2-3 ハミルカルとの邂逅

 ディアネイラが意識を回復したのはあれから三日後だと、顔を洗っている時に兵の一人が教えてくれた。傷を治したのは神界長だとも教えられた。あれだけ酷い傷を負っていたのに、彼女の身体は何事もなかったかのように回復していた。

 かつての村に足を運ぶと、炎が全てを飲み尽くし、黒い廃墟と化していた。兵たちは黙々と遺骸を一カ所に集めて来ていて、その中にはディアネイラの母と弟二人、妹も混じっていた。身体中が殻一枚を残して空虚になってしまったかのようで、ごろりと転がる家族の姿はいやに作り物のようだった。小さな村なので、遺骸のほとんどが顔見知りだ。ディアネイラが足を進めるうちに、左腕を失い、虚ろな瞳で虚空を見上げている姉の遺骸を見つけた。

 姉は微動だにしなかった。

 ディアネイラと同じ紫の瞳は、何も語っていなかった。

 涙は枯れ果ててしまったかのように、一粒も零れ落ちなかった。

 やがて兵の誰かがディアネイラを呼びに来た。外套にくるまれて馬に乗り、遺骸を火葬する煙をぼんやりと見上げていた。周囲は驚くほど静かだった。誰もディアネイラに話しかけないからかもしれなかった。あるいは、耳の奥底で炎が燃え続ける轟々と言う音が消えないからかもしれなかった。日は昇り、沈み、夜は訪れ、再び朝を迎えたが、ディアネイラには何日が過ぎたのか、自分がどこにいるのかも分からなかった。何も考えられない。考えるのを自分の中の何かが拒否している。そうして幾日かが過ぎ、騎馬隊は中央の街セントリアへと辿り着いた。

 兵舎に案内されるがままにぼんやりと歩いて行くと、暗く沈んでいた兄が驚愕して紫の瞳を見開いた。

「ディアネイラ!」

 抱き締められる。兄の腕は太く強く、今にも崩れ落ちてしまいそうなディアネイラをしっかりと繋ぎ止める。

「生きてたのか! ディアネイラ!」

「レオニード兄さん」

 兄はディアネイラを息が詰まるほどきつく抱き締め、しばらく声を殺して泣いていた。涙はディアネイラを侵蝕する虚空にも静かに染み渡り、ディアネイラも顔をくしゃくしゃにして泣いた。泣くしか出来なかった。

「……みんな、死んだのか」

「ん」

 それぞれの死に様を思い出し、ディアネイラは痛々しく顔をしかめる。

「マリナディ姉さんは、どうしてかは分からないけど。母さんと、ディオンと、キレナと、アケムは、殺された」

「…………」

「殺されたの、兄さん……兄さん、殺されたの」

「……ディアネイラ」

「私、何も出来なかった」

 小さな妹がぽろぽろとこぼす涙を、レオニードは拭ってやる。

「私も、神界長さまが助けて下さらなかったら、殺されてた」

「ディアネイラ」

「何も出来なかった!」

 他の兵士たちが痛々しい視線を送る中、ディアネイラは叫び、レオニードの胸ぐらを掴んで力の限り揺さぶった。

「目の前で……殺されるの、何も出来なかった!」

「ディアネイラ」

「キレナが、お姉ちゃんって呼んでた……」

「ディアネイラ」

 レオニードはディアネイラの背中をさすってやる。彼の顔もまた苦々しく歪んでいる。

「お前が生きててくれただけで、兄さんは少し救われたよ」

「でも……」

「兄さんが仇を取る。取ってやる」

「本当に?」

「兄さんは強いぞ」

 兄は苦笑いを浮かべ、右腕をぐっと曲げて見せた。隆々たる筋肉をディアネイラに触れさせ、再び抱き締める。

「どんな奴だ? 覚えてるだけでいい」

「……人間の、形だけど。腕は毛が生えてて、多分人間の手じゃない。背中には黒い羽根があって……それで、飛んでいった」

「腕に毛が生えて、黒い羽根……」

 ディアネイラにもはっきりと分かるほど、兄の紫の瞳が憎悪にゆらりと揺らめいた。

「分かった。いい子にしてるんだぞ」

 その日は兄の兵舎に泊まり、次の日からディアネイラは中央の街セントリアの戦災孤児院に預けられた。兄は一日に一度は顔を出し、ディアネイラが駆け寄ってくるのを見ると、ほっと安堵の溜息をつくのだった。

 そんな日々がしばらく続いたある日、レオニードがぽつりと呟いた。

「ディアネイラ。兄さんは次の遠征隊に選ばれた」

「本当? 戦いに行くの?」

「ああ。必ず帰ってくる。だから俺がいない間もいい子にしてるんだぞ」

「うん」

 頷いては見せたが不安げなディアネイラをじっと見つめ、レオニードは微笑んだ。

 レオニードは騎馬隊の一員となり、颯爽と、中央の街セントリアから出撃していった。孤児院では塞ぎがちなディアネイラだったが、食事もろくに取らず、ぼんやりと窓辺から遠征軍の方向を見つめる日々が繰り返された。情報科からの情報や流れてくる噂では、遠征軍は向かうところ快進撃のようだった。

 案ずることはない。

 兄はきっと帰ってくる。

 そう自分に言い聞かせていた頃、遠征軍が帰還した。街中が大歓声に包まれる中、何人かの兵達が孤児院に駆け込んで来て、ディアネイラの手を掴んで走り出した。

 連れて行かれたのは、兵舎の医務室。帰還したばかりの兵達が集まる中、寝台に、包帯だらけの男──レオニードが、かろうじて呼吸をしながら、横になっていた。

「……兄さん……」

 半ば状況が信じられず、震える声でディアネイラが呟く。兵の誰かが彼女の背を押し、レオニードの前に押し出した。

「ディア……ネイラ……」

「兄さん!」

 レオニードはがしりとディアネイラの肩を掴んだ。半ば虚ろだが、だが意志だけはぎらぎらと輝く紫の瞳で、同じ瞳の妹をひたとみつめる。

「バルケス」

「え?」

「母さんと……ディオン達を、殺した奴の名前だ」

「……バル、ケス?」

「黒豹の腕に、悪魔の翼……魔界の将軍、バルケスだ」

「将軍、バルケス……」

「強いぞ。俺はもう駄目だ」

「兄さん」

 ディアネイラは兄の手にすがる。兄はディアネイラの肩を握る手に力を込める。

「お前は強い子だ。兄さんがいなくても大丈夫だな」

「兄さん、やだ、兄さん」

「ごめんな……」

 レオニードは微笑み、両腕ががくりと力が抜け、少女の小さな肩から滑り落ちた。

「兄さん!」

 ディアネイラはがくがくとレオニードを揺する。レオニードはその手に触れ、うう、と苦しげに呻き──深く息を吐き出した。

 二度と動くことはなかった。

「兄さん! 兄さん! レオニード兄さん!」

 知らず知らずのうちに溢れ出した涙を拭いもせず、ディアネイラは未だにレオニードを揺する。兵のうちの誰かがそっとディアネイラを引き離した。彼らの言うところ、敵の将軍バルケスと相対した時、先発隊のレオニード達は、バルケスらの猛攻を食らい殆どが死亡、レオニードも瀕死の重症を負った。その場で息絶えてもおかしくない深手だったが、彼は気力だけで今まで生き続けていたらしい。

 だがその兄も。

 今は息絶えて。

 ディアネイラの前で、ものも言わずに横たわり。

 嗚咽は洩れることはない。ただ涙だけが留まることなく零れ続ける。遠慮がちに肩に乗せられた誰かの腕を振り払い、ディアネイラはどこへともなく走り出した。涙は雫となって散り、結い上げた金髪が背に当たって邪魔だった。大声を上げて泣き崩れるほど脆くなく、兄のように仇をとろうと思えるほど強くはない自分が憎かった。いっそのこと自分もこの身を引き裂かれてしまえばどんなにか楽だったろう! けれど、あの黒い翼の悪魔に身を引き裂かれることを想像しただけで身の毛もよだつ思いがする。汚れきった、哄笑を浮かべるあの悪魔に魂までも蹂躙されるなどあってはならない。

 けれど私は。

 あの悪魔に敵うほどの力はない。

 どこなのかも分からずに駆け続けていると、不意に誰かが腕を掴んだ。

「そなた」

「離して!」

 振り払おうとしてはっと気付いた。

 それはまだ幼い子供だった。銀の瞳に紅蓮の髪を長く三つ編みにして背に垂らした、利発そうな顔立ちの少年だ。年は、ディオンよりも少々年かさなくらいか。だがそれ以上に既視感を、あるいは年齢に不釣り合いな聡明さを見出し、ディアネイラは困惑する。

 少年は顔をしかめ、おずおずと手を離した。

「何を泣いておる?」

「…………」

 言葉に詰まると、少年はそれだけで全てを見通したようだった。

「父親か。家族か?」

 悲しげに呟く。

 絶望の淵から自分を抱き上げた男のような、銀の瞳。

「済まぬ」

 ディアネイラは更に困惑する。

 だが、その困惑を口にする前に、兵たちがディアネイラを探してばたばたと駆け寄ってきた。そして傍らの紅蓮の髪の少年を見て、慌てて膝をついて頭を垂れる。

「ハミルカル様!」

「ご無礼を、この子はたった今肉親の兄を亡くしまして、錯乱しておりますので」

「構わぬ。呼び止めたのは余だ」

 憮然とした表情で、だがぴくりとも物怖じもせずに少年は呟く。流れた涙もそのままに少年と兵たちを見比べているディアネイラを見ると、何も言わずに微笑を浮かべた。

 ハミルカルという名には聞き覚えがあった。

 確か。

 父親譲りの強大な力故に、成長が著しく遅れているという。

 神界長クリストフの長男、ハミルカル。

 はっと紫の瞳を見開いたディアネイラを見て、少年は微笑を苦笑に変える。

「何かの折りには申せ。名を聞いておこう」

 ディアネイラは困惑し、助けを求めて膝をついた兵たちを振り仰いだ。心得たのか、兵の一人がおずおずと口を開く。

「この子はレオニードの妹、ディアネイラです」

「ディアネイラ。何か、望むものはあるか」

「…………私は、両親も、兄弟も、みな亡くしました。何かを望む気になど、とても」

「そうか?」

「……一つだけ、あります」

「何だ」

 ディアネイラは涙を乱暴に拭い、唇を噛みしめた。

 思い出す度に涙がこぼれそうになる。

「魔界の、将軍バルケスを、必ず、倒して下さい。仇なんです」

「仇か」

 ハミルカルの幼く整った顔から表情が消えた。

「余は、未だ采配を握ることが出来ぬ。その願いは聞き届けてやれぬ」

「そんな……」

 では、一体誰が。

 皆の仇を、取るというのだ。

 全てを失ったディアネイラの、燃え上がる憎悪の根元を。

 断ち切ることが出来るというのだ。

 轟々と燃えさかる炎の音がまだ聞こえるような気がする。妹の声が、兄の最期の言葉が、脳髄の奥にこびりついてディアネイラを責め立てているような気がする。

 私がもっと強ければ。

 私が、あの悪魔も倒せるくらいに強かったならば。

 私も、強くなれるのだろうか。

 全てを失ってしまった私でも。

 そう、全てを失ってしまった。だとしたらもう誰も悲しまない。失うのは私だけだ。私が私を失うだけだ。

 ディアネイラの揺れる紫の瞳を、ハミルカルは静かに見つめている。

「……ハミルカル様」

「何だ」

「……女でも、戦闘科に入ることは出来るでしょうか」

「……自ら仇を取ろうというのか」

「はい」

「戦闘科がいかにして構成されているか、余は詳しくは知らぬが」

 ハミルカルは一度言葉を切り、平伏する兵たちをちらりと見やる。

「可能か?」

「一応、可能ではございますが」

「一兵卒になるまでの訓練は厳しいです。女の子に耐えられるかどうかは」

「……だそうだ」

 ディアネイラはもう一度涙を拭った。

「構いません」

 太陽が眠りにつく前に染め上げた空のような淡い紫の瞳が、ゆらりと覚悟の光を宿す。

 強くなりたい。

 この憎悪の炎が消えてしまう前に。

「私を戦闘科に入れて下さい」

 凍り付いていたディアネイラの内の時が、今再び軋みながら動き出した。






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次話も、どうぞお楽しみください。

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