第一幕 少女、神の手に堕ちる

1-1


 少女はずっと一人だった。物心つくころには親はおらず、身寄りのない子どもたちを集めている老婦の家でまりをしていた。

 その老婦に名前はなかった。彼女は子どもたちに自らをただ『おばあさん』と呼ばせる一方で、名すら持たなかった少女を『』と名付けてくれたのだった。

 同じ家に住む子どもたちと遊んでいたときもあったが、老婦が死んだたんかりそめの安息は終わりを告げる。それまで同じかまの飯を食らっていた仲間たちは、いっしゅんぬすんだしょくりょううばう敵になってしまった。

 盗んで、げて、盗んで、逃げて。危ない目に何度もいながら、すんでのところで逃

のがれ続けたのは幸運――あるいは、少女の悪運の強さによるものだったのだろうか。

 ある冬のこと。

 たちによる食糧と縄張りの争いに、ついに敗北した小夜は、みちばたにあえなくたおれることになる。最後にまともに何か食べてから、一体どれくらいっただろうか。それすら遠いおく彼方かなた、思い出せやしなかった。

 呼吸をするたび、寒さで肺がきりきりと痛む。だけど、痛みのおかげで空腹がまぎれるなぁ、なんてぼんやり思った。

 ぼろきれを巻いただけの細いあしこごえ、やがて感覚は消えていく。時折道を通る人は、小夜を目に入れないように足早に過ぎるか、ぶつを見るかのようなさげすみの目を向けるかのどちらかだった。


(ここで、終わりかな)


 冷たい風がほおでる。死を受け入れ、意識が遠のいたしゅんかん、またぼそぼそとした声と複数の足音が近づいてくるのを感じた。せっかく寒さも痛みもにぶくなってきたというのに、永遠の安息への予感をさまたげられてしまった。

 いとわしく思った小夜は、うっすら目を開ける。すると数人の中年男性たちが、小夜をじろじろと見下ろし、何やら話し合っているようだった。


ぎたないが……器量は悪くないか」


 中でもいっとう派手ながいとうまとい、くちひげたくわえた小太りの男がらす。男が手にしていたつえによって、どうのあたりがつんつんとえんりょかれる。小夜は昔、ねずみがいを木の棒で突いたことがあるのを思い出した。興味本位であったが、死んでいたとはいえきっとその鼠も不快な思いをしたことだろう。悪かったな、なんていまさらに反省をしてまたまぶたを閉じる。


「ふむ、このむすめにしよう」


 何やら声が聞こえたが、もはや頭上の議論などどうでも良かった。身体からだがどうにも重たくて、小夜はそのまま意識を手放したのだった。

 次に目を覚ましたとき、小夜はたたみの上に転がされているようだった。


「起きたか? ふん、よくねむっていたものだな」


 半身を起こしたところで、男の声が聞こえた。道の上、杖でつついてきた小太りの中年男だ。じろじろとしつけな視線が向けられる。


「私はこの村の村長、しょうぞうという。たびはお前を娘として、我が家にむかれてやることにした。みすぼらしい孤児には身に余る光栄だろう」

(村長? 娘?)


 とつぜんの言葉に混乱して何も言えずにいると、村長と名乗った男の背後から、ひょっこりと小さな女の子が顔を出した。


「お父様! この子が、お姉様になるの?」

「そうだ、おと


 乙羽と呼ばれたれんな少女が、じゃに笑う。再びこちらに視線をもどした正造は、おのれじゅうあごを見せつけるように持ち上げ、おうへいたずねてくる。


「娘、名はあるのか?」


 名を持たない孤児はめずらしくない。少し迷って、老婦がつけてくれた名前を口にする。


「名前は、小夜……です。あの、ありがとう、ございます……?」


 正しい礼の仕方など知らなかったから、とりあえずぺこりと頭を下げた。

 こうしてよく分からないまま義父となった正造は、見下すように小夜をいちべつし、部屋から出ていったのだった。

 あたえられた食事は残り物。正造たちとぜんを共にすることは許されず、かといって使用人たちと食べるわけでもない。具などほとんど入っていないしるものと、冷え切って固くなった麦飯少々を、部屋のすみで一人もくもくと食べる毎日だった。

 与えられた部屋は屋根裏部屋の。四角い窓はあったものの、顔を出すとが高いとおこられるため、もっぱら夏の夜以外は閉め切っていた。

 与えられる衣服は乙羽のお下がり。彼女がきたものや、ほつれた古いそでなどが年にいくか与えられたが、小夜よりいくばかりもたけの低い乙羽の衣服は、もちろんたけなど合ったためしがなかった。

 そうに裏で雑用を押し付けられるのだってにちじょうはんだった。村長の正造と、その妻であるやすが虫のどころが悪い日には、八つ当たりでなぐられることだってあった。それでも前の生活に比べたら、衣食住があるだけ格段にましだと思っていた。だから小夜は、しきでどんなあつかいを受けようと気にすることはなかった。一応は義理の両親となった彼らに、多少の恩義を感じていたくらいだっだ。

 ねんれいは自分でも分からなかったために、大体の背格好から便べんじょう、乙羽の二つ上ということになった。

 小夜が十六になった日のこと。

 初めて正造たちと同じ部屋に呼ばれ、初めて同じ内容のごうしゃな夕食を出される。こんな機会は今までになく、湯気がのぼる膳に小夜はすぐに夢中になった。


(だけど、変なの。何で急に、こんなこと……?)


 げんに思いながらも食事をたんのうしたのち、無表情の女中に別室へ連れていかれる。うながされるまま座ると、これまでは自分で無造作にはさみを入れていたぼさぼさのくろかみが、女中の手によって切り整えられていった。

 そればかりかしょうまでほどこされ、丈の合った美しい着物まで着せられる。今まで見向きもしなかったというのに、突然身なりを整えさせられるのだろう。小夜は首をかしげる。

 しかしいくら尋ねても、無愛想な女中は答えない。

 やがてみがげられた小夜の前に、正造が現れる。小夜を目にした彼は満足そうにひげを撫でながら、いやらしく笑った。小夜はこのとき初めて、正造が笑うところを見たのだった。


「――やっと、お前の使い時が来た」

(使い時……?)


 ついてくるよう促された先のしきでは、着物の上からでも分かる三段腹をした男がどっしりと座っていた。正造はその男に向かって、両手をにぎにぎとさせる。


「お待たせいたしました、ごん様!」


 正造は口髭を生やした小太りの男だが、一方その男――権兵衛と呼ばれた男は、正造よりさらにでっぷりと肥えた、がまがえるのような男だった。うすかみは撫で付けられ、はだ

てかてかとあぶらぎっている。としの頃は正造より少し上、初老近くだろう。

 正造は小夜を前に突き出す。


「こちらが娘の小夜でして、へへ、本日で十六になります……こら、何をぼさっと立っている! こちらのお方はこのあたり一帯を治めるご領主、権兵衛様だぞ! 早う礼をせんか!」

「さ、小夜です」


 慣れない長いすそらないよう気にしながら、何とかおをする。突然見知らぬ男の前に連れてこられ、何が何だか分からなかった。

 領主だというその男は、頭の頂点からつま先まで何度も、小夜をじろじろとねぶるようにながめてきた。本能的なけんかんを覚え、さぁっとうぶが逆立つ。


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