2-2 蹂躙
肌が焼けるように熱い。
喉が引き裂かれそうな程に痛い。
疲弊した手足の感覚はとうに失われ──あるいは感じる余裕もないのかもしれなかったが、棒のように、無機的に、ただ走り続けていた。
一面は黒々とした森、その向こうは燃えさかる炎だ。
衰えることのない赤黒い炎が、夜露の降りた森をもじりじりと蝕んでいく。森に住む生き物たちは住み慣れた故郷を追われて逃げ惑い、取り囲まれた炎の壁に絶望するしかなかった。倒れる木々の芳しい香りは煙が運ぶ死の臭いにとって変わられ、森全体が大地を揺るがし、呻き続けているようだった。
迫り来る炎も、焼け落ちる森も目に留めず、彼女はただ駆け続けていた。幼く頼りない肩で白髪交じりの女を背負い、彼女に追いすがって子供が二人、足を引きずるようにして駆けている。その二人のうち、背が高いのが少年、小さい方が少女で、少年は腕に赤ん坊を抱いていた。
轟音という名の沈黙。せいせいと荒い呼吸。
まだ、少女と言えるか言えないか程の、幼い子供であった。晴れた日には太陽の光を受けて煌めくであろう金髪は煤と泥にまみれ、むき出しの腕や足にもいくつか痣が出来ている。それは彼女よりも更に幼い子供二人も同じであり、彼女が背に負っている女は足が萎えていて、だらりと無気力に彼女の胸元へと腕を垂らしていた。
それでも。
前を見据える、淡い紫の瞳は、夕刻の空のように激しく煌めいている。
少女はぎりと歯を食い縛り、女を背負い直した。後ろの子供二人がついてくるのを確認し、再び走り始める。少年も小さな少女も、腕の中の赤ん坊も、負われた女も、髪の色はまちまちなれど、少女と同じ紫の瞳をしていた。
と、小さな少女が張り出していた木の根につまずいた。
小さな悲鳴に少女が、少年が振り返る。泣きそうになった幼い子供の傍に、少年と少女が駆け寄る。どちらも手は空いていない。少年が一瞬躊躇い、赤ん坊をそっと下ろしてから幼い少女を助け起こした。
「大丈夫?」
「…………ん」
膝をすりむいたらしく、泥まみれの傷口からじわりと血が滲んでいた。少年は自分よりも背が高い少女を見上げる。少女は今にも泣き出しそうな笑みを浮かべ、再び女を背負い直した。
「大丈夫。キレナは強い子だもんね」
「…………ん」
幼い少女は、自分よりも疲弊した顔の少女を見上げ、しゃくり上げるのをこらえる。少年が再び赤ん坊を抱き上げ、子供三人は互いの顔を見合わせた。
走り出そうとした刹那、少女の背で、背負われていた女がか細い声で呟いた。
「……ディアネイラ。お行き」
「え?」
狼狽した少女に、女は冥府からの死者の声のように続ける。
「母さんはもういいから……父さんの所に行くよ。ありがとうね」
「駄目だよ母さん!」
少女の悲鳴にも似た叫びは、轟音に掻き消された。もう一度女──足萎えの母親を背負い直し、少女──幼いディアネイラは走り始める。少年と幼い少女がそれに続く。
「この森を抜ければ、神界長さまの軍がいるって、姉さんが言ってたじゃない!」
走りながら囁く娘の言葉に、あるいは終わることのない轟音に耳を傾けているのだろうか。母親はぴくりともしない。紅蓮の炎はじりじりと森に迫り、親子五人に迫りつつある。
「そこで会おうって、姉さんと約束したじゃない!」
「せめて、お前達だけでも」
「軍に行けばきっと兄さんだっている! 兄さんが助けてくれる!」
娘の言葉に、母親はゆっくりと目を閉じた。
森の傍らでひっそりと日々の暮らしを営んでいた村に、黒い悪魔が現れたのはいつ頃のことだっただろうか。村中に火が放たれ、轟音が燃える中、足萎えの母を追い、弟二人と妹を連れて駆け出したのは、どれくらい前のことだっただろうか。平安な日々が、先に行けと言って飛び出した姉の後ろ姿が、遙か過去、あるいは瞬きの間に見た白昼夢のように霞み、朧気になっていく。永遠にこのまま、母を背負い、弟ら三人を連れて、炎に閉じこめられた森の中を駆けずり回らなければならないのだろうか。父が戦死した時は悲しかった。けれど今は怖い。すぐ隣りに死に神の息遣いが轟々と聞こえてきて怖い。けれど走らなければ。背負った母と、幼い弟たちを守らなければ。大丈夫、軍に着けばきっと兄がいる。兄が来て、姉を助けて、きっとみんなやっつけてくれる──
と、幼い妹がぱたりと足を止めた。轟音の中ディアネイラははっと振り向き、弟は足を止める。妹は小さな手をぎゅっと握り締め、あどけない瞳一杯に涙をためている。
「あんよ、痛い」
「……キレナ」
「お姉ちゃん、あんよ、いたい」
「キレナ」
「あんよ痛い」
ぽたぽたと涙が滴り落ちる。
轟音が森を焦がし、熱い風が肌に吹き付ける。
「キレナ」
「あんよ痛いの」
「キレナ、我慢しなさい」
「痛い」
ディアネイラと弟は顔を見合わせた。ディアネイラの頼りない肩からは今にも母親がずり落ちそうだ。少年も赤ん坊をしっかりと抱えるには、その腕はまだ短く細い。
「ディオン、先に行きなさい」
「うん」
少年の瞳が燃えさかる炎を映し、恐怖を、決断を煌めかせ、こくりと頷いた。
「真っ直ぐ。道、分かるわね」
「うん」
「じゃあ、後で」
「うん」
少年は腕の中の弟をぎゅっと抱き締め、有らん限りの力で駆け出した。少年の向かう先は森、その先は炎。だがそれは森のどちらを見回しても同じ事だ。
轟音を聞き、母を背負い直し、ディアネイラは妹の側に歩み寄った。
「お姉ちゃんも一緒に行くから。ゆっくり歩こう」
「……ん」
「手、掴んでいいよ」
「ん」
妹は涙を拭い、ディアネイラの手ではなく服の裾を握り締めた。傷口の血はもう止まり、どす黒く変色している。熱を持っているのか、ほんの僅かだが腫れているようにも見える。だが炎に取り囲まれてなお暗い森の中ではそれ以上のことは分からない。妹の歩みは遅々としていて、走るのをやめたディアネイラに容赦なく疲労が襲いかかる。母が鉄の塊になってしまったかのように感じる。このままゆっくり歩いていたら、神界長の軍に合流するまでに死に神の方が先に追いつくのでは。骨しかない手でディアネイラを絡め取り、そのか細い命を連れ去ってしまうのでは。
朦朧とした頭から不安を振り払おうとディアネイラが首を振った。
「ぎゃぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああっ!」
森をつんざいて、絶叫が響き渡った。
妹が怯え、ディアネイラは足がすくんで立ち止まる。悲鳴はすぐに轟音に掻き消され、炎の狂宴にもがいていたはずの森の木々が、ざわりと蠢いた。
ああ、と、母が絶望の溜息を洩らした。
森という森から、眠っていた悪魔が目覚めるように黒い影が飛び出してきて、ディアネイラ達を取り囲む。
人型の者。
異形の者。
あるいは、人型と異形が混合した者。
それら全てが闇から生まれたかのように黒い。夜の闇よりも何よりも黒い。人型の者は、肌はかろうじて人間らしい色をしていたが、目は飢えた狼のようにぎらぎらと光っていた。はっきりとは窺えないが、その顔はどれも下卑た笑みを浮かべている。
「おい、まだ生き残りがいたぜ」
酷くくぐもってはいたが、言葉はかろうじて理解できた。唇を噛んだディアネイラを、ディアネイラと母にすがる妹を睨め回し、にやにやと笑っている。
囲まれている。
逃げられない。
母の腕は、目の前で無気力に揺れている。
妹は為す術なく自分にすがっている。
早鐘のように打ち鳴らす心臓の音は、ひたひたと近付く死に神の足音だろうか。
轟音。
「母さん」
怖い。
「待ってて」
だけど。
「やれるだけやってみる」
死にたくない。
ディアネイラは母親を地面に降ろし、妹を後ろに押しやった。母が震える手で妹を抱き締める。黒い悪魔たちは互いの顔を見合わせ、嘲笑を浮かべた。
「ガキが何か言ってるぜ」
「さっきのチビの家族じゃねえか?」
「そういや似てるな」
「……何?」
ディアネイラは恐怖に戦慄く唇を噛みしめ、懐に潜めた短剣に手を伸ばす。
「後ろのババアとチビは、つまらなそうだな」
「このガキは楽しめそうだ」
「見ろよあの目」
「俺たちをぶち殺したくてたまらないって言ってるぜ」
「誰の……家族ですって?」
予感と恐怖に押しつぶされそうになりながら、それでもディアネイラは必死にこらえる。悪魔たちはげらげらと破裂せんばかりの笑い声を上げた。
「教えてやるよ! そら!」
悪魔たちの中央にいる、人型と異形の中間の背格好の者が、何かをディアネイラ達へと放り投げた! 一つはディアネイラに、もう一つは母と妹に、どさりと倒れかかってくる。
血塗れの、小さな手。
ディアネイラと同じ、淡い紫の瞳。
自分も怖かっただろうに、我慢し、頷いて見せた顔。
それが焦点の合わぬ眼差しでディアネイラを見上げ、ずるりと、落ちた。
妹が悲鳴を上げる。彼女の腕に転がり込んだのは、頭を砕かれた赤ん坊──まだ這うことすらできなかった弟。
「また会えて良かったじゃねえか!」
爆発的な笑いが巻き起こると同時に、ディアネイラの全身が総毛立った。
「ああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「やっちまえ!」
亡骸を投げた者の合図で、悪魔たちは一斉にディアネイラに、幼い妹と母に襲いかかった。突進しながらディアネイラは短剣を抜き放ち、最初に伸ばされた手に斬りつける。どす黒い血飛沫が上がったが、相手はたじろぎもせずにディアネイラの腕を掴み、ひねり上げてしまった。
「離せ!」
「はっは、暴れろ! もがけ!」
「お姉ちゃん助けて!」
「ディアネイラ、逃げなさい!」
泣き叫ぶ妹と、哀願する母の声。
「キレナ! 母さん!」
ディアネイラの声は轟音に掻き消される。髪を掴まれ、引きずり倒され、頭を踏みつけられる。右肩に脳天まで突き抜けるような激痛が走る。痛みに身体を縮めようとするのを、四肢をがっちりと押さえられて阻まれる。錆びた鉄の臭いが鼻をつき、右肩のあたりがぬるりと滑るのを感じる。
「お姉ちゃん!」
妹の叫びは、絶叫に取って代わった。
ディアネイラを襲う激痛は消えない。氷水の中に落とされたように冷たいが、どんな火よりも熱い。ずきずきと疼き、全身が引き裂かれてしまいそうだ。
誰かが顔をぐいと持ち上げた。朦朧とした瞳で見上げたディアネイラの顔を覗き込む。
霞む視界にもはっきりと分かるほど、それは異形であった。顔は普通の人間、あるいは神界人と何ら代わりはない。だがその肩から腕にかけてはごわついた黒い毛で覆われ、彼女の髪を掴む手はおそらくは人の手ではない。猫、あるいは豹か何かだろうか。その後ろ、背から生えていると思しき羽根も、似たような黒い毛で覆われている。
それは、にや、と笑ったようだった。
「俺が憎いか」
「……が……」
母さんは。
そう言いかけたが、言おうとした瞬間に肩の傷口を誰かに踏みつけられた。痛みにもがく事も許されず、もう一度髪をぐいと引かれる。
「俺が憎いか。答えろ」
せいせいと、呼気をすることしか出来ない。煮えくりかえるような憤怒と激痛に、言葉も、理性すらも忘れ、殺してやろうと相手を睨み上げる。相手は満足げに笑うと、ディアネイラの顔に唾を吐きかけた。
「ははっはははははは! 俺が憎いだろう! お前等神界人の善人面なんざ、しょせんそんなもんだ!」
浴びせかけるような哄笑。
誰かがディアネイラの顔を蹴り飛ばし、向きを変えた。丁度それは母と妹がいる方向だった。ディアネイラは千に一つ、万に一つを切に祈り、恐る恐る辺りを見やる。
始めに目に入ったのは、突き立てられた剣だった。
足萎えの母が、頭を砕かれた赤ん坊と、泣き叫んでいたであろう妹をがっしりと抱き締めている。その母の背に深々と突き立てられた剣は妹の胸も貫通し、どちらからも未だ鮮血が流れ出ている。
母の顔は窺えない。
妹は、虚ろな瞳で、もはや助けも何も求めずにディアネイラを見つめている。
轟音の中でも、血の滴る音がはっきりと聞こえるような気がする。
「憎いだろう! 俺が! ひゃはははははははは!」
悪魔たちは狂ったように笑っている。まるで意志を持っているかのように哄笑はディアネイラに襲いかかり、彼女の頭の中に侵入し、がんがんと鳴り響く。こいつらを皆殺しにしてしまえ、と、甘美な囁きが衝動となって突き上げてくる。
「その憎しみこそが、俺たちの喜びだ!」
けれど。
自分の腕は、押さえつけられた拘束をはねのけることも出来ず。
「テメエ等、そのガキも始末しろよ」
「へへ、久し振りになぶり甲斐があるガキだぜ」
「お、泣いてるぜこいつ」
「ははは、そら!」
右肩から蹴り上げられ、痛みに呻く間に地面に叩き付けられた。首を掴まれて宙づりにされそうになるのを、噛み付いて何とか逃れる。悪魔たちは怯みもせず、酷薄な笑みを浮かべてディアネイラへと手を伸ばす。必死に暴れ、逃げ出そうとするが、すぐに押さえつけられてしまう。悪魔たちはもがく少女を決してひと思いには殺さず、急所を外して傷を付け、あるいは引きずり回した。
ディアネイラの紫の瞳だけが、涙と憎悪にぎらぎらと光っている。
弱々しく抵抗を続け、涙を拭い、痛みに呻く。
「……よくも」
「そらそらどうした!」
「元気がねえぜ!」
「よくも母さんを! キレナを、ディオンを、アケムを!」
だが次の瞬間に腹を殴られ、ディアネイラはうずくまった。小さな背中一杯に哄笑を浴び、ぽろぽろと涙がこぼれる。
悔しい。
私が、もっと強かったなら。
こんな奴等。
母さんも、キレナもディオンもアケムも殺した、こんな奴等!
ディアネイラの小さな身体を絶望が満たしたかと思われた、その瞬間!
音のない衝撃が空間を貫き、森一帯が白熱に燃え上がった!
あの羽根の生えた悪魔が、咄嗟に空高く舞い上がる。
はっと顔を上げるディアネイラの目の前で、悪魔たちの身体脆く崩れ去っていく。光が消えると、森の木々という木々は炭化してしまい、ぶすぶすと燻っていた。
残された悪魔は、あの、豹の腕に黒い羽根の男のみ。
中空に留まったまま男は周囲を見回し、ディアネイラをちらと見つめて舌打ちする。両の翼を広げて何度か羽ばたいたかと思うと、煙でどす黒い空へと飛び去っていった。
ディアネイラは呆然と、焦土と化した森を見つめている。
動くことが出来ない。全身に走る激痛以上に、あの白刃の閃光に思考を焼き尽くされてしまったようで、何も考えられない。
そうしていると、遠くから、ざっざっざ、と騎兵が行進する音が聞こえてきた。半ば放心したまま、ディアネイラはああ、これで終わりだと考える。
ざっざっざ。
ざっざっざっざっざ。
今度こそ、死に神が近付いてくる足音に違いない。
やがて騎兵隊はディアネイラの所までやって来た。無惨に転がっている亡骸と放心したディアネイラを見るやいなや、慌てふためいて司令官へと伝令を下したようだった。すぐに、慌ただしくも堂々たる一騎が先頭に進み出て来る。
「生存者がいるとは誠か」
「はっ。子供です」
「子供」
馬上でそう言ったのは、紅蓮の髪の若い男だった。黒馬を巧みに操り、ディアネイラの前までやって来る。
知らぬ顔だ。
呆然と見上げるディアネイラを見て顔をしかめ、男はひらりと馬から飛び下りた。何の躊躇いも見せずに膝をつき、銀の瞳を悲しげに歪めた。
「済まなかった」
良く通る声だ。
空白になった心にも、隅々まで染み渡るような。
「遺骸は、家族か?」
弟と妹と、赤ん坊と母は、変わらずに無惨な姿を晒している。ディアネイラが頷くと、紫の瞳から涙がこぼれ落ちる。
完膚無き美貌が、銀の瞳が、自分がその辛酸を舐めたかのようにしかめられた。
「ここは危ない、共に来い」
答える間もなく、男は自分のコートを脱いでディアネイラをくるみ、傷を気遣いながら抱き上げた。そのまま再び馬に乗り、副官とおぼしき者に一言、ふたこと告げる。直ちに伝令が走り、騎馬隊は再び行進を始めた。男は隊列の元の位置に戻るために、その場で手綱を握って待っている。
ディアネイラは朦朧とした意識で男を見上げる。それに気付き、男はディアネイラをじっと見つめた。
「傷が痛むか?」
淡い紫の瞳に映るのは、悲しげな銀の瞳。
「後で治療する。案ずるな」
炎よりも、血潮よりも、赤く高貴な紅蓮の髪。
「……あの……」
「何だ」
「あな……たは……」
男の顔は、悲哀から苦渋へと変わった。
「神界長クリストフ」
ディアネイラは、茫然とその言葉を聞いている。
「しかと覚えておけ。そなたの家族を、救えなかった男の名だ」
苦い言葉を子守歌にし、ディアネイラの意識は深い闇へと引きずり込まれていった。
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お読みいただきありがとうございます。
もし物語を気に入っていただけましたら、
評価やフォローで支えていただけると励みになります。
次話も、どうぞお楽しみください。
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