俺はもう、蒼に…怖い思いはさせたくない。」
蒼の心臓が跳ねた。その時の恭弥の顔が、目が、鋭く突き刺さったからだ。
けれど、次の瞬間に訪れた沈黙が、なぜか痛かった。あんなに安心した空気だったのに彼の表情ひとつですぐにまた戻ってしまった。
それからの恭弥は、まるで別人のように慎重になった。
手を伸ばすことも、頭を撫でることも、滅多になくなった。
言葉も、選びすぎるほど選ぶようになった。
「…恭弥さん、今日は早かったですね」
夕食の時にそう言っても、返ってくるのは長い沈黙に短い返事だけ。
「……ああ」
以前のような静かな優しさはある。むしろもっと優しくなった。けれどその裏に、どこか壁ができた気がして、蒼は恭弥の前で笑っても心が沈んでいく。
夜、寝室の灯りを落としたあと、
隣で微かに布が擦れる音がするたび、
(… 僕が、あの日ちゃんと出来なかったから……?もう、失望したの?僕に、もう期待なんてしてないの?)
そんな考えが、勝手に胸の奥を締めつけた。
話したいのに、言葉が出てこない。
また何かを壊してしまいそうで。
気づけば、恭弥の沈黙が怖くなっていた。
ほんの少しでいいから、あの時みたいに優しく名前を呼んでほしい。
けど、声に出せば、きっとまた距離が遠のく気がして
蒼は布団の中で唇を噛んだ。
恭弥の小さな規則正しい呼吸の音が、やけに遠く感じる。
闇の中で、触れられない距離だけが、静かに広がっていった。
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