【SS】彼は彼女を好きすぎる

桜海

彼は彼女を好きすぎる

 わたしの家の隣には、やたら顔のいい男が住んでいる。

 常磐ときわ朔夜さくや。現在22歳。

 彼は、子役上がりのアイドルだ。


 そして――、わたしのことが、大好きらしい。


 ◆ ◆ ◆


「あきちゃんあきちゃん。今日もかわいいね。好きだよ。大好き。ね、ちゅーしていい?」


「い、い、いいわけないでしょ!? ここどこだと思ってるの! 楽屋だよ!?」


「ん〜……でも、ひとり部屋だから、いまはあきちゃんとしか一緒にいないよ?」


 今日休みだったよね、おいで? とメッセージで呼び出され、なぜか顔パスで楽屋まで来てしまったわたしだ。

 扉をノックした途端に、開いた隙間から伸びてきた腕に手首をひっぱられ、気がついたらソファの上。

 天井を見上げながら横たわって、けれど視界に天井は映らず、いっぱいに広がるのはやたら綺麗な男の顔だ。

 柔らかそうな茶髪が、わたしの顔に落ちてくるくらい、近い。透き通るような茶色の瞳が、飽きもせずに見つめてくるからいたたまれなくなる。

 肌なんて、どんな手入れをしているのか聞きたくなるくらい綺麗だし、あんまり近づかないでほしいくらい。

 ふっくらとした唇が、嬉しそうに弧を描いて迫ってくるから、もうどうしていいのかわからない。


「ほら、あきちゃん……スキあり、だよ」


 ゆっくりと近づいてきたその唇が、スッと逸れて、わたしの頬へと押し当てられる。

 一度離れて、呆然としている合間に、もう一度。ちゅ、とリップ音を立てて、今度こそ離れていく。

 ふふっと笑った吐息が、耳元をくすぐって、その熱さに頬が赤くなるのを感じた。


「ふ、ふふふっ……あー、もう! かーわいいなぁ!」


「さ、さ、さく兄の、ば、ばか……っ」


 そこだけ一気に熱くなった頬を片手で押さえて、わたしはもう片手で目の前の男の肩を押す。

 けれど、どんなにギュウギュウ押しやろうとしても、この男の体は動かない。

 細身に見えるのに、トレーニングを欠かさないからか、ビクともしなくて困ってしまう。

 どんなに顔が綺麗でも、緩んだ調子で甘えてきても、こういうときに彼を男だと意識してしまうから。


「も、さく兄……ダメだって……。マネージャーさん来ちゃうよ」


「んー……あきちゃんがいるときは来ないよ〜。だから、大丈夫。もっとぎゅーってしよ? ふふっ……お顔真っ赤っか。かわいい。好きだよ、あきちゃん」


 何度も、何度も、「かわいい」と「好き」が降ってくる。

 誰も来ないからいいなんてことないのに。誰かに見られたらまずいのに。

 嬉しそうな表情かおで、甘い声で、惜しみない好意をぶつけてくるから、抵抗する気だって、どんどん無くなっていってしまうのだ。


「もぉ……ばか……」


「かわいい。あきちゃん、好き」


 ちゅ、とまた頬にキスを落とされて、わたしはとうとう顔を両手で覆って目を閉じた。


 どうして、彼がこんなにわたしを好きなのかわからない。

 彼と初めて会ったのは、わたしが5歳のときだ。常磐朔夜は7歳だった。

 引っ越しの挨拶に連れて行かれたわたしは、そこで、すでにお茶の間の人気子役として有名になっていた彼に出会ったのだ。

 当時のわたしはまだ小さかったから、彼を見て「なんかすごくキラキラしたおにーちゃんだなぁ」なんて、考えていただけだったけれど。

 でも、会った瞬間……いや、目が合った瞬間、


「か、かわいい……! お人形みたい! ねぇ、ぼくきみのこと好きになっちゃった! 大きくなったら結婚しよう! いいよね? いいって言って?」


 と言って、母の後ろに隠れていたわたしの手を握ってきた彼には、いまでも心底物申したい気分。

 初対面の挨拶がプロポーズってどういうことなんだろう。

 これに目を剥いたのは、お互いの両親だった。常盤家のご両親は、まさか息子が一目惚れするとは思わなかったらしい。

 わたしの――つつみ家の母は、常磐家のお母様と顔を見合わせて、「あらあら〜」と言い合って喜色満面だった。

 常磐のお父様は、娘ができるぞー! と大喜びしていたし。

 唯一、わたしの父だけが、「む、む、娘はまだ嫁にやらんが!?」とパニックに陥っていた。

 子ども相手に大人気ない父である。

 でも、わたしも、この押しの強いお兄ちゃんにビックリしていた。目を見開いたまま、手を握られたまま、動けなくなっていた。

 そんなわたしの状態などお構いなしに、やたら綺麗なお兄ちゃんはグイグイ来る。それはもうグイグイ来てた。


「ね、ぼくの名前は朔夜さくやだよ。きみのお名前を教えてくれる?」


 名前……そう、名前。わたしは本当は、自分の名前があんまり好きではなかった。

 モジモジして、小さな声で、


「つつみ、あきら、です」


 そう伝えたら、目の前のお兄ちゃんの顔が、パアアッと喜色に染まったのを覚えている。それはもう、本当に、嬉しそうに。


「あきちゃん! かわいい! かわいいお名前だね!」


 かわいい、かわいい。何度もそう言って手を握ってさらには抱きしめられて。

 名前も、お顔も、あきちゃんがまるごと、かわいいよ。

 キラキラした笑顔でそんなことを言われて、わたしはうっかり泣いてしまったのだった。

 つつみ秋楽あきら

 以前住んでいたところでからかわれていた自分の男の子みたいな名前が、その時とっても大事なもののように、思えたから。

 まあ、その時、「泣き顔もかわいいね」と、流れる涙を唇で吸い取られたのには驚いたのだけど。

 おかげで涙も引っ込んで、また、お兄ちゃんは嬉しそうに笑ったのだけど。


 そんな出会いを果たしてから、朔夜お兄ちゃんは、毎日のようにわたしに「好きだよ」と言ってくる。

 抱きしめられて、束縛されて、頬やこめかみにキスをされて。

 高校を卒業して大学生となった今、さすがにこれはおかしい状況だとわかってはいるのだけれど……。


(だって、わたしたち、別に付き合ってるわけじゃないし……)


 実際、さく兄の「好きだよ」がどこまで本気なのかわからない。


(わたしなんて、あんなに言われすぎたせいで、本気になっちゃったのに……)


 だって、さく兄はどんなに待っていても、唇にだけはキスをしてくれない。

 口先では「ダメだよ」なんて言っていても、わたしが本気で拒んでるわけじゃないって、さく兄ならわかっているはずなのに。


「さて、あきちゃんを摂取できたし、一緒に帰ろう? あ、せっかく来てくれたのにただ帰るのはもったいないから、どこかでごはんとか食べていこう?」


 乗り上げていたソファから降りて、さく兄が手を差し伸べてくる。その手を取って立ち上がりながら、わたしは首を傾げた。

 いま来たばかりなのに、もう帰るの?


「というか、え……お仕事は?」


「んー? 今日はもう終わりだよー。結構早く終わっちゃってね。撮影。本当は、あきちゃんに見てもらいたかったんだけど」


 拗ねたような顔で、彼が振り返る。ちょん、と鼻先を指で突かれて、わたしは慌てて仰け反った。

 勢いが付きすぎて、案の定そのまま後ろに倒れそうになる。


「おっと……大丈夫? あきちゃん、気をつけて」


 すかさず、さく兄の腕が腰に回されて、抱きしめられた。意外と逞しいその腕にも、胸の温かさにも、ドキドキとしてしまう。


「ごめ……! あ、ありがとう……さく兄」


 んーん。と首を振りながら、きゅっといっそう強く抱きしめられる。戸惑って名前を呼ぶと、更に腕の力は強まった。


「ねぇ、あきちゃん……」


「? な、なぁに……?」


 肩を抱いていたはずの腕が、ゆっくりと持ち上がって、首筋から後頭部に触れる。

 緩く上下する胸に頬を押し付けられて驚いた。耳に、トクトクと少し早いさく兄の心臓の音が聞こえる。

 はぁ、という吐息が髪を揺らし、隙間を通って地肌を熱く滑り落ちていく。

 ゾクリ、と、首の後ろが戦慄いた。なにか、熱のようなものが、背骨を駆け足で上がってくる。


「ぁ……ン」


 小さく漏れた声に、彼の体がビクリと反応した。


「さく兄……?」


 あきちゃん、といつもより熱のこもった声で名前を呼ばれ、頭の中がクラクラと茹だってくる。


「……ごめん。マネージャー、下の駐車場で待ってるみたいだから、早く行こ」


 頷いて、手を引かれるままに駐車場へと向かった。

 途中ですれ違う人たちに微笑ましそうに見られていたのが解せない。生温い視線を向けられていたの、本当に解せない。


 ◆ ◆ ◆


「朔夜、本当に……本当に、気をつけてくださいよ。昨今のパパラッチは一般人なんですから。SNSをバカにしちゃだめなんですからね」


 眼鏡を押し上げて、さく兄のマネージャーさんが何度もした注意を残して去っていく。

 わざわざ、食事をした店から自宅前まで送ってくれるなんて、律儀だなぁ。なんて思うけれど、それが彼の仕事だった。

 むしろ、お手を煩わせてごめんなさいと、毎度頭を下げる思いだ。


「じゃあ、あきちゃん。お家の前まで送るよ。すぐそこだけど、何があるかわからないからね」


 そう言って、手をつないだまま玄関ポーチから隣の家に向かって歩き出そうとするさく兄の手を、わたしはぎゅっと握りしめた。

 あきちゃん? と訝しげに振り向く男に、懇願するような目を向ける。

 二人で食事をして、変装したわたしがさく兄と二人街中を歩き回って、周りの人たちにキャアキャア言われながら車に乗って帰ってきた。

 もう、充分、二人きりの時間を過ごしたと、さく兄は思っているのだろう。

 でも、いやだ。わたしはまだ、離れたくない。わたしだって、さく兄のこと、大好きなんだから。

 あんなに、わたしのことを「大好き」だの「かわいい」だの「結婚しよう」だの言うくせに、さく兄はわたしに手を出すことは一切ない。

 キスだって頬止まりだし、それ以上のことなんて、本当に、なにも。


「さく兄……あの、ね? 久しぶりにさく兄の部屋に行きたい、かも」


 強請りに強請って、渋るさく兄を無視して、わたしは常磐のお家に上がりこんだ。

 あら、いらっしゃいあきちゃん、とさく兄のお母さんが顔を出して、わたしを迎え入れてくれる。

 さく兄に気に入られてから、わたしはもう何度もこの常磐のお家にお邪魔しているのだ。常磐のお母様はもう、わたしの第二の母と言っても過言ではない。

 高校に上がった頃から、さく兄に出禁を言い渡されたけれど、それでも勝手知ったる家とばかりに、わたしは二階にあるさく兄の部屋へと入り込んだ。


「あ、あきちゃん……部屋には来ちゃだめだって、約束したでしょ?」


「わたしは、納得してない」


 ぐるりと、さく兄の部屋を見渡して、わたしは彼の言葉をぶった切った。

 相変わらず、物の少ない部屋だ。お芝居のための台本や、アイドルとしてのアレコレも、さく兄はほとんど家に置いていない。

 ただ、単純に整理整頓が上手なだけかもしれないけれど。

 昔から、片付けは率先してしていたような人だったから。

 さく兄は、外に出るときも変装したりすることがない。むしろ堂々と顔を曝け出して、買い物なんかを楽しんでいる。

 逆に、一緒にいるときはわたしのほうに変装させるくらいだ。

 それは、アイドルになる前――人気子役のときから、「大好きな子がいるから、将来その子と結婚する」と公言していたせいで、業界だけでなく一般の人にも周知されていたからなのかもしれない。

 訳あって役者を一時的にやめて、その後アイドルとして復帰するときも、さく兄は「好きな子がいるけど、それでも構わない子が俺のファンになって♡」とどこでもかしこでも吹聴して回っていた。

 だから、もう、なんかそんなもんなんだな、と常磐朔夜という人物は認識されてしまっている。

 顔こそ出ていないけれど、わたしなんてファンの子たちに「あんなイケメンに心から惚れられてる女神のような子」とか噂されてるらしくて、もう恥ずかしいったらない。


(だというのに、さく兄は……なんで!)


 なんで、未だにキスすらしてくれないの!

 なにやら慌てるさく兄を無視して、手を引いたまま彼の部屋を横切る。

 奥に鎮座しているベッドの前にさく兄を立たせて、無防備なその体を力いっぱい押した。


「え、……わ!? あ、あきちゃん!?」


 わずかに揺らいだ体が、持ち直そうとして、けれどベッドの縁に足を引っ掛けて後ろに倒れる。

 その様子にイラッとして、わたしも一緒にその上に倒れ込んでやった。

 こんなに、わたしに対して無防備なのに!


「あ……っ、ぶね……」


 目測を少し見誤って、ヘッドボードに額が激突しそうになったけれど、力強い腕が頭を抱き込んだ。ぎゅうっと胸の上に頭を押し当てられ、心臓がきゅうっと痛くなる。


「あきら……危ないでしょ。何してるの、急に」


「さく兄……」


 なんで、こういうときに普通に名前を呼ぶの。

 普段はあきちゃんあきちゃんて、馬鹿の一つ覚えみたいに愛称を連呼しているのに。

 ツン、と鼻の奥が痛くなった。目の前が静かにぼやけてきて、どうしようかと思う。

 スンと鼻を啜った音が、体の下のさく兄に届いたらしい。焦った声が、わたしの名前を呼ぶ。

 どうしたの? と弱ったような声音が落ちてきて、ゆっくりと頭を撫でられる。

 その心地よさに身を委ねながら、わたしはさく兄の顔に狙いを定めて、唇を突き出した。

 途端に、ちょんと鼻がなにかにぶつかってしまう。知らず閉じてしまっていて目を恐る恐る開けば、驚いたような顔をした男と目が合った。

 鼻は、さく兄のほっぺたに激突していた。


「あ、あきちゃん……?」


「あ、あうう……ち、ちが! あ、あの。あのあのあのこれは、その、ええっとぉ!」


 は、恥ずかしい!

 首を引っ込めて、両手で顔を覆って、わたしはさく兄の腕の中で縮こまった。

 さっきに続き、まさかこんなところで目測を誤るなんて思わないじゃない!

 身悶えるわたしを抱きしめたまま、さく兄が倒れた体を起こした。顔を覆ったまま俯くわたしの、その手首をそっと掴まれる。

 何をしようとしているかわかって抵抗するわたしなど意に介さず、ゆっくりと着実に手を引かれて下ろされた。


「あきちゃん……ね、あーきちゃん。こっち、向いて?」


 甘えるように囁くその声に、わたしが絶対に抗えないことを、この男はきっと……いや、確実にわかっている。


(本当に……ズルい)


 俯いたままの顔を覗き込まれて、ふふふっと笑われた。また潤みだした目元に、形の良い唇が押し当てられて、滴る前の水分を吸い取られる。


「かーわいいなぁ……かお真っ赤」


 もう、本当。サイアク。そんな声で、そんな顔で、そんなこと言わないでほしい。

 何もしてくれないクセに、そんな、わたしのことが大好きみたいな、そんな顔で。

 何もかも溶かしてしまうくらいに、甘い声で。

 目元に触れていた唇が、滑って落ちて頬に触れる。そのまま耳を食むようにされて、ビクリと肩が揺れた。


「ね、あきちゃん。なんで、こんなことしたの?」


 柔らかく、低く甘い声が、耳元でそう囁く。

 本当、人を堕落させそうな、ダメな声だと思う。

 昔と変わらない透き通るような茶色の瞳が、真っ赤になっているだろうわたしの顔を、つぶさに眺めている。その瞳の奥に、燻るような、焦がれるような熱があることを、わたしはまだ、知らない。


「だって……」


「んー? なぁに、あきちゃん」


 すりっと擦り寄られて、彼の柔らかな茶髪がわたしの頬を優しくくすぐった。


「さく兄……わたし、魅力ない?」


 問われた言葉に返そうとして、なんだか恥ずかしくなって問い返してしまう。けれど、その問いこそがとても恥ずかしいと気づいて、また顔から火が出そうになった。

 顔を、隠したいのに。目の前の男が手を離してくれないから、なにもかも筒抜けだ。


「…………秋楽?」


「さく兄……なんで、何もしてくれないの? わ、わたしのこと、あんなに『好きだよ』とかなんだとか言うくせに、全っっ然、手なんか出してこないし……本当はわたしのことなんて好きじゃな……っ!?」


 ぽろっと涙がひとつ零れた瞬間、言葉を攫うように塞がれた。物理的に。


「ン、ぅ……んっ」


 ゆっくりと、確かめるように、さく兄の唇がわたしの唇を撫でて、食んで、熱を移す。

 ペロリと表面を舐められて、ビックリして目を見開いた。ちう……と小さく濡れた音を立てて唇が離れ、惚けたままの私の顎に吸い付いてくる。

 流れた雫を辿るように、頬を上へと上がってきて、最後に目尻に舌を這わされる。


「……ビックリすると涙が止まるのは、昔と変わらないね、あきちゃん」


 かわいいね、と言いながら、動きを止めたままのわたしの唇に、さく兄がまたひとつキスをする。


「さく、兄……?」


「あきちゃん、俺ね。最初からずっと、本気だよ。あきちゃんがかわいくてかわいくて大好き」


 いつものように優しく笑ったさく兄が、コツンと額をくっつけてくる。長い睫毛に縁取られた瞳が、熱を持ったように揺れて私を覗き込んでくる。「だから、そんなこと言わないで」と切なく請われたら何も言えなくなってしまう。


「ねぇ、あきちゃん……俺のこと、好き?」


「……ぇ?」


「俺ね……ずぅっと待ってたんだ。あきちゃんが俺を好きになってくれること」


 片手が離された。荒れのない、綺麗に整った爪の先が、擽るように唇に触れる。

 というか、何を言っているの、この人は。


「あきちゃんの心が俺に向いて、意識して、育って、俺を求めてくれることを、ずっと待ってた」


(そんな……そんなのって……)


「あきちゃんが俺を好きになってくれるまで、絶対に手を出さないって決めてた。あきちゃんは、どんどん綺麗になって、かわいくなってくから……我慢できなくなりそうで、だから、部屋ここに来ることを禁止したんだけど」


 ベッドの上で向き合って座って。さく兄の立てた膝の間に囚われて。離さないと言うように、片手の指を絡めて繋がれた。唇を撫でていた指は、いつの間にか首裏に回されて、逃げ場を確実に奪ってくる。


「ねぇ、好きだよ、秋楽」


 唇が触れる直前で吐息のように囁かれて、ふるりと肌が粟立った。

 きみは? 俺のこと好き? そう問われて、コクリと頷いたけど、それではこの男は満足しないらしい。


「俺はね、欲張りだから、言葉が欲しいんだ。……ね、だからほら、言って……あきちゃん」


 そうしたら、きみが望むものを、いくらでもあげるから。

 耳の奥に届けるように深く深く囁かれたら、もう何も考えられない。ただ、この人だけが欲しいと、そう思ってしまう。

 恥ずかしくて、言えなかったこと。釣り合わないと思って、悩んだこと。そんなことが、もうどうでも良いことのように思えてしまうから。

 震える唇を開いたら、燃えるような熱い瞳に囚われた。


「……好き」


「ん……かわいい」


 その言葉を皮切りに、先ほどとはあまりにも違う激しいキスが、わたしのすべてを奪っていった。


 ◆ ◆ ◆


 結局、さく兄は最後まですることはなかった。

 そういえばなにか、

 

「こんなことであきちゃんとの初めてを迎えたくない。もっとこう、雰囲気のあるホテルとかで……そう、いろいろ準備してから……」


 とかブツブツ呟いていて少し怖かったけれど。

 それよりも、あまりにも彼のキスが長すぎて、わたしはほとんど酸欠状態だったと言っていい。

 なにせ、告白しあってから「さく兄」と呼ばれるたびに、彼は深ぁい深ぁい……それはもう深ぁい、キスを繰り出してきたから。

 最終的に、わたしはさく兄のことを「朔夜」と呼ぶことになりました。腰が砕けるほどのキス……怖い。初心者には手加減してほしい。そう言ったら、俺も初心者だよ、とにっこり笑われたけど。


「ふふっ、トロトロのあきちゃんもかぁわいい。ね、早く結婚しようね」


「…………ま、まずは、恋人同士からで、お願い、シマス……」


 そんな一足飛びで夫婦とか、勘弁してほしい。わたしだって、人並みに恋人というものに憧れはあるもので。例えば、デートとか、デートとか。


「んー……いいけど。でも、それ今までと変わらないね?」


 憧れの恋人同士というのを、懇切丁寧に説明してやったというのに、さく兄のこの発言。

 頭にきてポカスカ叩いてみたけど、なんにも効いていないみたいですごく悔しい。


「でも! こう、心持ちとかが、違うじゃん! それに……っ」


「ん? それに?」


 抱きしめられて、髪を撫でられて、ちゅ、と頬に唇を落とされて、尋ねられる。

 確かに、それは、いつもと変わらないスキンシップだったけれど。

 でも、それが恋人同士であると意識するだけで、いろいろと違うのだ。そう、いろいろと。


「……い、イチャイチャ……したり、とか」


 尻すぼみになったわたしの言葉に、さく兄が大きく瞳を見開いた。

 そして、満面の笑みでわたしに抱きついてくる。すりすりと首筋に額を押し当てられて、たしかに変わった少しの距離に、やっぱり顔が赤くなる。


「あきちゃん! 大好き! そうだね。たくさんイチャイチャしようね!」


「さ、さく……朔夜!」


「好きだよ。かわいい。あきちゃんの存在が、俺はまるごと大好きだよ。ずっと一緒にいようね」


 ずっと離さないからね。そう言って抱きしめられて。その束縛が少しだけ怖いのに、嫌じゃない。

 そっと、さく兄の頬に手を添えた。ゆっくりと顔を近づけて、唇を落とす。今度こそ、目測を誤らないように。

 柔らかな唇に、自分のそれを押し当てて、離れる直前に奪い返された。


「……好き、だよ。朔夜」


 痺れて回らない舌で、辛うじてそれだけを伝えれば、彼は本当に嬉しそうに、わたしに向かって蕩けるような笑みを見せてくれた。

 ふふっと笑って、わたしはさく兄の首筋に顔を埋めた。


 きっと、何があっても、この人はわたしを離さないのだろう。15年間わたしに変わらず愛を伝え続けたそれを、最早疑うことはきっとない。

 だから、わたしもこれからは、もう少し言葉を返してあげようと、そう思う。


 ――ああほんと、この人はわたしのことが好きすぎる。

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