2-4 邪剣「凍てつく心臓」

 訓練生として、ディアネイラは多くの少年たちに混じって戦闘科に配属された。天賦の才か、あるいは努力の賜物か、ディアネイラはみるみるうちに上達していき、数年後には同世代──十二前後の少年たちでは歯が立たぬ程になっていた。それでもディアネイラは満足せず、時には年上の訓練生までも相手にして、がむしゃらに己を鍛え続けた。訓練生内で練習試合が開催される時などにはハミルカルがやって来て、少年たち、あるいはディアネイラと談笑し、試合を興味深げに眺めから帰るのだった。ディアネイラは噂話で、自分が配属された部隊は将来ハミルカル直属の軍となるために養成されていることを聞いた。

 そんなある日、ハミルカルが練習試合でもないのに顔を出した。何事かと多少慌て、多少歓喜入り交じる訓練生達を激励した後、ハミルカルはつとディアネイラを引き寄せた。

「父上がお呼びだ」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声で囁かれた。ぎくりと硬直し、美しい顔をしかめたディアネイラを見て、ハミルカルも同じように顔をしかめる。だがそれ以上は何も言わず、ディアネイラのみを伴って界長殿へと歩き出した。

 長い長い回廊を抜け、ハミルカルに導かれるままに通された神界長執務室には、紅蓮の髪の男──クリストフがいた。

 あの、全てが燃え尽くされた日と、全く変わってはいなかった。鍛えられた体躯。黒いコート。紅蓮の髪に、どこか悲しげな銀の瞳。

 覚えていてくれたのだろうか。

 取るに足らぬ、孤児となった娘など。

「連れて参りました」

「ディアネイラです」

 戦闘科式の略礼をすると、クリストフはその端整な顔に苦笑いを浮かべた。あの時の凄惨な表情とは似ても似つかぬ、柔らかなものだ。

「多少、背が伸びたか。顔も随分と凛々しくなった」

 その穏やかな言葉に、大抵の者は畏怖を感じるという。

 ディアネイラも例外ではなく、慌てて膝をついて頭を垂れた。ハミルカルが苦笑し、クリストフは笑いながらディアネイラに近寄った。

「ハミルカル。下がれ」

「は」

 少年は一礼し、完璧な仕草でもって退室した。扉が閉まってからもしばらくクリストフは微動だにせず、ようやく溜息をついてからディアネイラの前に膝をつく。

「神界長さま! そのような」

「構わぬ。そなた、ディアネイラと言ったな」

「私如きに、そのような」

「ニアーテ村を壊滅させたのは余の至らなさ故だ。余が憎いのならば、そなたの気が済むまで罵倒を甘受しよう」

 クリストフの真剣な言葉にディアネイラは慌てて首を振る。

「とんでもございません! 神界長さまを、罵倒など、そんな」

「罰しはせぬ。正直に申せ」

「あそこに魔界軍が出現したのは全くの予想外、神界長さまの迅速な出撃あってこそ、被害は私の村のみで済んだと聞いております。それを、恨むなどと、逆恨みです」

 クリストフは沈黙する。

 銀の瞳で、少女の真摯な紫の瞳を、じっと見つめる。

「……嘘は、ついていないようだな」

「はい」

「……では、やはり憎いのはバルケスか?」

「はい」

 ディアネイラはクリストフから視線を逸らした。バルケスの名を聞く度に──あるいは思い出す度に、身体を引き裂かれるような痛みを伴う憎悪が沸々と湧いてくる。怨恨にも近いそれはディアネイラを突き動かし、自らを厳しく、激しく追い立てる。剣を握り、がむしゃらに振るえと駆り立てる。

 私には。

 もう、この憎悪しか残されていないのだから。

 クリストフは小さく溜息をついた。

「そなた、強くなりたいか」

「はい」

「何故強くなりたい」

「仇を討つためです」

 淀みのない言葉と曇りのない瞳。クリストフは躊躇いがちに視線を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。

「強くなるためならば、そなたが持つもののうちで如何なる犠牲も厭わぬか」

「はい」

 黄昏の空のような、黄金と藍の狭間に生まれる紫の瞳。

 クリストフの銀の瞳が、少女の眼差しを見据える。

「ついて参れ」

「はい」

 クリストフは執務室から界長殿の奥へと向かう扉を開け、そこからまた長い回廊を歩き出した。回廊は複雑に入り組んでいて人気がなく、クリストフを見失ったならば、もはやディアネイラはもと来た道を辿ることは不可能であろう。神界長の真意が読みとれず、紅蓮の髪が揺れる長身の後ろ姿を見上げる視線が訝しげなものになった頃、クリストフは足を止めた。長い間使われず、蝶番がさび付いている物々しい扉を、ゆっくりと押し開ける。

 室内は闇。

 その中で、ぼんやりと緋く光る、一筋の光があった。

「入れ」

 ディアネイラは言われるままに室内に入る。クリストフも中に入り、慎重に扉を閉じた。闇が支配するかと思われた刹那、クリストフの手に小さな光の球が出現する。それは天井近くまで上昇し、狭い室内をぼんやりと照らし出した。

 先刻緋い光だと思ったものは、一振りの剣だった。

 岩に突き立てられ、自ら光を放っている。炎のように緋色に透き通り、刀身は鋭く厚く、屈強の戦士が扱う代物であることはすぐに見て取れた。だがそれ以上に、剣自体が見る者をぎくりと凍り付かせるような、禍々しい空気を纏っているかのようだ。

「神界長さま、これは……」

「邪剣凍てつく心臓フロズンハートだ」

「邪剣……」

「持つ者の闘争本能、身体的能力を著しく促進し、同時に憎悪、破壊衝動といったものも増幅させる。過去に何人もの戦士がこの剣を手にしたが、みな増幅した憎悪に勝てず、命を落とした」

 クリストフは淡々と語る。

 困惑したディアネイラを見て、僅かに顔をしかめる。

「この剣を、そなたに授けよう」

「……私……に?」

「そうだ」

「……お待ち下さい、恐れながら私は未だ訓練生の身、この様な剣を神界長さまから授かるなど」

 しかめた顔のまま腕を組み、クリストフは溜息をついた。

「そなた、訓練生の中では随一の実力を誇るそうだな」

「…………」

「今、年はいくつだ」

「……十二です」

「十二ならば、まだ同年代の男に劣るまい。だが十五、二十と年を重ねていっても、彼らと対等でいられる自信があるか?」

「……それは……」

 考えてもみないことだった。

 がむしゃらに、ただ強くあればいい──そう望んでいたのだから。

 言葉に詰まったディアネイラを見て、クリストフは更に顔をしかめた。

「そなたは、バルケスと心中するつもりなのか?」

「心中……とは」

「バルケスを倒したと共に、そなたも死ぬのかと聞いておる」

「それは……」

 またもや言葉に詰まる。

 今のディアネイラは、それだけ──バルケスを倒すことだけを生涯の目標と掲げて生きてきたのだから。

 そのバルケスを倒したら。

 私は。

「どちらも、考えておらぬだろう」

 冷酷とも言える言葉に、ディアネイラは拳を握り締める。

「……ですが神界長さま、私はどうしてもあの男を討たないことには死に切れません!」

「討つなとは云わぬ。よいか、この凍てつく心臓フロズンハートは、闘争本能と共に憎悪も増幅させると言ったな」

「はい」

「そなたがこれを手にし、使いこなせたならば、並の男など足元にも及ばぬほど強くなるだろう」

 はっとしてディアネイラは緋色の邪剣を見つめる。

 彼女に呼応するかの如く、邪剣は一瞬その輝きを増した。

「だが、分かるな? この剣を手にする者は、内の憎悪を抑えなければならぬ」

「憎悪を……抑える……」

 ディアネイラは呟いたきり、何も言わなくなる。

 冷水を浴びせかけられたような予感が全身を駆けめぐる。それを見て取り、クリストフは意を決して言葉を紡いだ。

「そなた、バルケスを討つために、バルケスへの憎悪を捨てる覚悟はあるか?」

 冷たい手に、心臓ががしりと鷲掴みにされる。

「その邪剣を見事に使いこなし……バルケスを討ち、魔界との戦いが終わった暁には、潔く剣を手放すことを誓うか?」

「…………」

 心臓の鼓動が高鳴る。

 今でも鮮明に思い出せる炎の記憶。妹の絶叫と、母の絶望の呟きと、弟の決断の宿る瞳と、それぞれの無惨な死に様。バルケスの破裂するような哄笑。今からは信じられぬほどか弱く力無い自分。兄が告げたバルケスの名。全てを失ったときの喪失感。それら全てが憤怒に、憎悪となり、腹の底から脳天まで突き上げてくる。

「……この……憎悪を……捨ててしまったら、私に一体何が残るのですか」

 クリストフは憐憫を込めた瞳で見つめるだけで何も言わない。

「親を失い、兄弟を失い……ただあの男に復讐するためだけに生きてきた私から、この怒りを取り除いてしまったら……私は、何になるのですか」

「ディアネイラ」

 クリストフは銀の瞳を閉じる。

「憎悪に突き動かされて剣を振るおうと、平凡な村娘としてその生涯を終えようと、そなたはそなただ」

 ディアネイラには、クリストフの苦い表情からは何一つ読みとれない。

「決断せよ。憎悪を捨てて剣を取るか、憎悪と共に娘として生きるか」

「それは……私に……戦闘科を、やめろ、と……仰るのですか?」

 クリストフは何も言わない。

 ディアネイラは唇を噛みしめる。

 憎悪を捨てて剣を取るか。

 憎悪と共に娘として生きるか。

 今でも脳髄の奥にこびりついている、あの男の哄笑。母と妹を貫いた剣。凄惨な弟たちの死に様。姉の虚ろな瞳と、兄の最期の微笑み。

 轟々と全てを焼き尽くす炎。

 全身を貫く激痛。留めなく溢れる涙と、沸き上がる怒り。

 悔しさ。

 そして全てを浄化する白い光。

 強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。けれどそのためにはこの身を貫く憎悪を消さなければ。憎いあの男への憎悪を消さなければ。

 出来ない。忘れることなど出来ない。目の前で母を、妹を殺し、弟たちを殺し、唇を噛みしめて弱々しく抵抗を続けるディアネイラを嘲笑った奴等を忘れることなど。兄が命を賭けて教えてくれた、バルケスの名を忘れることなど。

 けれど。

 例え憎くとも。

 何も出来ずに泣いていた、あの時の自分よりは。

 誰も助けることが出来なかった、あの時の自分よりは。

 この身を引き裂いてでも。

「神界長さま」

 クリストフは微動だにしない。

凍てつく心臓フロズンハートを、私に下さい」

「……辛いぞ」

「承知の上です」

「万が一失敗した場合は、命を落とすことになるぞ」

「本望です」

 幼い少女の紫の瞳には、もはや迷いの片鱗も窺えなかった。ぎらぎらと決断に燃える瞳を見つめ──クリストフは、悲しげに瞳を歪める。

「……剣を手にするが良い」

「はい」

 剣が、挑発するようにその輝きを増した。

 ディアネイラはごくりと喉を鳴らし、そろそろとその柄に手を伸ばし──思い切って、ぐっと握った。

 その瞬間、柄を掴んだ掌から血潮にも似た熱い何かが迸り、ディアネイラの脳髄を直撃した! 感情が渦のようになって押し寄せ、増大し、ディアネイラの意識が引きずり込まれそうになる。

 憎い。

 憎い。

 あの男が憎い。皆を殺したあの男が憎い。殺してしまいたい。引き裂いて、踏みにじって焼き尽くしてしまいたい。母の絶望を、妹の痛みを、弟たちの恐怖を味わうがいい。姉の虚無を、兄の無念を背負って藻掻き苦しむがいい。私がお前をどこまでもどこまでも陥れて蹂躙して肉の一欠片に至るまで全て叩き潰してやる。

 駄目だ。

 流されては駄目だ。

 憎い。殺してしまいたい。この命を投げ出してでも。

 駄目だ。

 駄目だ、駄目だ、憎い駄目だ、流されては駄目だ、殺したい、駄目だ。駄目だ駄目だ、どうしても駄目だ、私は殺したい駄目だ。

 ディアネイラの全身から汗が滝のように噴き出し、邪剣の刀身がより緋く輝いた。クリストフは無言でその様子を見守っている。ディアネイラは苦痛に顔を歪め、がくがくと震える膝を剣にすがりながら支えている。

 駄目だ。殺したいけれど駄目だ。憎いけれど駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目なんだ。私はディアネイラ、誰よりもあの男が憎いけれど、駄目だ、その為には駄目なんだ。

 駄目だ。

 私は。

 必ず、この邪剣を。

 その瞬間、硬質な硝子が砕けるような衝撃がディアネイラを襲い、少女は小さく悲鳴を上げて膝をついた。それでも邪剣は離さず、何とか柄を握っている。

 クリストフが慌てて駆け寄り、ぐったりとしたディアネイラの身体を支えた。

「大丈夫か」

「…………う……」

「余が分かるか」

「……はい」

 ディアネイラの瞳は朦朧としていたが、その言葉はしっかりしている。クリストフは安堵の溜息を洩らし、少女の手を邪剣から外させた。

「そなたは邪剣に打ち勝った。今日から凍てつく心臓フロズンハートはそなたものものだ」

 ディアネイラは大きく深呼吸し、よろよろと立ち上がった。もう一度邪剣の柄に手を伸ばす。刀身は緋色に輝き、ディアネイラは顔をしかめたが、ゆっくりと突き立てられた剣を引き抜いた。

凍てつく心臓フロズンハート、確かに受け取りました」

 幼い美貌が、ニッと強気な笑みを浮かべて見せた。




*  *  *  *  *




 回想が途切れたところで、ディアネイラは小さく溜息をついた。

 あれから十年近くたった今、みすぼらしい少女は美貌の女将軍へと成長した。邪剣を振るい、魔界軍と勇猛に戦う戦の女神として、あるいは邪剣将軍として賞賛をほしいままにした。その傍らには常に凍てつく心臓フロズンハートがあった。

 夜の空気はひんやりと冷たい。

 突き上げる衝動を抑え込むには、丁度良いくらいだ。

 少し骨張った自分の手を見つめる夕焼け色の瞳には、幼い頃のように憎悪に燃えることも、悔しさに涙することもない。冷静で芯のある、強い意志のみを宿している。

 やがて愁いに沈んでいた美貌の顔は苦笑いに変わり、傍らの剣を壁に立てかけた。

「次も頼むわよ、相棒」

 邪剣は僅かに光ったような気がした。






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