第2話 「感染の始まり」
沈黙。
龍は言葉を失った。
「……まさか、誰かが盗んだのか?」
「そんな大金、どうやって……」
龍は鏡越しに自分の顔を見た。
その目は、
いつもの自信に満ちた美容師ではなかった。
疑念と、微かな恐怖が滲んでいた。
その後、龍が店内に戻ると、
空気が変わっていた。
スタッフの表情が硬く、
客の笑い声が消えていた。
まるで都市のノイズが、
店の中にまで染み込んできたようだった。
夜。
龍は横浜本社へ向かった。
受付を抜け、
営業部の中森が泣きそうな顔で立っていた。
「沙河店長……
本当に大変なことになりました……」
「22億って……何が起きたんだ?」
中森は震える手でPCを操作し、
売上データを見せた。
全国111店舗の売上金が、
確かに“跡形もなく”消えていた。
「……これ、ただのミスじゃない。
誰かが、意図的に動かしてる」
龍の背筋に、冷たいものが這い上がる。
翌朝。池袋店。
スタッフルームは異様な静けさに包まれていた。
副店長が掲示板に貼られた通知を見つめる。
【ヴィーナスゾーン全店閉鎖のお知らせ】
「……終わったんだな」
龍は椅子に座り、額を押さえた。
スタッフたちは荷物をまとめながら、
カヲルの話をしていた。
「そういえば、あの子……
昨日バックヤードでPC触ってたよな」
「履歴書も、なんか変だった。
ドバイに住んでたとか……」
「しかも、今日から3連休。タイミングが……」
龍の心臓が、ズキリと跳ねた。
(……カヲル。まさか……いや、そんなはずは……)
彼女の鼻歌。植物への語りかけ。
誰も知らない曲。誰にも教わっていない言葉。
そして――アラビア語。暗号通貨。中東情勢。
(……あれは、ただの雑談だった。
俺が勝手に面白がってただけだ。
でも……あれは、偶然だったのか?)
龍は、自分の中に芽生えた
“疑念”に戸惑っていた。
信じたくない。
でも、頭が勝手に動いてしまう。
そのとき、店のドアが開いた。
黒いスーツの男が、静かに入ってくる。
「東京地検特捜部、黒崎透です」
名刺を差し出す手は、無駄のない動きだった。
眼鏡の奥の瞳は冷静で、不気味な笑顔
どこか“人間の温度”が欠けていた。
龍と黒崎は応接室に行き、
黒崎から資料を見せられる。
「瀬貝カヲル。
あなたの店舗に所属するアシスタントに、
今回の資金消失の容疑がかかっています」
「現時点で最も可能性が高い」
「彼女は現在、消息を絶っています」
龍の喉がひきつる。
昨日までの笑顔、植物に話しかける姿、
鼻歌――
それらが、
都市のノイズに飲まれていくような感覚。
「……カヲルが?本当に?
あの子が……?嘘だろ」
龍の声は震えていた。
黒崎は書類を閉じ、低く告げた。
「この事件は、すべてこちらで対処します。
沙河さんは何もせず、通常どおり仕事を続けてください。
――余計なことは、なさらないように」
その言葉だけが、異様に重く響いた。
命令ではなく、“警告”のように。
龍は無言で頷いた。
だがその瞬間、黒崎の目が一瞬だけ、
どこか遠くを見た気がした。
そして不気味な笑顔
焦点の合わないその視線は、
まるでこの場ではなく
“別の場所”と繋がっているか――
都市の“秩序の中枢”と繋がっているようだ。
黒崎が去ったあと、
龍は鏡越しに自分を見つめた。
鏡に映る自分の目が、
都市のノイズと呼吸が重なっていた。
その目には、
もう“日常の美容師”の光はなかった。
(……何もしないでいい、か。
いや……どう考えても、おかしいだろ)
都市は、
微かな感染を帯びながら静かに動いていた――
そして、
龍の中で“何か”が目を覚ましかけていた。
その夜。
龍は自宅のソファに沈み込んでいた。
テレビには赤い速報テロップが流れている。
【緊急速報】
美容室チェーン「ヴィーナスゾーン」
全国111店舗、売上金総額22億が消失
警察が捜査に乗り出す。店舗経営に深刻な影響の可能性。
龍は思わず立ち上がった。
(……マジか。全国ニュースになってる……)
スマホにも通知が次々と届く。
SNSでは既に、
「瀬貝カヲル容疑者」の名前が拡散されていた。
その文字列を見た瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。
部屋の空気が重くなる。
窓の外では、都市のノイズが遠くでうねっていた。
龍はカーテンを少し開け、夜の街を見つめた。
(……カヲル。お前は、何を見ていたんだ?)
そのまま眠れずに朝を迎えた。
翌朝。池袋店。
いつもならスタッフの笑い声と
ドライヤーの音で賑わうはずの店内は、
今やゴーストタウンのようだった。
副店長が無言で掲示板を見つめる。
そこには「ヴィーナスゾーン全店閉鎖」の通知が貼られていた。
龍は椅子に座り、手のひらで額を押さえる。
(……本当に、終わったんだ……)
スタッフたちは沈黙したまま、荷物をまとめている。
一条玲子が、
荷物をまとめながらぽつりと呟いた。
「……龍さん、あの子、最後に
“ありがとう”って言ってたんです。
3日前の夜、誰もいない店内で……鏡に向かって」
龍は言葉を失った。
玲子の目は赤く、涙を堪えていた。
副店長の村上は、
掲示板を見つめたまま言った。
「……俺、あいつに“もっと教えてやれ”
って言ったばかりだった。
でも、あいつ……俺よりずっと空気読んでたよな」
その言葉に、龍の胸が軋んだ。
黒崎の冷たい目と、
玲子たちの“人間の温度”が、
都市の中で奇妙に乖離していた。
(……あの子が消えたのも、
この一連の裏で動く力のせいなのか?
陰謀論……過ぎるか?)
だが、昨日の黒崎の言葉が頭から離れなかった。
(……あなたは、何もしなくていいです)
「……なんだったんだ、アレは。
何で“何もしちゃいけない”んだ?」
誰も、カヲルの居場所や事件の真相は知らない。
だが、龍だけは“違和感”を拾っていた。
それは都市の空気の中に、微かに混ざっていた。
東京の街。
ニュースでは、ヴィーナスゾーン倒産の速報が繰り返し流れる。
SNS上では「カヲルの失踪」と「22億消失事件」の書き込みが炎上していた。
しかし、表面上の混乱とは裏腹に、
龍の頭の中には、
静かに“計画の輪郭”が浮かび始めていた。
(……まだ、終わらせない。真相は、俺が確かめたい――)
「その前に、次の働く場所決めないと!」
そう言いながらも、
頭の奥には黒崎の冷たい目が浮かぶ。
あの視線は、龍がまだ気づいていない
“都市の闇”を示していたのかもしれない。
倒産は、ただの始まりに過ぎなかった。
都市の影で、すべてを見通す力が、
静かに次の波を打ち始めていた――。
鼻歌が、どこかで微かに聞こえた気がした。
それは、
都市のどこかでまだ響いているようだった。
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