開け放たれた窓からセミの鳴き声が轟いている。夏の湿った熱い空気が肌を撫でて、そろそろ扇風機では限界か、とクーラーのリモコンに手を伸ばそうとするとタカシと目が合った。

「海、行った事ある?」

小さなちゃぶ台を挟んだ向こう側。タバコを咥えた男はテレビの『夏本番まであと少し!海の家特集』を指差した。

「行ったことない。ここらへん近くに海ないし...」

僕がそう答えるとタカシは信じられない物を見るように僕を見た。

「まじか...人生で一回も!?」

僕が首を縦に振る。

「母さん海嫌いだから。臭いし、暑いし、行ってもなんも楽しくないって...」

ふーん、なるほどなー。

タカシはそうつぶやき伸びたタバコの灰を灰皿に落としたかと思うとそのままガラスの底に先を押し付ける。

「よし!京くん準備しや。海行こ」

そう言ってノリノリで立ち上がる。

「海って、いや、冗談でしょ?もう昼過ぎだって。」

「いや、あかん。海はな、人生で1回はその目で見んと」

そう言いながらすでにタカシは車のキーを持って外に出ていこうとする。

「あっ、待って...」

勢いよく開いたドアがギギっと不快な音を轟かせバタンとしまる。部屋に1人きりにされてしまった。

「 ...明日も学校あるんですけど」

思わず独り言が零れる。

慌てて、部屋の隅に充電されていたスマホを充電器から引き抜くように持ち去る。

なにか他にいるものはと見渡しても何も思いつかなかった。

転がるように立ち上がり靴を履く。重い扉を開け、アパートの階段の下を見ると黒い車がすでにエンジンを吹かしていた。

「ホントに行くの?」

車に飛び乗った僕はシートベルトをしながらそう尋ねる。

「ほんとにホンマに行くよ。」

タカシはウィンカーを出し、道を曲がりながら答える。

「京くんがダメって言うならやめる」

戻る気なんてさらさら無いように車を走らせながらそう言う。

「もう...こんな、乗ってまったし...」

「よーし!決まりや!...高速乗ってこ」

機嫌の良さそうなタカシの様子に苦笑する。

ふと、手の中にあるスマホの存在を思い出してメールを開く。

1番上に母、そして隣の男、学校の連絡用アドレスしか登録されていない。

母をタップして文字を打つ。何度か文字を書いたり消したりした。

『タカシさんと一緒に出かけます。心配しないで』

『少し出かけます。夕ご飯はいらないです。』


「なにしとるん?」

信号待ちでタカシが横から画面を覗きこんでくる。

「いや、母さんにメールしとこうと思って...やっぱ母さんに迷惑かかるから戻った方がいいかも」

僕がそう言うとタカシは急に進路変更をして路肩にずれて停まった。

「な、なに?」

「京くん。遠慮しすぎや。貸してね。」

そう言って僕の手からスマホをもぎ取る。

そのまま何か操作をしスマホを耳に当てた。

「...あ、美和子さん?タカシです。今、京くんと出かけてて...帰りは多分遅なります」

夕飯も食べて帰るんで心配ないですよ。

電話越しに聞こえた母の声は最初は少し戸惑っているようだったが最後には「わかった。お願いね」と聞こえた。

「はい、いっちょ上がり」

電話を切りスマホを僕の手に戻してきたタカシがふはっと笑う。

「京くん自由やー。初、夜遊び?」

思えば今までこんな日暮れから出かけるなんてこと一度もした事ない。

「不良になってしまう...」

「あははは!京くん不良デビューにバンザイ!...不良ついでにタバコすってええ?」

急に真面目なトーンで言われて思わず吹き出してしまう。どうぞ。と言うと隣の男は嬉々としてタバコを箱から取りだし火をつけた。

途端車内はタバコの匂いで充満する。


車は高速に入って、快適に風景を追い越しながら進んでいる。僕は道を照らす照明灯を横目で見ながら光が尾を描いて窓の後ろに流れていくのをじっとみていた。

車内にはラジオすらかかっていない。車がすれ違う音だけが静かにこだました。

「匂い、慣れた?」

「え?」

「タバコ、嫌やない?」

タカシが突然ポツリと呟いた。

「慣れた...のかな?...別に最初から嫌じゃなかった...のかも」

タカシの黒い目に対向車のライトがチカッ、チカッと瞬きのように映っていた。

「ほっか...なら嬉しいわ。」

車は進路を変えて高速の出口へ向かっていく。

高速を出てからもしばらく公道を走った。

「そろそろやで!窓開けてみ!海の匂いするわ!」

そう言われて窓をあける。冷たい空気が髪をかき乱すが、タバコの匂いで麻痺した鼻が匂いを拾えない。

「どや?」

「ねぇ。タバコのせいで鼻効かん」

「あはは!ごめん!もう着くわ!」

窓の外はすっかり日が落ちて暗闇が静かに空を覆っていた。

海の姿はまだ見えない。でも遠くから波の音が聞こえた気がする。




「なんも見えへん」

ずざーん、ザッパーンと足元で水が岩肌に当たっている音がする。けれど目を凝らしても見えるのは黒い水面だけだった。

「あちゃー、ここまでなんも見えんとわなー」

「広いのか深いのかも分からんし...砂浜もないし. ..それに海の家は?」

隣のタカシの顔をみる。表情は分からないが白い歯だけが見えた。

「無いね!ここ灘海言うて昔っから流れが激しくて危ないから遊泳禁止のとこやし」

バシャーンと恐怖心を抱かせるほどの波音が轟いた。

...蹴り落としてやろうか。

「はい、解散。帰ろ帰ろ」

僕 はさっさと車の方に歩き出した。

「まってー行かんで京くん!なんも見えんて!老眼きとんねん!」

そんな声が聞こえた気がしたが波の音でかき消されたふりをした。


仲直り?をした僕たちは某有名餃子チェーン店のカウンターに並んで座っていた。

「いやー、まさかあんな、なんも見えんとわ。...予想外。残念やったな」

餃子をつっつきながらタカシがなお未練たらしそうに言う。

「もういいですよ。なんか、思ってたより怖い感じしたし。十分かな」

映像でみる穏やかな真っ青な海を想像していた身としては今日の海には得体の知れない恐ろしさを感じた。

突然タカシがグッと体を反転させこちらを覗き込んでくる。

「...なんです?」

「京くんの海デビューこんなんじゃ納得できん!絶対、海好きー!海に還りたい!って思わせたる!いつかリベンジ!な?」

こちらは餃子を食べようと口半開きの状態だったがあまりの剣幕にそのまま頷いてしまう。

よっしゃー!期待しとき!

そう言ってまたチャーハンをかきこみ始めた。

僕も餃子を口に運ぶ手を再開する。肉とニラとちょっとニンニクの臭い。

あ、明日学校なのに...


リベンジ...

リベンジの機会がはやく訪れたらいいと思った。この人が自分に飽きる前に。なるべく早く。


その時、タカシの携帯がブーと震えた。その表情かさっきまでと一転して冷たくなる。

「京くんごめんな、ちょっと電話やわ」

「うん、大丈夫」

タカシはこちらに優しい微笑みを浮かべた後、さっと席から立ち上がり僕から見えない位置に消えた。

途端に、周りのざわめきが気になる。休日の店は家族連れや多くの人で賑わっていた。

しばらくして、ふわっと煙草の匂いがした。振り向くとタカシが僕の隣にドサッと腰を下ろした。

「あーごめんな、京くん、仕事からのクソ電話、ほんま厄介やわ」

タカシはそう言って冷たい水を飲み干した。

「...そういえばさ、タカシさんってなんの仕事してるの」

その言葉にタカシは一瞬動きを止めた。

「...そうやな、とてつもなく汚くて、悪い仕事かな」

そう言って、頭を撫でられる。

「京くんは知らんでもええよ」

その声が、また僕の心にポつりと染みを落とした。


結局、海はその時の一度きり。リベンジの機会はついに訪れなかった。タカシはあの海に行った日からしばらく経ってパタリと行方をくらませたのだ。何も言わない母に、僕はあの人の事を聞くことは出来なかった。ただ、僕に残されたのはあの人が残して行った苦い煙草の薫りの記憶だけだった。それからだ、僕がこんな風に薫りの呪いに囚われてしまったのは。


とん、とん、とヒールが階段を登る音がする。母だ。僕はつけていた煙草を急いで消して、窓から匂いを逃す。ギギッと不快な音がしてドアが開く。僕はなんでもない顔をして母を迎え入れた。

「おかえり...」

その時、母が大事そうに黒いケースを抱えているのに気づいた。母は黙ったまま僕を横切ると、その頑丈そうなケースを床下の収納に収める。その上から真新しいマットまで敷かれた。

直感でなにかとんでもないものが入っていると理解できた。

僕はそのケースの中身を尋ねる勇気がでなかった。そして、最近パタリと来なくなった男のことも。


ある日の夕方、僕は勇気を出してあの人の行方を母に尋ねた。

母は夕飯の準備をする手をピタリととめた。振り返ることなく静かに呟く。


「あの人のことは忘れなさい。」


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