《模倣者(イミテーター)》の証明

月城 リョウ

序章:目覚めの日

### 1


 春の陽光が教室の窓から差し込んでいた。二〇四五年四月、東都大学の講義室は相変わらず学生たちの喧騒に包まれている。


「蒼太、また寝てたでしょ」


 隣の席から呆れたような声が聞こえて、俺——神崎蒼太は目を覚ました。


「あれ、寝てた?」


「教授が三回も名前呼んでたよ。ほら、みんな笑ってる」


 声の主は、春川美咲。俺と同じ文学部二年生で、入学式の日に偶然隣の席になってから、なんとなく一緒にいることが多くなった友人だ。肩までの黒髪をいつもきちんと整えていて、真面目な性格が顔に出ている。


「ごめんごめん。昨日バイト遅かったんだ」


「また居酒屋?蒼太、バイトしすぎだよ」


 美咲は心配そうに眉を寄せる。こういうところが、彼女らしいというか。放っておけない性分なのだろう。


「大丈夫大丈夫。それより今日の講義、どこまで進んだ?」


「もう終わったの。次は移動教室だから、早く準備して」


 彼女にノートを見せてもらいながら、俺は荷物をまとめた。美咲のノートはいつも丁寧で読みやすい。几帳面な性格がよく表れている。


 廊下を歩きながら、美咲が言った。


「そういえば蒼太、最近ニュース見た?」


「ニュース?何かあった?」


「また原因不明の事故が増えてるって。渋谷で建物が突然崩壊したとか」


「ふーん」


 正直、俺はニュースにあまり興味がない。目の前のことで精一杯だし、世の中の出来事は遠い話のように感じる。


「蒼太は本当に呑気だよね」


「そう?俺はこれでいいと思ってるけど」


「そういうところ、嫌いじゃないけど」


 美咲は小さく笑った。


### 2


 その日の夕方、俺たちは大学近くのカフェにいた。


「レポート、どうする?」


 美咲がタブレットを見ながら聞いてくる。


「えー、まだ二週間あるし」


「蒼太は絶対ギリギリになるタイプでしょ。だから今やっちゃおうよ」


「美咲は真面目だなあ」


「誰かがしっかりしてないと、蒼太が留年しちゃうもん」


 彼女は半分本気で心配しているようだった。確かに、俺は要領が悪い方だと自覚している。でも、なぜか周りの人が助けてくれる。高校の頃からそうだった。


「ありがとね、美咲」


「もう、急に真面目な顔しないでよ」


 美咲は少し頬を赤らめて、タブレットに視線を落とした。


 その時だった。


 カフェの窓ガラスが激しく揺れた。


「地震!?」


 美咲が叫ぶ。しかし、揺れはすぐに収まった。いや、揺れではなかった。何か別の力が働いたような——そんな違和感が残った。


「今の、地震じゃないかも」


 窓の外を見ると、通りの向こう側で人々が何かを見上げている。俺たちも外に出た。


 空が——歪んでいた。


「え、何あれ」


 美咲が驚愕の声を上げる。


 夕焼け空の一部が、まるでガラスにヒビが入ったように亀裂を走らせていた。いや、それは比喩ではなく、本当に空間そのものが割れているように見えた。


 そして、その亀裂から何かが落ちてきた。


 人——だろうか。黒いコートを纏った人影が、ゆっくりと地面に降り立った。周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ出す。


「蒼太、逃げよう!」


 美咲が俺の腕を掴む。


 だが、その瞬間——


 黒衣の人物が手を振った。ただそれだけの動作。しかし、その動きに呼応するように、周囲の車が次々と浮き上がり、建物の壁が崩れ落ちた。


 まるで、見えない巨大な手が街を掴んで揺さぶっているようだった。


「美咲、伏せて!」


 俺は反射的に彼女を庇った。瓦礫が雨のように降り注ぐ。


 痛い。頭に何かが当たった。視界が揺れる。


 その時だった。


 黒衣の人物がこちらを見た。


 距離は三十メートルほどあっただろうか。しかし、その視線は確かに俺を捉えていた。


 そして——彼が再び手を振った。


 今度は明確に、俺たちに向けて。


 空気が唸りを上げた。目に見えない力の奔流が、俺たちに向かって迫ってくる。


 死ぬ——


 そう思った瞬間。


 俺の視界が、変わった。


 いや、違う。視界そのものは変わっていない。だが、世界の見え方が変わった。


 黒衣の人物の動き——手の振り方、体重移動、指の角度、すべてが透けて見えた。いや、見えたというより、理解した。彼がどうやってあの力を発動させているのか、そのメカニズムが、まるで昔から知っていたかのように、俺の中に流れ込んできた。


 そして、気づいたら——


 俺も、同じように手を振っていた。


 轟音。


 二つの力がぶつかり合い、空中で相殺された。衝撃波が周囲に広がり、ガラスが砕け散る。


「え——」


 自分でも何が起きたのか分からなかった。


 黒衣の人物が、初めて驚いたような素振りを見せた。そして、興味深そうに俺を見つめた。


「まさか、お前——」


 その言葉を聞く前に、別の声が響いた。


「そこまでだ!」


 新たな人影が現れた。今度は白いスーツを着た女性。彼女は黒衣の人物に向かって何かを投げた。


 光の筋が走る。黒衣の人物はそれを避け、空間の亀裂に飛び込んで消えた。


 白いスーツの女性が俺たちに近づいてくる。


「大丈夫ですか」


「あ、はい」


 美咲が震えながら答える。俺はまだ、自分の手を見つめていた。


 今、俺は何をした?


 白いスーツの女性は、俺をじっと見た。


「君、名前は?」


「神崎、蒼太です」


「そう。神崎蒼太くん」


 彼女は名刺を差し出した。


 **特務機関AEGIS 調査官 白鳥麗華**


「君には、話さなければならないことがある」


### 3


 その夜、俺たちは大学近くの喫茶店にいた。美咲も一緒だ。彼女は怖がっていたが、俺から離れようとしなかった。


 白鳥麗華と名乗った女性——三十代前半くらいだろうか——は落ち着いた様子で、俺たちの前に座った。


「まず、君たちが見たものは現実だ」


 彼女は単刀直入に言った。


「この世界には、普通の人間には見えない力がある。私たちはそれを『能力』と呼んでいる」


「能力?」


「そう。特殊な訓練や、あるいは生まれつきの才能によって、物理法則を超えた現象を起こせる人間が存在する。政府はその存在を把握しているが、一般には公表していない」


 美咲が震える声で言った。


「じゃあ、さっきの人は——」


「能力者だ。しかも、危険な部類の。彼の名は黒羽。国際指名手配されている能力犯罪者だ」


 白鳥は俺を見た。


「そして、神崎蒼太くん。君も能力者だ」


「え?」


「さっき、黒羽の攻撃を防いだだろう。あれは紛れもなく能力の行使だ」


 俺は首を振った。


「いや、でも、俺は何もしてません。ただ、なんとなく——」


「なんとなく?」


「黒羽さんって人の動きを見て、真似しただけです」


 白鳥の目が細められた。


「真似?」


「はい。見たら、なぜかできちゃって」


 白鳥は驚いたような表情を浮かべた。そして、小さく呟いた。


「模倣能力——まさか、そんなものが」


「模倣能力?」


「見た能力を完全にコピーする力。理論上は存在すると言われていたが、実例は確認されていなかった」


 彼女は真剣な顔で俺を見た。


「神崎くん、君の能力は極めて稀有だ。そして、極めて危険でもある」


「危険?」


「君の能力を狙う者が現れる。黒羽が君を見たのは偶然かもしれないが、彼がその情報を流せば——」


 白鳥は言葉を切った。


「君は、狙われる」


### 4


 その夜、俺は美咲と一緒に帰った。


「蒼太、本当に大丈夫?」


 彼女は何度も俺の顔を覗き込んだ。


「大丈夫だよ。なんか、実感ないけど」


「私も。夢みたい」


 美咲は不安そうだった。そんな彼女を見て、俺は言った。


「ごめんね、巻き込んじゃって」


「何言ってるの。私が勝手についてきたんだよ」


「でも——」


「蒼太を一人にできないもん」


 彼女は強く言った。


「私、蒼太のこと、友達だと思ってるから」


 その言葉が、妙に心に響いた。


 美咲のアパートの前で別れる時、彼女が言った。


「明日も大学、行く?」


「うん。白鳥さんには、普段通りに過ごせって言われたし」


「そっか。じゃあ、また明日ね」


「うん。気をつけて帰ってね」


「蒼太こそ」


 彼女は小さく手を振って、建物の中に入っていった。


 一人になって、俺は空を見上げた。


 能力者。


 模倣能力。


 まだ、すべてが夢のようだった。


 でも、確かに俺は、あの時、黒羽の力を使った。見ただけで、できてしまった。


 これから、俺はどうなるんだろう。


 そんなことを考えながら、俺は自分のアパートに向かって歩き始めた。


### 5


 次の日、大学は通常通りだった。


 昨日の事件は、ニュースでは「ガス爆発による事故」として報道されていた。能力者のことは一切触れられていない。


「やっぱり隠蔽されてるんだね」


 美咲が小声で言った。


「みたいだね」


 俺たちは普段通り授業を受けた。だが、どこか上の空だった。


 昼休み、屋上で二人で弁当を食べていた時だった。


「蒼太」


 突然、背後から声がかけられた。


 振り返ると、見知らぬ男子学生が立っていた。長身で、鋭い目つき。どこか危険な雰囲気を纏っている。


「誰?」


「君が神崎蒼太か」


 彼は俺を値踏みするように見た。


「そうだけど」


「噂は聞いた。模倣能力を持つ新人だと」


 美咲が俺の後ろに隠れる。


 男子学生——いや、彼もまた能力者なのだろう——は、不敵に笑った。


「俺は柊真。白鳥さんと同じAEGISの人間だ」


「AEGIS?」


「君を保護するために配属された。まあ、監視役みたいなもんだけどな」


 柊は腕を組んだ。


「これから、君はいろんな奴らに狙われる。俺がついてる間は安全だが、油断するなよ」


「はあ」


「それと——」


 柊は俺の目を見た。


「君の能力、試してみたくないか?」


「え?」


「模倣能力がどこまで通用するか、興味あるだろ」


 彼は挑発的に笑った。


 その時、美咲が俺の服を掴んだ。


「蒼太、やめよう。危ないよ」


「大丈夫。俺、ちょっと気になってるんだ」


 俺は柊を見た。


「どうやるんですか?」


「簡単だ。俺の能力を見て、真似てみろ」


 柊は手を上げた。


 瞬間——彼の周りに、薄い光の膜のようなものが現れた。


「これは防御結界。物理攻撃を無効化する能力だ」


 そして、その結界を解いた。


「さあ、やってみろ」


 俺は深呼吸した。


 昨日のことを思い出す。黒羽の動きを見た時の感覚。


 そして——


 俺は柊の動きを脳内で再生した。手の動き、体の傾け方、呼吸のタイミング。すべてが鮮明に思い出される。


 そして、同じように手を上げた。


 すると——


 俺の周りにも、同じ光の膜が現れた。


「本当に——」


 美咲が驚きの声を上げる。


 柊も、わずかに目を見開いた。


「なるほど。完璧だ」


 彼は感心したように頷いた。


「君は本物だ。模倣能力者——神崎蒼太」


### 6


 その日から、俺の日常は一変した。


 柊真が俺の監視役として常についてくるようになり、放課後は白鳥麗華による能力のトレーニングが始まった。


 トレーニングといっても、実戦的なものだった。


「能力者との戦闘では、相手の動きを読むことが重要だ」


 白鳥は格闘技の達人でもあった。彼女の動きは無駄がなく、美しかった。


 そして、俺はその動きを見て、覚えた。


「すごいね、蒼太」


 美咲はいつも訓練を見学していた。彼女も能力者ではないが、俺のそばにいることを選んだ。


「美咲、危ないから離れてて」


「やだ。蒼太が心配だもん」


 彼女の存在が、俺を支えてくれていた。


 そんなある日、事件が起きた。


 大学の図書館で、美咲が襲われた。


 犯人は、黒羽の仲間だという能力者だった。


「神崎蒼太を呼べ」


 人質になった美咲を盾に、犯人は叫んだ。


 俺は、迷わず図書館に向かった。


「蒼太、待て!」


 柊が止めようとしたが、俺は走った。


 図書館の中。


 美咲が、見知らぬ男に腕を掴まれていた。


「来たな、神崎蒼太」


 男は不気味に笑った。


「彼女を返してほしければ、おとなしくついてこい」


「嫌だ」


 俺は即答した。


「え?」


 男が驚く。


「美咲を離せ。そうしたら、俺が行く」


「お前に交渉の余地はない」


「あるよ」


 俺は一歩踏み出した。


 その瞬間、男が能力を発動させた。


 炎——手のひらから火球が放たれる。


 だが、俺はすでに柊の防御結界を展開していた。


 火球は結界に阻まれ、消滅した。


「なに!?」


 男が動揺する。


 その隙に、俺は白鳥から学んだ格闘術を使って男に接近した。


 一瞬の攻防。


 男の腕をひねり上げ、美咲を奪還する。


「美咲、大丈夫!?」


「蒼太——」


 彼女は泣きそうな顔で俺にしがみついた。


 男は能力を使おうとしたが、柊と白鳥が到着し、即座に拘束された。


「助かった——」


 美咲は俺の胸で泣いた。


 俺は彼女の頭を優しく撫でた。


「もう大丈夫だよ」


### 7


 事件の後、美咲は少し落ち込んでいた。


「私、蒼太の足を引っ張ってばかりだね」


「そんなことないよ」


「でも——」


「美咲がいてくれるから、俺は頑張れるんだ」


 俺は正直に言った。


 美咲は顔を上げた。


「本当?」


「本当」


 彼女は少し照れたように笑った。


「じゃあ、私、もっと強くなる」


「強く?」


「蒼太を守れるくらい」


 その言葉に、俺は少しドキッとした。


 美咲は、ただの友人だと思っていた。


 でも——


 もしかしたら、俺にとって彼女は——


 そんなことを考えていると、白鳥から連絡が入った。


「神崎くん、緊急招集だ。大きな事件が起きた」


### 8


 AEGISの本部に呼ばれた俺は、驚愕の事実を知らされた。


「黒羽が動いた。そして、君を指名している」


 白鳥は深刻な表情だった。


「俺を?」


「ああ。彼は言っている。『模倣能力者と決着をつけたい』と」


 柊が腕を組んだ。


「罠かもしれない」


「だが、放置すれば一般市民に被害が出る。黒羽は容赦しない」


 白鳥は俺を見た。


「神崎くん、君に選択肢を与える。戦うか、逃げるか」


 俺は迷わなかった。


「戦います」


「蒼太!」


 美咲が叫んだ。彼女も同行していた。


「でも、危ないよ」


「大丈夫。俺には、みんながついてる」


 俺は白鳥と柊を見た。


「それに——」


 俺は美咲を見た。


「美咲のためにも、この街を守りたい」


 美咲の目に涙が浮かんだ。


「蒼太——」


 白鳥が頷いた。


「分かった。では、作戦を説明する」


### 9


 決戦の場所は、東都タワー。


 夜、誰もいない展望台に、黒羽が待っていた。


「来たか、模倣能力者」


 彼は俺を見て、不敵に笑った。


「君の能力は興味深い。だが、所詮は猿真似だ」


「そうかもしれない」


 俺は一歩前に出た。


「でも、俺には守りたいものがある」


「守りたいもの?くだらない」


 黒羽は手を振った。


 瞬間、強烈な力の波が襲ってきた。


 俺は防御結界を展開——しかし、黒羽の力はそれを貫通した。


「っ!」


 吹き飛ばされる。


「君の能力は完璧なコピーだ。だが、それには限界がある」


 黒羽が近づいてくる。


「一度見た能力しか使えない。そして、経験値が足りない」


 その通りだった。


 俺はまだ、能力者として未熟だった。


 だが——


「それでも、俺は戦う」


 俺は立ち上がった。


 そして、今まで見てきたすべての能力を思い出した。


 黒羽の力。

 柊の結界。

 白鳥の格闘術。

 そして——


 その瞬間、俺の中で何かが繋がった。


 能力はバラバラに使うものじゃない。


 組み合わせるんだ。


 俺は黒羽の力を真似しながら、柊の結界で防御し、白鳥の動きで接近した。


 そして——


 黒羽の懐に飛び込んだ瞬間、彼の力を逆流させた。


 轟音。


 黒羽が吹き飛ばされた。


「なに——」


 彼は驚愕の表情を浮かべた。


「君は、能力を——組み合わせた?」


「そう。これが、俺の模倣能力だ」


 俺は拳を構えた。


「見たものすべてを、自分のものにする」


 戦いは、そこから激化した。


 黒羽も本気を出し、様々な能力を繰り出してきた。


 だが、俺はそのすべてを見て、覚えて、使った。


 そして——


 最後の一撃。


 俺は、黒羽のすべての能力を組み合わせた、新しい技を放った。


 光と闇が交錯する。


 そして——


 黒羽が倒れた。


「まさか——負けるとは——」


 彼は苦笑した。


「君は、本物の模倣能力者だ」


 その言葉を残して、黒羽は意識を失った。


### 10


 事件は解決した。


 黒羽はAEGISに拘束され、街に平和が戻った。


 だが、白鳥は言った。


「これは始まりに過ぎない。君の能力を狙う者は、まだいる」


「分かってます」


 俺は覚悟を決めていた。


 そして、美咲が俺の隣に立った。


「私も、蒼太についていく」


「美咲——」


「だって、友達でしょ」


 彼女は笑った。


 その笑顔が、俺の心を温めた。


 友達——


 いや、もしかしたら、それ以上の存在かもしれない。


 そんなことを考えながら、俺たちは新しい日常へと歩き出した。


 能力者として。


 そして——


 大切な人を守る者として。


 神崎蒼太の物語は、まだ始まったばかりだった。

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