第二章 炎の記憶

2-1 案ずる理由

 長い長い宴もやがて終幕を迎え、ディアネイラを始め、第三隊はめいめいの兵舎へと戻り始めた。勝ち戦で興奮しているとは言え、長い行軍で鞭打たれた身体は惰眠を貪りたいと訴える。大口を開けて欠伸をしながら戻る者、酔いが回って眠ってしまった友人を引きずっている者、顔を洗おうと水場へ向かう者、いずれも疲労が色濃く影を落とし始めていた。ぐっすり眠った明日の朝には、健康的で溌剌とした顔に戻っていることだろう。

 しかし、高く結った金髪を靡かせて一人回廊を歩み行く女将軍は、その美貌には一点の翳りも見えぬ。今し方起き出して来たかのように溌剌とした足取りで、自らの兵舎へと向かっていた。総白石作りの夜の神界殿は青い闇に包まれ、空気もひんやりとしている。吹き抜ける風は、僅かに上気した頬には心地良かった。

 ふと足を止める。

 振り向きざまに、ふわりと優雅に会釈をする。

「ハミルカル様」

「……ディアネイラ」

 微塵もたじろがず、紅蓮の髪の少年が女の名を呼んだ。その幼い顔には、年齢に不釣り合いなまでの苦笑いが浮かんでいる。

「気付かれてしまったな。面を上げよ」

「若様に気付かぬはずがありませんわ」

 言われた通りに顔を上げ、ディアネイラはにこりと微笑んだ。金の滝のように流れ落ちていた金髪がさらりと揺れる。

「何か、入り用で?」

「いや……」

 ハミルカルは銀の瞳を細めて笑い、女神の美貌からつと視線を逸らした。

「もう一度、労いの言葉をかけておこうと思ってな」

「勿体なきお言葉、このディアネイラ如きに」

「第三隊はいずれ余が采配を握ることになる。それを今こうして鍛え、功績を上げているそなたには何度礼を言うても足りぬ」

 ディアネイラは紫の瞳を細め、何も言わずに微笑んだ。

「よくぞ勝利し、無事に帰還した」

「……ハミルカル様、私は戦闘科に入って以来、この命を神界に捧げた身。例え死しても神界を守り抜くのが、私の領分かと心得ておりますわ」

「では、今そなたが死んだとして誰が第三隊を引き継ぐ? 余か? あの伊達男にでも継がせるか」

 ハミルカルの口調はまじめくさっていたが、その顔は明らかに笑っていた。ディアネイラも微笑んで言葉を続ける。

「どちらも頼りのうございます」

「それ見たことか。そなたは今は生きることが使命と心得よ」

「は」

 ディアネイラがもう一度頭を垂れる。金髪が夜風の代わりのようにさらさらと鳴る。

 ハミルカルは僅かに躊躇い、眉をひそめた。

「……ディアネイラ」

「はい」

「そなたの持つ剣──凍てつく心臓フロズンハートと言う名の、邪剣であったな」

 頭を垂れたまま、ディアネイラは一瞬ぎくりと硬直する。

 ハミルカルの銀の瞳がその様子を捉えてすっと細められたが、何食わぬ顔で続ける。

「闘争心を増幅させる剣だったか」

「相違ございません」

「面を上げよ」

「は」

 ディアネイラは顔を上げる。

 微笑みも畏怖も嫌悪も何一つ浮かべず、真剣な紫の瞳が、ハミルカルを見上げる。

 ハミルカルは穴が空くほどにその美貌を見つめ、小さく溜息をついた。

「呑まれてはおらぬか。さすがだ」

 幼い顔が苦笑いに歪められた。

「くれぐれも気をつけよ。今は制しているとは言えどもな」

「……は」

「ここしばらくはゆるりと休め」

「は」

 ディアネイラは頷く。

 静寂にも似た沈黙が、両者の間に落ちる。

 ハミルカルはもう一度溜息をついた。

「ではな。呼び止めて済まなかった」

「お休みなさいませ」

 ディアネイラが頭を垂れて微動だにしない中、ハミルカルは足早に去っていった。姿が見えなくなっても猶、ディアネイラはその気配を感じることが出来なくなるまでそのまま控える。やがて音もなく立ち上がり、ドレスの裾の埃を払い、肩に流れ落ちた金髪を掻き上げて溜息をもらす。そのまま再びひんやりとした回廊を歩き出し、自室へと戻った。

 室内は簡素な家具しか置いておらず、壁の鎧かけにはつい先程脱いだばかりの肩当てと紫のドレスがかかっている。今纏っている紺のドレスとは異なり、ディアネイラの身に負担をかけぬまま防御することが出来るよう、一寸の無駄もなく、また所々は特別な加工が施されているものだ。

 一つきりの寝台の上には、無造作に、剣が鞘ごと投げ出されていた。

 紫の瞳が、無感動に凍てつく心臓フロズンハートを見つめる。

 溜息。

 寝台に腰掛け、邪剣を手に取る。

 すらりと剣を鞘から引き抜く。

 夜の青い闇の中で、刀身が緋色に透き通り、輝く。皓々たる炎のようなそれは、触れると金属の冷たさときな臭さを感じる。

 緋色の刀身に映された美貌の顔も、やはり瞳は紫だ。夕刻の空のように淡く美しい瞳。刀身に映るディアネイラは、燃えさかる激情を身に纏った女神のようだ。

 剣を手にし、瞳を閉じると、心臓の奥からとくとくと感情が流れ込んでくる。

 全身を駆けめぐる、破壊衝動と憎悪。

 焦燥にも似た感覚に指先がちりちりと疼き、ディアネイラは剣を握っていない方の手をぐっと握り締めた。わあああ、わあああ、と戦場の喧騒が耳の奥から這い出てきて、剣と剣が打ち鳴らされる音、断末魔、雄叫び、血飛沫の上がる音、馬が駆ける音、荒い息づかい──まざまざと、今まさに戦場の真っ直中であるかのように思い出される。ディアネイラの中を駆け巡り、彼女をその激動の中に引きずり込んでしまおうと、わあああ、わあああ、と何度も何度も繰り返される。

 やがてもう一度溜息をつき、ディアネイラは凍てつく心臓フロズンハートから手を離した。

 緋く輝いていた刀身は、もとの鈍く光る灰色に戻る。

 溜息をついた時のように、じわりと広がる空虚。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。

 上官としてだけではなく、心から慕ってくれる四副将と、遙かに年上の紅蓮の髪の少年は、邪剣を握るディアネイラを案じているのだ。今は理性が保てても、いつかは増幅した闘争心──それと共に、どうしても増幅されてしまう憎悪に呑まれてしまうのではないかと、危惧しているのだ。

「大丈夫」

 ディアネイラはもう一度呟く。

 邪剣凍てつく心臓フロズンハートは、完全に、制している。

 こうして手にとっても、自らの意志で手を外すことも出来るし、衝動に駆られて暴れることもない。

 ハミルカルが案じてくれる理由には、ディアネイラも薄々気が付いていた。けれど将軍たる気質がそれに甘えることを許さず、またハミルカルもそれを承知の上のことだろう。四副将も、中には似たような理由の者もいるのかもしれない。

 あの人も。

 私の身を、案じてくれるのだろうか。

 嘆息し、凍てつく心臓フロズンハートへと視線を移す。この剣を握る度に、炎にも似た激情が身体中を駆けめぐる度に、必ず呼び覚まされる記憶があった。幼い頃の、風化することのない記憶。思い出したくないが、決して忘れたくない記憶。

 ディアネイラは夕焼け色の瞳を閉じる。

 そう。

 剣を振るう度に、思い出している。

 燃えさかる炎が、激情へと変わる瞬間を。身体を貫く激痛を。

 忘れ得る事の出来ぬ、あの炎の記憶を。






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