2-5 夜半に想う
ハミルカルが界長殿へと戻ると、執務室に皓々と明かりが灯っているのが目に入った。特に急ぎの用事があるというわけではなかったので、微動だにしない近衛兵達に軽く労いの言葉をかけてから、遠慮がちに扉を叩いてみる。
「父上。ハミルカルです」
「入れ」
承認の声に、ハミルカルは扉を押し開けた。簡素な室内を皓々と光球が照らし出し、昼間とはいかないまでも書物に目を通すに不自由しない程度の明るさはある。神界長クリストフは卓に積まれた膨大な書物にざっと目を通しているところであった。
クリストフは顔を上げ、扉を閉めたハミルカルを見やる。
「どうした、この様な夜更けに」
「いえ……父上がご覧になっているのは?」
「遠征していた間のそなた達の成績表だ」
すなわち内政の成果だ。財政から治安、衛生、戦災弱者への援助、外部からの防衛と、あらゆる面をハミルカルとグラゴスで取り仕切って来たのだ。緊張して身構えた息子を見て、クリストフは声を立てて笑った。
「案ずるな。良くやってくれている」
「有り難きお言葉。そうだ、父上に二、三お伺いしたいことが」
「何だ」
「それが、……」
ハミルカルが父が不在の間気にかかっていた些細な問題点を口にすると、クリストフはふむと鼻を鳴らし、適切な助言を与えた。物事を多角的に捉える父の器量と発想の機転に、ハミルカルは感嘆の吐息を漏す。
「……さすがは父上」
「まだそなたら小童に出し抜かれるような余ではないぞ」
「余は小童ではありませぬ」
父への賞賛を捨て切れずに弱気な口調で反論したハミルカルを見て、クリストフは苦笑いを浮かべる。
「そうであったな」
「……父上には、及びませぬが」
「自慢の息子だ」
ハミルカルと同じ銀の瞳で、クリストフは微笑む。
「次の遠征の時も頼むぞ」
「はい」
ハミルカルは真剣な顔で頷き、略式の礼を取った。クリストフは微笑みながら頷き、再び膨大な書類へと視線を落とす。
「ハミルカル」
「はい」
「ディアネイラの所へ行っていたのか」
書類から視線を上げず、それどころかぱらぱらとめくり、卓に置いたものと手に取ったものを見比べながらクリストフが呟いた。ハミルカルはギョッとするが、さすがにそこで取り乱すような失態は犯さない。
「何故それを」
クリストフは視線を動かさずにふわりと苦笑いを浮かべる。
「界長殿から来るのであれば、奥の扉から入ってくるはずだ」
確かにハミルカルが入って来たのは界長殿と大神殿を結ぶ回廊側の扉である。反論出来なくなった息子を笑うわけでもなく、諫めるわけでもなく、クリストフは次の書類に手を伸ばす。
簡素な室内を照らす薄黄色い明かりは、蝋燭の炎のように揺らめくことはない。
「父上」
「何だ」
「ディアネイラの、邪剣の事はご存知ですか」
「邪剣か。
「あれは憎悪を増幅させる剣だということ、父上はご存知ですか」
ふとクリストフは手を休め、顔を上げた。
ハミルカルはいつになく真剣な顔で父を見上げている。あどけない顔立ちとは裏腹に、銀の瞳には鋭いまでの光が宿っている。
クリストフは淡々と息子の面差しを観察し、ゆっくりと銀の瞳を瞬かせた。
「……あの剣は余が与えたのだ。知らぬ訳があるまい」
ハミルカルは顔をしかめる。
「ディアネイラが剣の邪気に呑まれるやも知れぬこと、考慮に入れなかったのですか」
「……呑まれておるのか?」
「いえ」
父と子の、二つの銀の瞳が薄明るい光を、互いの顔を映し、ゆらりと揺れた。
「……そなたも、あれが邪剣を手にしているのを今知ったわけではあるまい」
「例え手にした時に無事であっても、長く使うているうちには呑まれぬとも限りませぬ」
ハミルカルの眼差しを真正面から受け、クリストフは溜息を洩らす。
「そなた、前々から何かとあれを気にかけるな」
「第三隊はいずれは余が指揮することになります。その将軍を気にかけぬわけが」
「好いておるのか。ディアネイラを」
ハミルカルはその幼い顔に何の表情の変化も生み出さない。ただ、僅かに眉をひそめた。
沈黙。
互いに凍り付いたように視線を動かさず、それぞれの銀の瞳が相手を観察する。ハミルカルは挑戦的な、クリストフは淡々とした眼差しだ。
やがて、クリストフは苦笑いを浮かべた。
「そう邪険な顔をするな。咎めているわけではあるまい」
「……父上」
ハミルカルは未だにその表情を変えない。
「ディアネイラの邪剣、いかが思われているのですか」
「……あれは強い。時と共に呑まれるようならば、初めから与えなどせぬ」
「……左様で」
全く表情を変えることのない父を見て、ハミルカルは溜息混じりに呟いた。略式に退室の礼をし、入って来た時とは異なる扉──界長殿の奥へと続く扉から退室する。
扉が閉まり、ハミルカルの足音が消え去って、執務室には完璧な沈黙が訪れる。
クリストフは再び書類へと視線を落とした。しばらくの間、沈黙に書類がこすれる僅かな音だけが響く。神界長が顔の向きを変えた時に紅蓮の髪がさらりと揺れる音さえも、耳障りなまでに聞こえた。
やがてふと手を止める。
「
クリストフの端整な顔が僅かにしかめられる。
「ディアネイラ……」
神界長の呟きは、沈黙の上を滑るように広がり、淡く砕け散った。
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