枝越しの季節

こぬまち

『枝越しの季節』

『枝越しの季節』


ぼくは、この公園の端っこに立ってもう三十年になる。

大きな銀杏の木。春には小さな葉を芽吹かせ、夏には子どもたちの木陰となり、秋には鮮やかな金色のじゅうたんを広げ、冬にはただ静かに、空を仰ぐ。

そうやって毎年、同じ場所で、人々の暮らしを見てきた。


今朝も、あの老夫婦が散歩に来た。

彼はいつも杖をついていて、彼女は少し前を歩く。たまに彼が立ち止まると、彼女は必ず振り返って、優しく笑う。

この二人が並んでベンチに座ると、ぼくの影がちょうどその上に落ちる。まるで包み込むように。


午後には、小さな女の子が父親に手を引かれてやって来た。

彼女はぼくの根元に座って、落ち葉をひとつひとつ拾っては、「これはお姫さまのドレス」「これは王子さまのマント」と呟いていた。

父親はその横でスマホをいじっていたけれど、ときどき顔を上げて、娘の声に小さく笑っていた。


夕暮れ、空がオレンジに染まると、ひとりの青年が来た。

彼は毎週決まった曜日、決まった時間にぼくの前に立つ。

何も言わない。ただしばらく空を見て、時々涙ぐむ。

ポケットから取り出すのは、小さな紙片。そこに書かれているのは、誰かへの手紙のようだった。

そして彼は、そっと紙を風に乗せる。ぼくの枝に触れて、それは空へ消える。


ぼくには言葉も足もない。

けれど、確かにここで、人の時間とともに生きている。

風を受け、鳥のさえずりを聞き、枝を通して彼らの想いを感じている。


だから、今日も何も言わず、ただ見ている。

目の前を流れる、人間たちの日々を。

それがぼくの、変わらない日常だ。



---


『枝越しの季節 ―春―』


春が来た。

長い冬の静けさを破るように、陽が差し、土がゆるみ、空気がやわらかくなる。

ぼくの枝先には、小さな新芽がいくつも顔を出す。まるで「また会えたね」と言うように。


朝、制服姿の高校生たちが公園を横切る。

新しい制服はまだ体に馴染んでいなくて、肩をすくめる仕草が初々しい。

笑い合いながら駆けていく少年たちの中に、ひとりだけ振り返る子がいた。

その子はじっとぼくを見上げていた。

「なんで?」と問いかけるようなまなざし。


たぶん、去年までここにいた誰かを思い出していたんだろう。

ぼくは覚えているよ。春の終わり、同じ制服を着て、この場所で泣いていた子を。


昼になると、老夫婦のベンチがにぎわう。

今年もあの二人はやってきた。

彼女は桜色のスカーフを首に巻いていて、彼は何度もその色を褒めていた。

風が吹くとスカーフの端がふわりと舞って、ぼくの若葉と絡まる。


「今年の春は、去年よりも少し長いですね。」

彼女がぽつりとつぶやいた。

「そうだな」と彼が頷く。

その言葉が、ぼくの幹に深く染み込んだ。


夕方、小学生の男の子が、ランドセルを揺らしてやってくる。

まっすぐぼくの根元まで来て、どさりと腰を下ろす。

ランドセルから取り出したのは、ノートと鉛筆。

「今日は、木の観察をします!」と声に出して言った。


彼は、ぼくを見上げ、触れ、枝の形、葉の匂い、幹の手触りを、丁寧に書き留めていた。

「この木は、なんか、あったかい」ともつぶやいた。

うれしかった。

木は声を出せない。でも、たしかに君のことを、ここから見てるよ。


春は、別れと出会いの季節だ。

古い葉は落ち、新しい葉が育つように、人の気持ちも少しずつ変わっていく。

でも、ぼくはここにいる。変わらずに。

すべてを見ている。覚えている。


そうして、春がまたひとつ、枝の先に芽吹いていく。




---


『枝越しの季節 ―夏―』


夏が来た。

空は高く、眩しいほど青くて、陽射しはぼくの葉の隙間さえも逃さない。

それでも、ぼくの影の下はいつも涼しい。

葉が大きく広がり、地面にやわらかな揺らぎを落とす。

その影を頼りに、人々はやってくる。


午前中、公園のグラウンドでは、小さな少年たちがサッカーをしていた。

まだ走るより転ぶ方が多い年齢の子どもたち。

でも、ひとりだけ――誰よりも小柄な男の子は、誰よりも速かった。

声も出さず、ただ夢中でボールを追う。

何度転んでも、彼はすぐ立ち上がってまた走った。


その子を見つめる、ひとりの少女。

肩まで伸びた綺麗な髪を、指でくるくると巻きながら、笑うわけでも、声をかけるわけでもない。

ただ、まっすぐに彼を見ていた。

ぼくは、その子の背中に宿る「なにか」を知っていた。

春に芽吹いた、まだ名前のない想いだ。


午後になると、セミの鳴き声が一段と強くなる。

ぼくの幹には何匹ものセミがしがみつき、命を燃やすように鳴いている。

その音を聞きながら、青年がひとりやってきた。

この人も春からずっと、ぼくの前に現れる。

いつも決まった時間に、決まった場所に立つ。

そして、今日も同じように、風に手紙を乗せる。


でも今日は違った。

彼は初めて、声を出した。

「もう、忘れたくないんだ」

その言葉は、空の青さに飲まれていったけれど、ぼくの幹に、確かに刻まれた。


夜になると、公園は静かになる。

けれど、時々現れるのは――若いカップル。

彼らは、ぼくの影に隠れるようにして座る。

手を繋ぎながら、未来のことを話していた。

「一緒に住んだら、どこに木を植える?」

「ベランダに鉢を置くのもいいかもね」

そのたわいない会話が、なぜだかぼくにはとても愛しく思えた。


夏は、命が一番強く輝く季節。

でも、同時に、、、一番、脆くなる季節でもある。

暑さの中で、人は誰かに触れたくなり、寂しさを隠せなくなる。

ぼくはそんな気持ちを知っている。

枝の先で育った葉たちが、風に千切れそうになりながらも光を掴もうとする姿を、何度も見てきた。


そして、夏の終わりが近づいてくる。

セミの声がひとつずつ消えていくように。

人の姿も、少しずつ、秋へと向かっていく。



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『枝越しの季節 ―秋―』


秋が来た。

風が変わり、空気が澄んで、陽射しがやわらかくなる。

ぼくの葉は、少しずつ色を変え始める。

緑から黄へ、黄から金へ、やがて赤く燃えるようになって――

そして、静かに地面へ落ちていく。


午前、いつもの老夫婦の、彼だけが来た。

彼だけが、ベンチにひとり。

スカーフを巻いた彼女の姿は、今日はなかった。


彼はぼくの影の中で、静かに目を閉じていた。

何も言わず、何も見ず、ただ、そこにいた。

風が吹いたとき、ぼくの枝から一枚の葉が舞い落ちて、彼の肩に乗った。

彼はそれを手に取って、胸に当てた。

「また来るよ」と、ぽつり。

それは誰に向けた言葉だったのだろう。ぼくには、わかっているつもりだった。


午後、あの少年たちの姿は減っていた。

サッカーのボールの音も、響かなくなってきた。

でも、例の小柄な男の子は、ひとりでグラウンドを走っていた。

汗まみれで、頬を赤くしながら、何度も、何度も。


木陰には、きれいな髪の少女がいた。

腕を膝に抱えて、口元を押さえ、泣いていた。

声を殺して、でも肩は震えていた。


ぼくの葉が一枚、ふたりの間に落ちた。

それに気づいたのは、小柄な男の子だった。

そっとその葉を拾って、じっと見つめたまま、何も言わずに、また走り出した。


秋の風は、記憶を呼び起こす。

見えない傷に触れて、乾いた涙を引き戻す。

でも同時に、優しさも運んでくる。

傷が風にさらされて、ようやく癒えることもある。


夕暮れ、あの青年がまた現れた。

彼は、手紙を持っていなかった。

代わりに持っていたのは、小さな花束。

しゃがんで、ぼくの根元にそっと置いた。


「ありがとう」とだけ、彼は言った。

それは、誰に対する言葉だったのか。

もうここにいない人か、それとも、ぼく自身に向けられたものか。

ぼくはただ、風に揺れながら、その言葉を抱きしめた。


秋は、終わりと始まりの季節。

枯れるものもあれば、芽を秘めた種もある。

ぼくの足元には、いくつもの記憶が重なり合って、静かに眠っている。

ありがとう。



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『枝越しの季節 ―冬―』


冬が来た。

風は冷たく鋭く、空は高く、音は少なくなる。

ぼくの枝は葉をすべて落とし、ただ、空に向かって手を伸ばすだけ。

それでも、そこには確かに、春への準備が息づいている。


朝、霜が降りた地面を踏んで、ひとりの女の子が歩いてきた。

初めて見る子だった。

大きなマフラーに顔をうずめて、赤い鼻をすすりながら、ぼくの根元に立ち止まる。


彼女は手袋を外し、凍えるような指で幹に触れた。

「……寒いね」

その声は震えていて、涙に似た音が混ざっていた。

でも、しばらくそうしていると、指先が落ち着いたように動かなくなった。

まるで、ぼくの中に何かを探すように。


その日から、彼女は毎朝やってくるようになった。

何もせず、ただ少しの時間をぼくの前で過ごす。

ぼくは何もできないけれど、彼女の時間の中に確かに存在していると感じられた。


昼、グラウンドはもう誰もいない。

あの小柄な男の子も、あのきれいな髪の少女も姿を見せなくなった。

でも、ぼくの根元に折れた枝がひとつ、そっと置かれていた。

小さな紙が結ばれていた。


「見てたんでしょう、全部。だから、ありがとう。」


その文字は不器用で、にじんでいて、でもまっすぐだった。

ぼくの幹の奥に、その言葉がしみ込んでいくのがわかった。

見ていたよ。

知っていたよ。

ちゃんと、覚えてるよ。


夕暮れには、雪がちらついた。

公園は白く染まり、音はほとんど消えた。

ぼくの影も、やがて雪に埋もれていった。


夜、ふと気づくと――あの老夫婦のベンチに、彼がいた。

ひとりで、毛布を膝にかけて。

星空を仰ぎながら、静かに目を閉じていた。


その横に、風が連れてきたのか、一枚の葉が落ちていた。

秋に散ったはずの葉が、まだ残っていたなんて。

それは、まるで彼女が戻ってきたようで、ぼくの枝がわずかに震えた。


冬は、すべてが終わるように見えて、じつは始まりの季節。

命は地中で静かに息をひそめ、やがて来る春の準備をしている。

ぼくもまた、そうしている。

次の季節を迎えるために、眠るように、立ち続けている。


静かで、優しくて、少し寂しい季節。

だけど、ぼくの幹には、たくさんの言葉と涙と笑顔が、静かに宿っている。


そして、また春が来る。

すべてを見てきたぼくは、また何も語らず、枝を伸ばすだろう。



---
















―春―


「今年も咲きましたね、桜」

「うん。ここの木は毎年、俺たちを覚えててくれるみたいだ」


公園のベンチ。毎年同じ季節に、同じ場所に、ふたりで座る。

スカーフの色を褒められるのがうれしくて、私は春が好きになった。

あなたが隣にいるだけで、風までやわらかくなる気がした。

あなたが私の手をそっと包んでくれるから、冷たい空気も少し好きになった。


「来年もここで、木の下で、またお花見しましょうね」

「当たり前だろ。お前がいなきゃ、花なんて見えやしない」


あの木が、枝を揺らしていた。まるで笑っているように。


―夏―


陽射しがまぶしい日も、ふたりなら大丈夫だった。

木陰に入ると、まるで空気が変わる。

緑の香りと、セミの声と、遠くで響く子どもたちの笑い声。

それが、私たちにとっての「夏」だった。


「今日は少し、風が強いですね」

「昔は風が吹くと、お前の帽子がよく飛ばされた」

「ふふ、追いかけてくれたじゃない、あの頃」

「今は……俺の方が、お前を追いかけてばかりだ」


夕暮れになると、風がやさしくなって、ふたりの会話も静かになる。

沈黙すら、心地よかった。

木の葉が、私たちの頭上で揺れていた。


―秋―


私は来られなかった日があった。

体が思うように動かなくて、ベッドの上から空を眺めた。

あなたが「行ってくるよ」と出ていったとき、私は知ってた。

たぶん、あの木に会いに行くのだと。


「一緒に来れなかったけど……ちゃんと見ててくれるかな」

私がいない秋を、あの木はきっと、覚えていてくれる。

あなたがひとりで座るその姿も、ちゃんと見ていてくれる。


―冬―


もう、私はここには来られない。

けれど、あなたは来てくれた。

同じベンチ、同じ場所、同じ木の下。

雪がちらつく中で、あなたがじっと空を見上げている。


木の根元に、春に拾った葉をこっそり置いておいたこと――

あなたは気づいてくれただろうか。

風に乗って、私の声が届くといいな。


「来年も、そこにいてね」

「私、ちゃんと見てるから」


そう、木の下でまた会いましょう。

たとえ姿がなくても、あの木は覚えていてくれる。

私たちの季節を、私たちの言葉を。


~~~~~~~~~~~~~~ Fin~~~~~~~~~~~~~~~



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