シガレットコンプレックス

今年の夏はただただ憂鬱で、そのまま過ぎ去ってしまった。

まだ蒸し暑い夏の気配は残っているが、徐々に日が暮れるのが早くなっている。

僕は沈んでいく太陽を背中に背負いながら家路を急いだ。

いつもと変わらない道、風景、あまりの変化の無さにまるで自分は死んでいて、ただ同じ日を繰り返しているのでは無いかと思えてくる。

そんなはずはないのは最近長袖に衣替えした制服と、消えかけている首の跡が証明していた。

角を曲がると、見覚えのあるうちのアパートが見える。しかしそこに、見たことの無い白いボックスカーが止まっていた。目を凝らして確かめるが周りに人の姿はない。少しずつ近づいていくと車はだいぶ古いタイプのもののようで、白い車体には汚らしい茶色い跡や、擦ったような黒い傷があった。ナンバープレートも数字がハゲかけている。

僕は怪訝に思いながらも、入口を塞ぐようにして止まるその車を避けようと体を縮こませる。その時だった。

突然、荒々しくボックスカーのスライドドアが開いた。中から小太りの男が出てくる。男は俺を睨みつけながら近づいてきた。

「お前があの女の子供やろ」

突然のことに何の反応もできずに固まる僕を前に男はまくし立てるよう言葉を続ける。

「あの女がうちの組から逃げた男から預かっとるもんがあるはずや、それ、出せや」

その言葉にふと思い出されたのは、いつの日か母が持ち帰ってきた黒いケースだ。アパートの床下に何から逃すように隠された。

体中から冷たい汗が吹きでるのが分かった。

唇が震える。

「かあ、さんは...?」

目の前の男は嘲るように僕を見下ろした。

「あの女は今俺の仲間らがよぉーく世話焼いとるはずや」

その下卑た笑みに全身の毛が逆立つのがわかった。心臓の音が全身に響くように鼓動し、こめかみが脈打つのがわかる。脳裏にどこかで恐ろしい目に遭っているかもしれない母の姿が浮かんだ。

「...かあさんを返してください。母さんが何をしたって言うんですか!!」

煮え立つような怒りを感じた。涙で霞む視界で必死に男を睨みつける。しかし、男はそんな僕の様子を意に介することなく、グイッと胸ぐらを掴みあげた。

「舐めた口聞くなよガキ、殺すぞ」

ついに僕の目尻から我慢していた涙がこぼれる。男は犬のリードを引っ張るように僕を引きづりながら大声を張り上げる。

「あの女はな、うちの組長のイロやったくせにな、タカシとかいう若い男に誑かされてうちの組のヤクやらチャカやら盗んでトンズラこいたんや」

あまりの衝撃に、思考がついていかない。

「...そんな、そんなわけない!」

僕の必死の抵抗を男はなんでもないようにいなす。

「とんだクソあまやわ!...そんだけならまだしもよりによってそのタカシとかいう男がサツのイヌやって分かってなぁ、こっちはとんだ大目玉やわ!!」

その時、タカシの声が耳元でよみがえった。『とてつもなく汚くて、悪い仕事かな』

『京くんは一生知らんでもええよ』


「ここじゃまずいっすよ兄貴、目立ちすぎる」

背が高く、糸のような目をした男がそう言った。

「ああ、確かにな。まあえぇわ、車の中でじっくりお話ししよう、なぁ?けいくん?」

男は車のドアを荒々しく開け僕を突き飛ばす。硬く埃っぽいシートの上に投げ出された僕は手をついて直ぐに起き上がろうとした。しかし、突然頬に重たい衝撃が走り脳みそが揺れる。僕は再びシートに投げ出された。殴られた頬は熱を帯びドクドクと拍動している。頬の内側が切れたようで口の中に血の味が広がった。殺されると、そう思った。

逆光で黒い影に覆われた男の姿はひとつの黒い大きな塊のように見える。その影がゆらりとゆれ僕に覆いかぶさってきた。その時だった、とつぜんその塊がピタリと動きを止めた。

「兄貴!車が!!」

外にいた男の仲間たちが焦ったような声を上げた。僕はその声に首を持ち上げた。遠くからエンジン音が聞こえる。腹の奥に響くような重い低音、その音は確かにこちらに近づいてくる。

知ってる...この音は...

僕は痛みを忘れシートから体を起こし車から身を乗り出した。そして、音が聞こえた方を見つめる。あまりの興奮に眼振が起こっていた。二重にぼやける視界の中でしかし、確かに僕の目はその姿を捉えた。黒い車体が閑静な住宅街を切り裂くように迫ってくる。車は唸りをあげトップスピードを保ちこちらに近づいてきた。もう少しでぶつかる、そんな時に急激に車体が横を向いた。甲高いスキール音をたてながら激しい衝撃と共にボックスカーの後方に激突する。あまりの衝撃に僕は車から転げ落ちた。次に目を開けると凹んだ黒い車のドアが見えた。あの取り囲んでいた男のうち背の高い男が衝撃に吹き飛ばされたのか、転がっている。ピクリとも動く様子がない。

すると、黒い車のドアが開いた。こちらに歩み寄ってくる影が僕の体を覆い隠すように伸びる。

「た、タカシさん...」

喉の奥からやっと絞り出したかのような声が出た。

影は動きを止めた。

「けいくん..ごめんな」

そう呟かれて、僕はその言葉を理解するのに時間を要した。僕の荒い息づかいだけが静かな空間に響く。

突如、痛みが走った。後ろに首が引っ張られ、目線を下げると割れた車のガラスの破片が突きつけられていた。あの小太りの男が僕を抱え込むように拘束している。男は血走った目で口から唾を飛び散らせながら叫んだ。

「てめぇ!!このイカレ野郎!何考えてやがんだ!!...1歩でも近づいてみろこのガキこ」

しかし男の言葉は最後まで続かなかった。パシュっという乾いた音がして男が膝から崩れ落ちる。その太ももからドクドクと赤い鮮血が流れている。男の喉から発せられた地獄の釜で煮られたような悲鳴が僕の耳をつんざいた。僕は放心し、その場に立ち尽くしていた。男の流した血が僕の茶色いローファーを汚そうと迫ってくる。しかし、その間を躊躇いなく遮る黒い革靴があった。見上げると男の顔は今度は影でなくはっきりと見えた。だがその顔は今まで見たどんな表情とも違う、複雑で今にも泣きだしそうな顔だった。男から引き離すように手を引っ張られる。

「けいくん、怪我ないか?」

僕は俯いたまま、言葉を発せなかった。

「...けいくん、1回家入ろか。落ち着いて怪我がないかもみたいし」

タカシが僕の肩を支えるように歩き出す。

錆びた階段を登っていくと真下にある道路の惨状が見えた。

男は道路に顔を突っ伏すように倒れていた。サイレンが聞こえる。やがてその音が止み、白い車からでてきたスーツの女は男の状況を確認し、こちらを、いや、タカシの方を見て頷いた。もう1人の男が携帯口になにか話している。

タカシの大きな手のひらが僕の顔を覆い、その光景は見えなくなった。



ギシギシと不快な音を立てて開いたドアが閉じられるといつもと変わらない部屋の風景が出迎えた。窓から西日が差し込み畳のささくれをより目立たせている。

俺はその眩しさが苛立たしく、窓に向かいカーテンを閉めた。途端、暗闇と静寂が部屋を支配する。

暗闇に徐々にに目が慣れるとタカシの姿がぼんやりと見えた。

「けいくん...」

「あんた、本当はなんなん?」

伸ばされようとした手がピタリと止まった。

「さっきの男、あんたのこと知っとるみたいやったな、あんな、ヤクザみたいな男。タカシさんヤクザなの?」

タカシは伸ばした手を下ろした。

「...そうや、黙っとったこと、申し訳ない」

タカシは深々と頭を下げた。

「君たちを巻き込んだんも、申し訳ない」

「母さんは?」

「君のお母さんは、うちのもんが迎えに行っとる、必ず無事に保護する。心配しんといて欲しい」

僕はタカシの顔をみつめ、首を傾げ微笑んだ。

「嘘やろ?」

「え?」

「嘘ついとんやろ?」

タカシの表情がぴしりと固まる。

「母さんは逮捕される。そうやんな、だってあんた警察やもん」

タカシは苦しげな表情を浮かべた。

「...どうして 」

「白い車から出てきた女の人あんたの方をみて頷いとった。部下かなんかやろ?」

タカシは俯き一度大きなため息をついたあと髪を掻き乱した。

「さっきの男、ぼくに向かってベラベラ全部話したよ、母さんがヤクザの愛人やとか、あんたが警察の犬やったとか」

タカシは重たく息を吐き、諦めたように呟く。

「そうや...俺は、刑事だ」

「ほらな、やっぱり。...なんで母さんに近づいたんや?」

タカシは僕の目を真っ直ぐにみながらしかし辛そうに顔を顰めた。

「...君のお母さんが、あの組の男と繋がっとって...ある重要な物を渡されたって言う情報が入った。俺は、以前から組に潜入しとって、そんで...」

「そのある物のために母さんに近づいた!!母さんに取り入って利用するために!!」

「けいくん...」

「全部嘘!捜査のため!!下手な関西弁も!!名前も!僕に優しくしてくれた事ですら全部嘘!!仕事のため!!」

男の目が驚きで見開かれた。そして次の瞬間悲痛に眉を寄せた表情に変わる。その表情の変化で僕ははじめて自分が泣いてる事に気づいた。熱い雫は僕の意思とは関係なく勝手にこぼれ落ち畳に黒い染みを作っていく。

男が僕の方に一歩近づいてきた。

「来るな!!」

僕は咄嗟に制服のポケットにあったライターを取り出した。火をつけ男の方に向ける。しかし彼は全く動じなかった。僕の手からライターを取り上げようと向かってくる。僕は自分の方に火を向けた。途端、男の動きがピタリと止まる。

「それ以上近づいたら、火、つける」

体が震えた。

「許してくれ。けいくん、けいくん。俺の事は忘れてくれていい。だから自分を傷つけないでくれ」男が必死の形相で俺を見つめる。しかし、俺はその見当違いな言葉に思わず笑いが込み上げる。

「わすれる...?ははは、本当に..残酷な人」

僕は男から目線を逸らさないままカバンの中から目的の物を取り出す。角張った箱の感触を感じながらそれを男に向かってほおり投げた。

「もう取り返しのつかないとこまで来てるんだよ!!あんたのせいで僕は...!!僕の身体にはこの薫りが染み付いたんだ!!もう、もう自分でもどうにも出来ない!!あんたのせいで!あんたのせいで!!」

男は見慣れたはずのその箱を呆然と見つめていた。そして、腰を屈め拾い箱を握りしめる。

「...けいくん、俺は君に消えない跡を残したんだな。」

男がその箱の底を指先で叩く。出てきた1本のタバコを咥えると慣れた様子で口に咥え、そしてあのオイルライターで火を付けた。チリチリという音がして暗闇にひとつの赤い光が灯った。

僕はその姿を震える身体でみつめた。待ち望んだあの煙、肺に染みいる嗅ぎなれた薫り。

「俺は君に罰して欲しい」

男がポツリと呟いた。

途端、畳を強く踏み込んだ男が一瞬で距離を詰めてきた。あまりの速さに震える僕の体は反応も出来ずにたたらを踏み、そして地面に押し倒される。その拍子に手からライターが滑り落ちた。

男の顔が今までで1番近くにある。男は僕の涙を拭った。そして、冷たく震える右手を掴み僕の手に何かを握らせた。

「タバコ...」

「けいくん、これで俺に跡をつけてくれ、一生消えないような罪の跡を」

僕は驚きで目を見開いた。

男が僕の首をなぞった。そこには、僕の罪のあとがある。残酷に、先生を傷つけた証拠。罪の記憶を孕んだあの跡は、さっきから火ををつけられたように熱く、じくじくと痛むのだ。

「君の罪を一緒に背負わせてくれ」

男は僕の罪など知らないはずだった。けれどまるで全て見透かされたように微笑まれる。

男は僕の右手をゆっくり自分の首元に導いていく。ハッとしてその腕を引こうとしたが強い力がそれを許さない。やがて身体から力が抜けた。ジュッと肉を焼くような音がした。男が苦悶の表情を浮かべ、額から汗が散る。

ようやく手を離すと男の首には赤黒い醜い跡がハッキリとついていた。

男は僕の右手をそのあとに触れさせた。

「これで、俺はこの罪を忘れない。」

男の熱が指先から伝わってくる。

「だから君も、俺を許さないでくれ」

それは何かの儀式のようだった。

遠くからサイレンの音が聞こえる。タカシは床下から黒いケースを取り出すと1度だけこちらを振り返り、そして背中を向けた。黒い、大きな背中が遠ざかっていく。

やがてドアが閉じられ、世界は静寂を取り戻した。

部屋には、ただ焦げ臭い薫りだけが残された。







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