彼女の手を取って

柳環奈

1-1

 ちくりとした痛みで、城戸朗義きどろうぎは目を覚ました。

昨日の夜に店を閉めてから二階にある自室兼工房で作業していたところ、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。痛みは右手の指先にあり、見てみると彫刻刀の先端がわずかに刺さって血を流している。

 傷口を誤魔化すように血を拭いて、卓上のデジタル時計を見る。薄くなった午前十時半の表示を見て、大きく伸びをした。四時間もの間うずくまっていたんだ背中がひずむように痛む。それでも二十六という自分の年齢を考えれば、まだこれくらいの無理は効く。

 眠気を覚ます為に朗義は洗面所へと向かい、鏡に映ったやつれた顔を冷水で洗い始めた。定休日は、全ての時間をドールの製作に充てると決めている。

 タオルで顔を拭き眼鏡を掛け直した時、ふと誰かを呼ぶ女性の声が耳に届いた。最初は気のせいかとも思ったが、誰かに呼びかける声は確かに店先から何度も聞こえてくる。

 営業日はホームページとSNSに表記している。入り口には『Closed』と書かれた看板も下げたはずだ。客という訳でもあるまい、何か配達でも頼んでいただろうか──そう思って一階の販売スペースへと階段を降りる途中、窓ガラス越しに人影が見えた。

 すみませーん、という高く透き通った声が再び聞こえて、階段を駆け降りた。どこか寂しいような扉を開錠して、その声の持ち主と対面する。

 春にしては強い日差しが、目に差し込んだ。

「遅くなってすみません。何かご用です、か」

 少し見下ろして目に飛び込んだのは、風になびく長いブロンドヘアーと、上品でいてあどけなさをわずかに残した面差しの女性だった。鼻頭あたりまで伸びた前髪の流れる隙間から覗く碧眼と長く伸びた睫毛は、産まれる前からコーディネートされていたとしか思えない。その実、全ては天然で、顔のどこを見てもメイクの跡すら見られなかった。

 他人の容姿のみで息を呑むことなど、今まであっただろうか。

「あの、店員さん?」朗義に見つめられている彼女は戸惑うように、小さく声を出した。

「わっ。すみません」

「いえ、こちらこそ……あの、大声出しちゃってすみません。扉が閉まっていたもので」

 朗義は足元に転がる「Open」と書かれた看板に気がつき、自らの失敗を悟った。

「ごめんなさい。看板、外れてたんですね。あいにく今日は定休日でして」

「えっ、そんな」彼女は革製の手袋に包まれた両手を胸に当て、愕然とした表情でいる。「あの、ご相談だけでもいいんです。どうにかできませんか。お願いします」

 ううん、と唸って朗義は自分の後頭部に手を伸ばした。ちらと見た彼女の、食事をねだる犬のような目は直視に堪えず、つと目を逸らしてしまった。

「まあ、せっかくご足労いただいたので。とりあえず中へどうぞ」

 わざとらしく足元の看板を拾い上げ、何故かにやけそうな顔を見られないように背を向けながら、店中へと案内する。

「よかった、ありがとうございます」

 繁盛することのないこの店でも、オーダーメイド製作の依頼をしに訪れる客は一定数いる。だが定休日に客が訪れるのも、それが新規客というのも、この店を開けて三年目にして初めてのことだ。本来なら後日の来店を促したところで何の問題もないのだが、彼女を前にした朗義にはそれも出来なかった。

「凄い、どれもきれい……」

 店舗スペースには、彼女を歓迎するように大量の球体関節人形が並べられていた。どれもレジン製の肌から滑らかな艶めきを放つ、一般的にキャストドールと呼ばれるものである。

 軽く話を聞くに、彼女がドールショップに訪れること自体初めてのようであった。そもそも趣味でもなければ来ることのない店ではあるのだが、定休日にわざわざ食い下がってまで何を依頼しようというのか。

 彼女を一階の奥にある応接間へと通し、来客用にと用意していたティーバッグを棚から取り出そうと戸を開けた。

「あ、すみません。飲み物は結構ですので、お気遣いなく」

 断られては立つ瀬もなく、そうですか、とだけ返事をして戸にかけた手をまた元に戻す。

 朗義は奇妙さを抱かずにいられない。そもそも、彼女は荷物を何一つとして持っていない。バッグすら持たない身一つの状態で、当然持っているであろうスマートフォンを出す素振りすらない。ただソファに腰掛け、革手袋をまとった両手を膝の上に置いて大人しくしている。

 盆に乗せた茶菓子だけをテーブルに置いて、向かいのソファへ対座した。

「申し遅れました。スフェーンの店主をしています、城戸朗義といいます」

 スフェーンというのが、朗義の経営する店の屋号である。

「あ……こちらこそすみません。えっと、楔野樹くさびのいつき、です」

「楔野さんですね。今回はどういったご用件で? オーダーメイド製作の依頼でしょうか」

「それが、その。指を作っていただきたくて」

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