誰かの遺書

コータ

第1話

 俺、腹多将暉の人生は順調であり、決して転落などあり得ないという確信があった。


 なぜなら、これまで努力を怠ったことがないから。努力は決して人を裏切らない、これは本当だと自信を持って言える。


 大手IT企業で三十代前半で役員になれたのも、妻と子供二人に恵まれて都心のタワーマンションを買うことができたのも、幼少から何事も全力で取り組んできたからだと思う。


「有馬さん。もしかして残業かい」

「はい。腹多さんは、今日も早いんですね」


 仕事上がりのことだ。オフィスの通路で新卒の有馬玲奈に会ったので声をかけていた。彼女は羨ましそうにしている。


「最初のうちは大変だよね。まあ、そのうち楽になるさ」

「そうだといいんですけど」

「困ったことがあったら、流川君に相談しなさい。まあ、あいつに言いづらい時は、俺でもいいぞ」

「はい、ありがとうございます」


 こうやって、いつも自分から話しかけるようにしている。エレベーターに乗っていると、途中で二人の男が乗ってきた。


「あ、腹多じゃん。今日は上がりなの?」

「お疲れ様です」


 一人は俺と同い年で、俳優にいそうな整った顔をしている男。名を流川慎吾という。


 こいつは中学時代の友人で、なんと同じ会社に就職していたのだ。二人とも地方出身であり、驚くべき偶然だ。


 社内の地位という点では俺が大きく抜いてしまったが、今もお互いに遠慮がない関係だった。


「ああ、AIに助けられてるよ。時代は本当に進歩しているよな」

「やだなぁ、まるでお年寄りみたいじゃん」


 少しのあいだ、俺と流川は適当に喋っていた。もう一人の奴は、ただ無表情にエレベーターが降りるのを待つばかり。


 名前は、たしか桂木という。この男は派遣社員で、歳は詳しく知らないが四十を超えているはずだ。


「じゃあ、お疲れ」

「お疲れー!」

「あ、お疲れ様でした」


 流川とは少し遅れて、桂木が挨拶を返してきた。何か仏頂面というか、愛想が良くない感じがする。


 まあ、俺にとって直接的な関係はない。ほとんどの煩わしい人間関係から、今は解放されているのがありがたい。


 勤務地から家は、そう遠くはない。車を走らせること七分ほどで、マンションの駐車場に到着していた。


 七階にある一番広い部屋に、俺たちは住んでいる。100平米もあるので、ファミリー暮らしでも苦にはならない。


 大学を出たばかりの頃は、こんな生活ができるなんて思ってもみなかった。


 地方から出てきて、最初は見るもの全てが巨大に見えて仕方がなかったっけ。それも昔の話で、今は何も感じることがない。


 マンション一階の集合玄関にはポストがあって、郵便物が入っていないかをチェックするのが俺の日課だった。


 中を開けてみれば、スーパーやらジムやら、よく見るチラシがいつもどおりに入れられていた。


 うんざりした思いで、全部のチラシを掴み取る。その時一枚だけ、封筒のようなものが落ちていることに気づいた。


 封筒の表紙には、【腹多将暉様】と書かれている。しかし、送り主の名前がない。


 しかもこれ、切手も貼られていないじゃないか。つまりこのポストに、本人がやってきて投下したということになる。


 何か気味が悪いと思いつつ、とりあえず持ち帰ってみることにした。


 この時、時刻はまだ十九時になったばかりだった。


 11月も下旬となり、すっかり冷え冷えとした空気が漂っている。


 ◇


 うちは経済的に困っていない。


 妻は専業主婦でも問題ないが仕事好きで、今日も遅くなるらしい。


 息子は高校一年生で、娘は中学二年生。二人とも部活や塾に忙しいので、帰ってくるまでもう少し時間がある。


 珍しく俺は暇だった。今の時間に興味があるテレビ番組はなかった。インフルエンサーの動画を観たい気分でもない。サッカーもやっていない。


 ふと、さっきの封筒が目に入る。


 一体誰からのものだろう。不思議に思い、封を切って中身を開いた。


「手紙……?」


 中には一枚の手紙が入っていたようだ。俺はすぐに中身を読み始めるが、だんだんと興味が膨らんでいったことを覚えている。


 手紙には、こんなことが書かれていた。


 =======


 こういったものが、何から書くことが正解なのか分かりません。


 先立つ不幸をお許しくださいと、まず初めに書くべきでしょうか。でも困ってしまうのも無理はありません。


 だって私は遺書なんて読んだこともなければ、書き方を習ったわけでもないのです。


 ですので、まずは本題から書かせてください。私は死にます。


 そこで遺言を書くことにしました。書かなくてはいけないのです。


 なぜなら今この世には、私しか知らないことが沢山あり、そして教えなければ必ず悲劇が訪れてしまうからです。


 例えば11月21日の午前2時30分に、上高井戸蓮さんが刺殺されて亡くなってしまうことも、今は私しか知り得ない。


 私はこの遺書にこれから起こる、悲しい悲しい出来事をしたためる必要があります。


 でもその前に、このくだらない男の独白を読んでください。


 思えば私は、なんと惨めな人生を送ってきたことでしょう。


 普通の家庭に生まれ、普通の生活を送り、普通に役目を終えて死にたかった私は、いつだって普通になることができませんでした。


 学生時代はひどい虐めに遭いましたし、社会に出てからも良かったと思えることなんて一つもありはしません。


 モテようとしましたよ。一日も休むことなく会社勤めをして、成り上がろうとしましたよ。好きなことを見つけようとしましたよ。


 みんなが私に言うんです。行動すれば必ずなんとかなるって。努力はきっと報われるって。


 私はその言葉を信じて、ありとあらゆる努力をし、自己犠牲を厭わなかった。


 結果、私は一切何の結果も出すことができないまま、歳ばかりを取ってきたのです。


 私にありがたい助言をくれた偉そうな皆様は、結局のところ私の人生を搾取したに過ぎなかったのです。


 何もしないより、必死に頑張って欲しいものが得られないほうが、より惨めだと思いませんか。


 騙されて頑張って頑張って、馬鹿を見て歳だけ取っていくほうが、より辛く理不尽ではないでしょうか。


 私の思いを聞いてほしいのです。


 しかし、全てを書き記すには、この紙だけでは足りません。この遺書を読んでくれる方がいることを願います。


 でも、この内容を誰かに話さないほうが良いですよ。


 もし話してしまったら、きっと

 =======


 ……なんだこれは。中途半端な内容で終わっているようだが。


 酷くまとまりの悪い、この駄文に俺は気分を害していた。


 しかも読むほどに、人生の負け犬としか思えないくだらない愚痴ばかり。


 だが、なぜ俺宛てに遺書などと称したものをよこしたのか。しかも、上高井戸蓮って誰だよ。


 今日は11月20日の夜だが、まさか殺人予告でもしているつもりか。


「馬鹿馬鹿しい」


 よほど頭のいかれた奴が、近所に住んでいるのかもしれない。それだけは注意しなくちゃいけないから、明日警察にこれを渡してみるか。


 少しして息子と娘が帰ってきたので、俺は飯を作るべく台所に立った。


 タチの悪いイタズラなんて、すぐに終わると思っていたのだ。


 ◇


 次の日、テレビのニュース番組を観ていた俺は、開いた口が塞がらなくなっていた。


 都内に住む俺と同い年の男、上高井戸蓮が身体中を刃物で滅多刺しにされて死んでいたらしい。


 死体が見つかったのは早朝。つまりあの遺書とやらを読んだ後、実際に殺されたということになる。


 そんな馬鹿な。心の中に動揺が広がり、朝食のカレーがやたらと薄く感じられた。


 すぐに遺書とやらを読み直してみる。やはり上高井戸の名前が書かれている。


 本当に予知したとでもいうのだろうか。いや違う。そんなことは普通に考えてあり得ない。


 どういうつもりかは知らないが、この遺書を書いた奴は、予知を信じ込ませるために殺しを実行したのではないか。


 だが、なぜそんなことを?


 そしてもう一つ、昨日は上高井戸蓮という名に、覚えはないつもりだった。


 だが一日経って、何か違和感を覚えたのだ。どこかで聞いた名のような気がする。


 しかし思い出せない。歯痒い気持ちが時間と共に募っていく。


 でも日常に戻り、するべきことをしなくてはならない。俺はその日も普通に会社に出勤したが、気持ちが落ち着かなかった。


 どうすればいいのか分からず、遺書について流川に相談してみたところ、早く警察に連絡するべきだと至極真っ当なアドバイスをされた。


 仕事が終わり、家にある遺書を交番に届けることにしよう。そう考え、いつもより早くマンションに戻ってきた俺は、ふとまたポストが気になった。


 まさか、遺書とやらがもう一度届いてはしないだろうか。そう思いつつ、いつものように中を開いてみる。


「……あ」


 今日はチラシの類は入っていない。代わりに一つだけ、昨日と同じ封筒が入っていた。


 ドクン、と心臓が高鳴るのを感じる。周囲を見回してみるが、人の気配はない。


 封筒の表を見ると、またも俺宛てになっていた。送り主の名前はなし。


 俺は急いで家に帰ると、すぐにリビングのソファに座って封を切った。


 =======

 良くないことが起こる。

 そんな予感がしたのです。


 今現在私の頭には、多くの恐ろしい予感が膨らんでいるのです。

 このままでは私は、まともに遺書など書くことすら叶わないでしょう。


 だから、まずは今知っていることを、ここで吐き出させていただきます。


 まず11月22日午前4時ちょうどに、B県A市にお住まいの悠木一鷹さんが、背後から鈍器のようなもので殴られている姿が見えます。彼は死にます。


 続いて明日の夕方にも殺人が起こりますが、これが誰なのか今の段階では見えてきません。歯痒い限りです。


 ああ、一体どうすればいいのか。このままでは私は満足にこの世からお別れなどできそうにありません。


 腹多優香は、朝9時から二十時までアパレル会社で働いた後、二度の乗り換えを経て21時に帰宅します。


 いつも電車に揺られながら、料理系YouTuberの配信を観ては朝や休みの献立を考えています。


 腹多政尚はいつもどおり自転車通学をし、8時10分に学校に到着し19時には塾を終えて帰宅します。塾の席は決まって、一番前の角席と決まっています。


 最近では塾でよく会う女の子が気になっているらしいのですが、連絡先すら交換してもらえず家でも学校でも嘆いています。


 腹多凛はいつも徒歩で中学校に通い、8時半から18時半まで学校にいます。部活はバドミントンで、先生から才能があると褒められて頑張っているようです。


 このようなことばかりが、頭の中に浮かんでは消えていきます。

 私が書かなくてはならないのは、こんなことではありません。


 私は明日、次こそちゃんとした遺書を書くつもりです。

 そして必ずや自殺する決意でおります。


 宮ノ川心太のことは、できれば話したくない。

 =======


 最後の文章を読み終えた時、手が小刻みに震えていた。


 この手紙の主に、戸惑いや怒りというよりも、深い恐怖を感じている。


 まず初めに気になったのは殺人予告だ。悠木一鷹なる者が殺されるらしい。なぜかは分からないが、この名前にも覚えがある気がする。でも思い出せない。


 続いて、恐らくこの手紙の主は、あともう一人殺すつもりでいるようだ。予言なんて嘘に決まってる。絶対に自分で殺すつもりに違いない。


 しかし、なぜこのような真似を?


 正体の分からない送り主への恐怖が膨らむ。次に驚いたのは、腹多優香をはじめとする三人のことだった。


 腹多優香は俺の妻であり、政尚は息子で凛は娘だ。なぜこの手紙を書いた人物は、三人のスケジュールや他者には知り得ないはずの情報まで持っているのだろう。


 いや、それよりも……これは手紙の主が三人をつけ回していた証拠であり、いつでも殺せることを俺に伝えているのではないか。


 ストーカーだとしてもやり過ぎだろう。だが、もっと俺を動揺させたのは、最後の一文だ。


【宮ノ川心太のことは、できれば話したくない】


 この一言が俺の心を激しく揺さぶっていた。心太のことは俺もよく知っている。


 中学の同級生だった奴だ。そして在学中に不幸にも亡くなってしまった男だった。


 俺は手紙を読みながら、すぐに警察に相談しようと考えを固めていた。しかし、宮ノ川心太の名前を出されたことで、その動きを躊躇う自分がいる。


 これには事情がある。警察に言う前に、誰かに相談できないだろうか。


 相談できる相手と言えば、流川くらいしか浮かばない。


 ◇


 次の日、手紙のとおりに悠木一鷹という男が殺されてしまった。


 なぜ犯人がこのような凶行に及んでいるのかは、どんなに考えても分からなかった。


 ただ一つ言えるのは、俺に手紙を送っている奴は、間違いなく異常な連続殺人犯だ。早くなんとかしなくては、俺たちの身だって危ない。


 出社した後、ミーティングという程で流川と個室で話す機会を得た。


「なんで心太のことを? 嘘だろ……」


 あいつも驚きを隠せない。


「嘘じゃない。確かにこれは、俺の家のポストに投稿されていて、奴の名前が入ってる」

「そんな訳が……」

「それと、悠木一鷹という人が殺された。死体はバラバラにされていたらしく、衝撃的な内容でニュースになってる」

「……待った。悠木一鷹って、俺たちの友達だったあいつのこと?」

「ん? ……ああ、そうか! いや、俺は忘れていたんだが、確かに同じクラスだったな」

「お前、忘れてたのかよ」


 すっかり忘れていたが、悠木一鷹は中学の同級生であり、俺たちの友人だった。あの奇妙な既視感の正体はこれだったのか。


「待てよ。そういえば、最初に手紙に書いてあって殺された、上高井戸蓮って奴も」

「そいつも中学で友達だったろ」


 衝撃だった。俺は中学の奴とはほとんど親交がなくなっていたので、名前もうっすらとしか覚えていなかった。だから引っ掛かっていたのか。


 しかし、ここで二人は沈黙した。この手紙の主は中学校時代、宮ノ川心太に関連する人物を標的にしているということか。


 流川はすっかり青ざめた顔になり、信じられないとばかりに首を横に振った。


「あり得ない。どうして今頃になって、あいつのことが」

「さあな。でも犯人は絞れるかもしれない。あいつに関連する奴を探していけば」

「探す? それは警察の仕事だろ」


 何を言ってるんだ、とばかりに反論が来る。


「今すぐ警察にこの手紙を伝えて、身の回りを警護してもらうしかないんじゃないか」


 真っ当な提案だが、この意見に渋ってしまう自分がいる。


「警護なんてしてくれるんだろうか。かえってこの送り主を刺激するかも」

「これは有力な情報だろ。むしろ警察に伝えなきゃまずいって」

「いや、やめておこう」

「ちょ、ちょっと待った! 何を躊躇っているんだ?」


 流川は俺の気持ちが理解できないらしい。


 この時、俺の脳裏には出会ったばかりの心太が浮かんでいた。


 中学一年の頃、まだ元気だったあいつの姿を覚えている。隣にはいつも同じ誰かがいた。でも、その人のことはもう覚えていない。


「事実が明るみになったら、心太がかわいそうだ」

「え……」


 全く理解できない、という顔が目の前にあった。


「とにかく、手紙のことはまだ内緒だ。尻尾を掴んだら警察に連絡するんだ。急いでな」

「ま、待ってくれ! やっぱりここは、」


 俺は流川の言葉を聞かず、足早に部屋を出た。


 その瞬間のことだった。誰かが通路にいたのである。


「待て!」


 そいつは慌ててその場を離れようとしたので、必死に追いかけた。逃げ足の速い奴ではあったが、週に三日はジムで鍛えているこの身にはスタミナがある。


 奴は少しのあいだ逃げ続けていたが、ついに捕まった。


「お前は……派遣の奴だな」

「す、すいません。どんな話をされているのか気になって、つい」


 男は流川の部下である派遣社員、桂木である。


「妙だな。お前には俺たち社員のスケジュールなど周知されてないはずだが。なぜここでミーティングが行われているのを知っていた?」


 こいつはおかしい。本来なら勤務場所が階層ごと違うはずなのに。


 その時、ふと思ったことがある。俺の家族の情報を把握することは、意外と難しいことではないかもしれない、ということだ。


 なぜかというと、社内チャットの雑談部屋で、そういえば俺は家庭のこともいろいろと書き込んでいたからだ。


 妻のことも、子供たちのことも。俺はみんなに語ることが好きだった。あの手紙の内容は、もしかしたら雑談チャットから拾ったのかもしれない。


 では……あの手紙を書いていた犯人は、社内にいるのかもしれない。


 いや、もしかしたら妻の会社から情報が漏れているのかもしれないが、あいつはプライベートのことは極力話したがらない性格をしている。


 そして心太のことを知っている……こう考えていけば犯人が絞れてくるような気がした。


 この時、俺は桂木の胸ぐらを掴み、逃げられないようにしていた。この時に奴は怯えながら、唇を震わせて意外なことを口にする。


「実は……有馬さんに頼まれていたんです」

「は? なぜ有馬が。お前、いい加減なことを抜かすと承知しないぞ」

「本当です! 有馬さんに、腹多さんのことを調べてほしいって、随分と前から相談されてて。DMでよくやり取りしてます」

「有馬とお前がか」

「はい。半年くらい前からですけど」


 半年ほど前というと、俺と有馬が知り合ったばかりの頃だ。あいつは入社してすぐ。


 しかし、なぜ有馬が……頭を悩ませていた時、桂木は小さく囁いた。


「腹多さんに、とても強い関心があるようです。これ以上は、僕の口からは」

「……もういい。仕事に戻れ」


 こいつと有馬が繋がっていたとは知らなかった。苛立ちを露わに突き飛ばすと、桂木は逃げるように走り去った。まさに小者という動きをする。


 でも、有馬が俺に関心があることは理解できた。もしかしたら、プライベートなところまで知りたかったということかもしれない。


 その後は普通に仕事をし、いつもどおりに定時上がりをした。


 流川にもう一度会おうと思っていたが、得意先に向かったようなので諦めた。有馬にも会おうとしたが、珍しくもう上がったらしい。


 帰りの車の中で、今までのことを懸命に考えてみる。


 俺に遺書もどきの手紙を送ってくるそいつは、少なくとも二人を殺害している。そして、なぜか俺宛てに手紙を送り続け、家族を含めた情報を得ている。


 さらには、なぜか中学時代の同級生、今は亡き宮ノ川心太のことまで知っていた。


「まさか……流川なのか」


 これまでずっと、あいつを信じていた。しかし、あいつ以外には犯人の条件を満たす者などいないのではないか。


 いや、心太のことは……同級生ではなくても知っている可能性はある。


 それにあいつが犯人なら、警察に向かうことを勧めたりするだろうか。自分の首を絞めるような言動をするとは思えないが。


 悩み続けているうちに、車は駐車場に到着していた。今日は俺以外の家族全員の帰りが遅くなる日だった。


 集合玄関にたどり着いた時、言いようのない緊張を覚えた。今日も入っているのか、あれが。


 そう思いポストを開いたが、中は空になっていた。ここで深い安堵のため息が漏れた。


 しかし、まだ安心することはできない。そう思いエレベーターを上り、ドアに鍵を差した時、違和感に脳が支配される。


「……空いてる?」


 ◇


 なぜ玄関ドアの鍵がかかっていない?

 部屋に入ると、真っ暗な室内を時々薄灯りが照らしている。


 カーテンが揺れているのだ。


「窓が空いてる……」


 俺は恐る恐る、天井ライトのボタンに触れてみる。途端に部屋は明るくなり、室内をひととおり探したが、怪しい者はいない。


 だが、ホッとするどころかむしろ恐怖は加速する。リビングのテーブルの上に、一通の紙が置かれていた。


 俺は恐る恐る、その紙を開いてみた。遺書と書かれている。


 =======


 まず、謝罪がございます。


 最初の手紙に書きました私の情けない半生について。あれは嘘っぱちです。


 そしてこれからお話しすることが、私の真実です。

 

 初めに、私は最低な人間であったことを白状しなくてはなりません。その自責の念に苦しみ、今日これから自殺をするのです。


 私は中学一年生から三年生の夏休みまで、宮ノ川心太を執拗にいじめ続け、自殺に追い込みました。このいじめは十人ほどで行われましたが、主犯は私です。


 私の他には上高井戸蓮、悠木一鷹、流川慎吾が主となっていじめをしていました。


 中学一年の頃、まだ明るかった彼が徐々に弱っていく姿を見ることは、私にとって面白くて堪りませんでした。


 ありとあらゆる方法を考えては、彼を虐めることで勉強や親からのストレスを発散していたのです。


 私は昔から知恵がある子供でした。先生や親御さんにバレないよう、工夫しながらいじめることを楽しんでいた、そういう最低な時期が確かにあったのです。


 そして、私の巧妙な工夫の数々が効果を発揮し、私たちはいじめをしていた事実を隠蔽することに成功していました。


 それと、高身長で顔が良い私は、誰からも疑われ難い性質を持っていました。


 その後は順調に進学校に入学し、名門大学に進学し、社会全体でも珍しいくらい綺麗な階段を登っています。


 ですが、裏では沢山の悪いことを行ってきました。


 会社では中学時代の友人である流川を、影から出世できないよう工作しました。


 有馬の同期の女子と隠れて肉体関係を結び、子供ができてしまったので堕させて退職してもらいました。この事実は会社には秘密です。


 娘の友達と知り合うきっかけがあり、ある時誰もいない我が家に連れ込んで抱きました。まだ十三歳でした。


 気に入らないことがある時、妻に暴力を振るうことがあります。妻は本当は仕事がしたいわけではなく、子供がいない時に私と一緒に居たくないのです。


 上高井戸蓮を刺殺したのは私です。今になっていじめの揺りをされたからです。


 悠木一鷹を撲殺した挙句、バラバラに解体したのも私です。こいつも同じく揺すりかねないと思ったからです。


 今日の夕方に流川を刺殺したのも私です。奴は仕事ができすぎて生意気で、前々から嫌いだったからです。


 そして今、私は私自身を殺します。


 人を陥れ続け、自分のことだけを考え、いつしか人殺しを繰り返した自分という存在を、もう許すことはできません。


 お父さん、お母さん、兄妹達。それから妻と息子達へ。

 先立つ不幸をお許しください。


 腹多将暉

 

 =======


 全身が凍りついている。


 この手紙はなんだ。妻に暴力を振るったことがあるところまでは事実だが、その先は出鱈目ばかりだ。


 妻が俺と一緒にいる時間が嫌で仕事をしているだって?

 そんなことあるはずがない。


 しかし、本当の情報と嘘を混ぜ合わせ、俺という存在の遺書を作り上げている。つまり最後に、俺を殺すつもりだったのか。


 身体中が小刻みに震え始めていた。謎の人物からの狂気と殺意が、ゆっくりとこの身を飲み込もうとしている。


 周囲にある色々なものが気になって堪らない。


 ふと、薄暗いテーブルの下に何かが隠すように置いてあることに気づいた。


 ナイフだ。しかも血がついている。手にとってから、驚いてそれを離した。


 床に刃が落下し、甲高い音が室内に響き渡る。


「誰が……誰がこんな……」


 こいつは、俺の名を語って遺書を書いている。全ての罪を擦りつけるつもりとしか思えない。


 しかし不思議だ。

 読むほどに、まるで本当に俺かのような錯覚がする。


 まさかそんな筈はない、そう思っていた時だった。ベランダで何か激しい音がして、体が飛び上がってしまう。


「だ、誰だ!」


 俺は震える足で立ち上がり、自室に置いていたゴルフクラブを取り出し、ゆっくりとベランダへと向かう。


 夜の闇が深まっていた。もうすぐ子供達が帰ってくる時間だ。


 ベランダには何もない。しかし、さっきの音はなんだったのか。少し下に目を向けたことで、ようやく何が起こったのか理解できた。


 妻が大事にしていた花瓶が、下に落下していたようだ。


 しかし、なぜ花瓶が?


 気になって堪らなくなり、軽率な真似をした。前のめりになって僅かしか見えないその場所を注視する。やはり他には何もない。


 俺は明らかに冷静さを欠いていた。背後に気配がある。気づいた時には、もうそいつは実行に移していた。


 身を乗り出していた体が、背後から強い力で押される。


 体がふわりと浮き上がり、感じたことのない風とともに落下が始まる。


 七階から一階まではあっという間で、考える余裕すらなかった。悲鳴が勝手に口から飛び出ていた。


 これはジェットコースターではない、落ちるところまで落ちてしまうだけ。


 地面に叩きつけられた衝撃で、体があってはならない崩壊を余儀なくされる。


 ほんの一瞬だが、自宅のベランダが視界に映った。


 ……桂木だと?


 氷のような瞳と目が合ったような気がする。


 かつての記憶が、雪崩れ込むように視界に現れては消えていく。


 どうやら即死ではないらしい。しかし、死は間違いなくもうすぐに来る。


 いやだ、まだ死にたくない。いやだ。


 生を渇望する脳裏に、宮ノ川心太と一緒に笑いながら下校していた、冴えない中学生の後ろ姿が蘇った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰かの遺書 コータ @asadakota

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画