第5話 天使との対決 前編

 空に太陽が浮かんでいる。いや、あるいは、太陽から地球が浮かんでいる。

 審堂ルカは微笑んでいた。アベルはオフィスに向かう道中で天使に出くわし、急遽戦うこととなっていたことに、笑みを浮かべていた。

 天使の突発的な裁きは、本当に唐突に始まる。空から舞い降りた天使達は人々の中から罪深い魂を選別して、裁きを下そうと光を硬質化させた武器を持つ。そうして、罪の想い魂としてアベルは見初められ、相対した。

『アベル、聞こえる? 天使の裁きが始まっているけど』

 アベルの腕時計型のアタッチメントからホログラムが浮かび上がる。仕事用のスマートウォッチとして配給されたそれは最高責任者であるラザロからの受信に自動応対するようになっている。今は返答ができる状態だから、ワンコールで応じる。

「聞こえています、今交戦を開始するところです」

『そう。じゃあ分かるわね。ユディトと合流するまで血は使わないこと』

「はい」

 端的なやり取りで通話は切れる。目の前におわすのは白い翼を持つ天使様。聖なる光の輪を頭上にかざした、神の美しき創造物。

「貴方、汚らわしいですね」

 天使が口を開く。アベルは腰元に提げたナイフを抜き、「喋る天使か」と呟いて、一気に駆け出した。一方でルカは、そんなアベルから数歩後ろに立って二者の決着を見守るようにゆらゆらと揺れている。まるでぐらぐらと不安定な天秤が如く、二人の運命を視ている。

 アベルは無言だった。一瞬の間に距離を詰めてナイフを振るう。しかしその刃は天使の体を包み込むように前へとせり出た翼に触れただけだった。羽がひらり、数枚落ちると同時に、天使は翼の合間から瞳を見せてアベルに問いかけた。

「あれを守りながら戦うおつもりですか?」

 あれ、とルカを指さして、天使は上空へと羽ばたく。手に持った光はきらきらと小さな粒となって、それから一気に広がった。弾幕となった光の弾丸はすさまじい勢いでルカとアベルの方へとまっすぐに向かっていく。

 アベルは自らに向かってきた光の弾丸をナイフで弾きながらその角度を整える。弾丸の雨が地面に黒点のような焦げを作っていき、アベルはそれが自らの足元に向かぬよう丁寧に弾く。

ルカの方にちらりと視線を向けると、ルカは避けるような動きをせず、だがその手元にはガベルを握っている。ルカがそのガベルを軽く振ると光の弾丸はルカに届く寸前でそれは霧散し、まるでガベルがルカのことを護る見えない壁でも貼っているかのように見えた。品定めをするように天使を見上げると、退屈そうに眉を下げていた。

「全く。なってないねぇ」

「ああ。中級の一番下……パワーズだな」

アベルのスーツはナイフと同じく特別な素材でできており、聖なる力を弾く糸が編み込まれている。悪魔の力で対抗するということを拒絶するアベルにはとっておきの装備だ。

 それを見抜けていない様子。応用の一切ない無機質な軌道の攻撃。中級階級の最下位の天使だとアベルとルカは断定した。しかしそんな天使でもさすがにルカの異質さには気が付いたようで、「貴方……何者……?」と伏せった目のまま戸惑いを見せる。

 アベルはその隙をついて打ち込み式のフックを使い宙へと舞いだした。その背後に回り込み、翼の根元を狙ってナイフを振り下ろす。人型の天使の最も脆い部分であり、光の輪のエネルギー消耗の激しい箇所だ。

 天使は翼を切り落とされた影響で光の輪がチカリと輝いて、それからその輝度が一気に沈む。エネルギーの補給をされる前にと、アベルはぐわりと脚を振り回して天使の背中を蹴り飛ばした。天使は地面に墜落し、アベルはその上に着地して天使の首を掻き切る。

 強く広がる百合の花の香り。甘い香りにアベルは顔をしかめて、それでも攻撃の手を止めない。修復されていくそばからナイフを振り下ろす。光が物質と変わりながら翼として広がろうとした途端を切りつけてエネルギーを使わせる。一対一ならばこれでしばらくすれば終了するが、天使が単独行動をするのはまれだ。ほかの天使もこの天使の危険を察知してか、アベルの罪の重さを見てか上空から現れてきては光を硬質化させた武器を手に取る。

「ルカ、手を貸せ!」

「手を貸すって、具体的には?」

戦闘中にも関わらずルカはのんびりとした様子だ。

「俺を護れ! 天使の邪魔をしろ!」

「──承知した」

 ルカはガベルを軽く一振りした。黒い粒子がガベルの軌道上に広がって散らばり、煙幕のようなほの暗い半透明の灰色が拡散された。その灰色の粒に触れた天使はぴたりと動きを止めて、各々が顔を見合わせていたりとこちらにはわからない何らかの手段で意思の疎通をしている。

「女、何者?」

「女、危険。優先して排除」

 カタコトの日本語が発声される。アベルが相手している一騎の、パワーズの天使より下位の天使だったらしい。そしてその発声内容はルカを優先するというものだ。

「おやおや……」

 困ったような笑みを浮かべながらも、愉しさを隠し切れない声音だった。ルカは自らの撒いた霧の中に駆けて、近寄ってきた天使を捌く。ルカの手にはガベルが握られているだけだが、そのガベルの頭頂部からは先が一切見えない漆黒の刃のようなものが伸びていた。闇の剣とも呼べそうなそれを片手で軽々と振り回し、ルカは天使たちを切り伏せって払っていく。

アベルの相手していた天使がエネルギー切れによって光の粒子となりながら消えると、アベルは周囲に漂う強すぎる百合の香りに思わず鼻をつまむ。どんなにいい香りでも、濃くなれば鼻が曲がるものであるのだ。

「うっ……すごいにおいだ……」

「同意……っていうか、ルカちゃん天使だよね? なにあの黒い剣!」

 向かわせている、と言われていたユディトが猫の姿で塀の上から現れる。

 アベルと並んで二人で、舞うように剣を振るっていたルカを見るとルカはすぐにユディトの存在に気が付く。「あっ、仔猫くん」なんて愉快気な声がしたら、パッと黒い霧は晴れてしまった。

「じゃ、あとは二人でよろしく」

 ルカはにこやかに笑い、二人の後ろへ向かおうと歩み寄ってくる。その背後にぬうっと逆光になった影。

「バカ! 油断を──」

「しつこいなぁ……」

 するな、とアベルが叫ぶより先に、ルカの足元から伸びた影が背後の天使の首を貫く槍を出した。真っ黒な、光を吸い込みさえするその色はまさに闇の色。

 しかし、天使の頭上の輪の光は健在だ。

「……アベルくん、こいつ、たぶんドミニオン。使わないと勝てないよ。……血」

 ルカは静かな声でそう警告を発すると、「じゃ、改めて二人でがんばってねぇ」と、のらりくらり、穏やかな声を発してパッと二人よりも後方に立った。どうやら、ほんとにもう直接的に暴れるつもりはないらしい。

「ドミニオンってことは、スローンズの一個下?」

「ああ。上級一歩手前……とも言える」

 アベルは身構えた。ナイフをスッと手のひらに当てて、血で濡らすために切る。

「行くぞ!」

 アベルが走り出すと同時に、天使は黒い槍から解放される。天使は槍から解放されると、すぐにその口を開いた。あの槍には口の動きさえも封じる力があったらしい。ルカが敵に回ったら、本当に末恐ろしいだろう。

「貴様! なぜ人間の味方をしている!? 天使だろう!?」

「よそ見してんじゃねぇ!」

 アベルのナイフを仰け反って躱すと、天使はアベルに向けて拳を叩きつけて打ち上げる。アベルが目を見開いてがは、と息を吐くと、天使はユディト越しにルカを睨む。ルカは「さぁ? なんでだろうね?」と、質問返しをするという悪質な態度を見せる。ユディトは「ルカちゃん下がって!」と合図すると同時に、影のように黒い色をした獅子がユディトにより……正確には、彼が契約するパイモンにより召喚された。

「アベくんをキャッチして!」

 ユディトの命令に獅子は従う。落ちてくるアベルのクッションとなるように、壁を蹴り上がりながらアベルを背に乗せて地に降りる。

「大丈夫?」

「なんとかな……」

 アベルの返答にユディトは安堵のため息をついて、すぐに天使を睨む。

 天使はアベル達越しにルカを見たが、ルカは全く意に介さない。それどころか天使であることがバレてしまえば、にやりと笑みを浮かべながら天使の法服へと変身した。翼を広げて近くの建物のバルコニーまで飛び、その柵に腰かける。その手元には天秤とガベル。その姿勢はもう、この「戦いには間接的にしか関わらない」と宣言したも同義だ。

 天使はその青い瞳を丸くさせると、次には強くアベル達を睨んだ。こちらの存在が何らかの悪影響を及ぼしていると思ったようで、殺意が増したのがわかる。アベルは獅子の背から降りると改めてナイフに自らの血を滴らせる。その様子を見ながら、天使は声を張り上げた。

「主の眠りを終わらせるため、私たちは人間を裁く! 信仰を取り戻す!」

「ふん、信仰が足りなくて死んだなら、裁きなんか下したって意味なんかねぇよ!」

 死にたくなくてこびへつらう人間も存在はする。だがアベルにとってそれは人間としての尊厳の敗北だと考えている。裁きで脅して得る信仰になんの神聖さがある? ある意味では、聖なるものが何であるのかをよく知っているが故の考えだろう。

「貴様……愚弄したな!」

 死んだ、という言葉に天使は過剰に反応した。光の粒子を集めるとそれを槍の形へと変形させてアベルを貫こうとその腕を突き出す。アベルはそれを躱し、伸びてきた槍をナイフで切断する。槍は両断され、切り離された先端は穢れを浴びて消滅する。

 神聖な刃は穢れた刃で打ち消すどころか、穢れで染め返すことができる。失血をしなければならないというデメリットがあるが、優位性がある。その優位性こそが人間が唯一天使に対抗するための手段だ。

「アベくん! いつも通りサポートすっから、好きに暴れまわって!」

「言われなくても!」

 ユディトは黒い獅子に「アベルのサポート、よろしくね」と囁いて、魔導書の写しとされる書物を取り出した。ぺらりとページを捲り、人のどの言語ともつかぬ発声をすると天使の周囲を取り囲むように闇の精霊が現れる。

 天使は光の槍の形状を変化させ、今度は両刃の剣へ。自分の周囲に現れた闇の精霊を切り払って遠ざけてからアベルへと向き直る。

「我が名はノモス。罪深き魂に裁きを執行する者。貴様の名を告げよ」

 最近は喋る天使が増えたもんだ。そう思いながらアベルは返事をした。

「夜狩アベル。お前を殺す者だ」

 偽名同士の名乗り合いをしたあと、二人はほとんど同時に動き出した。アベルは横に動き、ノモスはそれを読んでいたとでも言うように横向きに剣に振るう。アベルは自身の胴体を切り裂かんとするその刃を防ぐために反射的にナイフを当てて、光を散らしながら弾いた。

 聖なる力の圧縮率が高い。そう思った途端、力はより硬度を増してアベルを打ち払うために振るわれる。アベルは舌打ちをした。このまま打ち合っていても意味がない。

 スーツの袖をまくり、包帯の上から、包帯ごと切り裂くように思い切り腕を切った。より濃い血液がナイフに触れて、ナイフの強度が増す。この強固な穢れが触れたら天使にとっては溜まったものではないだろう。しかし、その隙に光の刃がアベルに振り下ろされる。だがアベルはひるまなかった。アベルに触れるかと思われた刃はそれよりも前に、闇色の獅子が触れて、アベルを庇った。

「助かるぜ」

 アベルは獅子の背に足を乗せると、獅子は前へと駆け出す。ノモスは手のひらをアベルに向けて光の粒子を広げる。避けるための、翼の羽ばたきでアベルの四肢が痺れ始める。アベルはナイフを握り、大きく振りかぶってノモスに向けてナイフを投げた。ノモスの肩口にナイフが刺さると、やつは呻き声を漏らす。

「チッ! 急所は外したか……!」

 光の粒子に触れ続けていると、手足の痺れが強くなる。アベルが獅子のたてがみを掴むと、獅子がその場から離れさせてくれる。

「ぐお、ウオオオ……っ!!」

 ノモスの呻きは、身悶えるような仕草へと変わる。穢れがやつの体を侵食して広がっていく。ナイフを抜けば収まるそれをノモスは悶えるせいで引き抜くことができない。やつの光の輪が、激しく明滅を繰り返している。

「おおー、やるねぇ」

 二人が優位を取っているさまを、ルカが微笑んで見守る。彼女はにこやかに戦況を見守っているが、その手の上で揺れる天秤は──。

 ノモスが震えながら体を大きくふり回すと、ナイフがずるりと抜けて地面に落ちる。カツン、カラン、軽い音だが、与えたダメージは大きい。

「貴様ァ……!」

 憎しみを込めたような鋭い目がアベルを射抜く。ノモスはどうやらまだ身動きが取れないようで、傷口を抑えながら羽ばたく。傷口を抑える手のひらから光があふれ、その傷口を塞ごうと治癒の力を巡らせている。

「おっと、休ませないよ!」

 ユディトがそう声を張ると同時に、闇の精霊がけたたましく楽器を鳴らし始めた。楽隊の精霊たちの鳴らす音は、天使の持つ聖なる力に対して阻害の効果を持つ。楽団の音楽がノモスの回復を阻害するが、ノモスはそれを振り払うように光の剣を振るって闇の精霊を切り伏せた。一刀両断、精霊たちは分断されて、ユディトの体がびくりと跳ねた。その隙に、アベルはノモスの視界から外れるために死角へと潜り込む。

 地面に落とされたナイフを拾いあげて強く握り直す。一気に背後から接近すれば、その漏れ出る殺意にノモスは空高くへと上昇していく。空中戦ともなると天使と人間とじゃ分が悪い。しかしそれは普通の人間が相手だったならばの話。

 アベルの着用するスーツは頭のてっぺんからつま先の一点に至るまで特別製だ。科学の力を集合させた様々な仕掛けが施されており、通常の人間の身体能力とは比べ物にならない力を発揮する。

 少し前は悪魔との契約に頼らずこのスーツを着用した人間のみの部隊も存在したというが、悪魔の力の方がより十全に天使の力と渡り合えると判明した近々では悪魔の力と併用こそすれどこのスーツのみで戦おうとする人間なんてめったに存在しない。

 そのめったに存在しない人間の一人がアベルだった。アベルは自身が持つ、血にぬれると神聖を殺すことに特化したナイフを一本の武器として扱い、天使と戦っている。

 息を殺しての接近だったが避けられた。殺意をあふれ出しすぎていたかと舌を打ったアベルのそばにユディトが半獣の姿で駆け寄る。

「アベくん、全力出すのはいいけど、まだまだ天使来てるよ! 大丈夫なの?」

「まだ平気だ。それより、ほかに来てるなら早くこいつを殺さないと厄介なことになるだろ」

 アベルの腕からはぼたぼたと血液の塊が滴る。天使に言わせてみれば穢れた血であるそれに、ノモスは顔をしかめて他の天使に「おい」と呼びかける。

「あいつを殺せ! あの罪深き魂を浄化なされば、神もお喜びになる!」

「承知!」

 上空を、まるで魚の群れを見つけたかのように取り囲んで円を描いて飛ぶ天使たちは各々の光の武器を携えて飛来する。地面に空いてしまう穴にもお構いなしに、弾道を描くミサイルのように勢いづけて落ちてくる。

「うひゃあっ、ヤバいってこれ!」

 ユディトは悲鳴混じりに魔導書から闇の精霊を召喚するが、召喚した精霊はすぐに天使たちによって粛清される。闇の獅子も二人の人間を乗せて攻撃を受けないように逃げるのに必死だ。

「部下も一気に消すならあいつを殺すしかないだろ」

 ちらりとノモスを睨むと、ノモスは上空で高笑いをしながらアベルとユディトを見下ろしている。勝ったと思い込んでいるのだろう、その耳障りな笑い声にアベルは心底からの侮蔑と共に足元に力を込めた。

「空に逃げたからって勝ちだと思い込むなんて浅はかなやつだな。……ブースト・オン!」

 革靴の形をしたそれから『声紋認証完了。ブーストを使用します』と合成音声が続いてくる。アベルは靴底のスイッチに体重をかけて、バンッと大きな音をたてるとビル壁を蹴りながら高く上昇し、最後に空気を蹴ってノモスの眼前に迫った。ノモスは腕を広げ光でできた障壁を自らとアベルの間に浮かび上がらせたが、アベルのナイフはそれすら突き破る。ガラスのような破片が散らばり落ちる。

 無理やり叩き割ってガードがなくなった。

「ブースト・オン!」

 アベルが再び口に出すと、その足による強烈な蹴りがノモスの体を捕らえた。ノモスの体にかかっている浮力とアベルの装備による力の競り合いの末、アベルのナイフがノモスの羽ばたく翼に近づいた。それから翼を逃がそうとしたノモスの浮力が負ける。バランスを崩したノモスの身体は地面に向けて真っ逆さまに落ちるが、その寸前で光の粒子となって一度ばらける。

 再構築されたノモスの体は自由落下の最中だったアベルのすぐそばに現れる。

「……くっ!」

 アベルは再度そばに現れたノモスの体を蹴って避けようとするが、足を踏み抜かせた瞬間にそこは流体のようにすり抜ける。どうやら、相手もこちらを舐めてかかるのは辞めたらしい。

「捉えたぞ、人間」

 ノモスはアベルの脚を掴むと、そのままビル壁に向かって振り回すように投げつける。コンクリートの壁に背を打ち付け、なんとか頭は庇ったものの全身に強い痛みが走ってアベルはナイフを取り落とす。

「アベくんっ!」

 ユディトの叫ぶ声がぼんやりと聞こえる。

 どれだけたくさんの化学技術で強固に身を固めても、肉体は生身の人間だ。天使の力に対抗しうる能力は悪魔の力のみである。その悔しさが、アベルの人間のみの力で抗おうとする力が儚いものだと思い知らされる。

 だが、それでも、悪魔と契約をしようとは思わなかった。思えなかった。

 ノモスは落ちかけたアベルの首根っこを捕まえ、再びビル壁に打ち付けさせる。今度は頭を強く打ち、アベルは脳が揺れたような感覚でぐらりとめまいをおこした。

「貴様ほどの魂を捧げれば、神もさぞお喜びになるだろう」

「アベくんを放せ……っ!このォ!!」

 ユディトの指示で闇の獅子がノモスの脚に噛みついた。しかし、ノモスは全身にまとうその光を強めて闇の獅子をたやすく振り払った。ユディトは闇の獅子が時間を稼いでいる間に、アベルのナイフを手に取って思考を巡らせる。

 首を掴まれてアベルは動けない。首にかけられたノモスの大きな手をがりがりと必死に引っかきながら藻掻くがノモスはびくともしない。アベルの手のひらから垂れた血がノモスの手を穢すと、ノモスは額に青筋を立ててアベルの首を握りこむ手に力を込めた。

「穢れた血を私に触れさせたな……!」

 ノモスは怒りを強くあらわにし、壁を蹴ってでも逃れようとしたアベルの首を強く締め付けた。

「が、ァ……ッ! はっ、あぐぅ……!」

「アベくんを放せっての、このクソ天使!」

 ユディトはアベルのナイフを大きく振りかぶって投げるが、アベルのナイフはノモスの脚に届く前に落下する。ユディトの筋力では届かず、ユディトは歯ぎしりをして二人の様子を見守るほかなかった。ユディトの瞳が悔しさに歪むのを見て、“彼女”は小突くように、軽やかに天秤を叩く。

「──さて、そろそろ私の出番かな?」

 ルカの囁くような声は、やけにはっきりと聞こえた。

「なに……?」

 思わぬ人物の干渉に、ノモスは声のした方へ振り返って戸惑いを見せた。その手に籠っていた力が緩んだのを見謀らってアベルはノモスの手を振り払った。

「しまった……っ」

「どけっ!クソ野郎!」

 アベルはノモスにもう一度足を打ち付けた。今度はノモスもそれを受け流す変身ができなかったようで、人体でいうみぞおちの辺りを強く蹴り飛ばされてアベルから引きはがされる。アベルは再びの自由落下をするが、今度はユディトの闇の獅子が再びアベルを受け止めて地上へと降り立った。

「アベくん、ナイフ!」

 ユディトは先ほど自分が投げて落としたアベルのナイフをアベルに手渡すべく駆け寄って、アベルはしっかりとそれを受け取る。

「ああ、ありがとう」

 二人のやりとりを見ていたノモスは、その声を低くさせて言葉を発する。

「……天使殺し、貴様も厄介だが、その後ろの猫も随分と厄介な真似をしてくれる」

「そうだね。私も初めて二人のコンビネーションを見たけど……嫉妬しちゃいそうなほどだ。きみたちの連携能力は」

 しばらく口を閉ざしていたルカの言葉に、負傷したアベルよりも先にユディトがツッコむように声を被せる。

「もうっ! ルカちゃんはどっちの味方なの!?」

「無論。アベルくんの味方さ」

ルカは腰かけていたバルコニーからカシャン、と軽い音を立てて飛び立つと手に持った天秤を傾けさせた。ノモスは自分よりも上級の天使が自分に敵意を向けているという事実に焦りを覚えたのか、今になって「あ、貴方様はどうして人間に肩入れを!?」と、動揺した様子を見せ始める。ルカはその問いに「さあ?」とくすくすと笑みを浮かべながら返す。

 そうして天秤を傾けると、急にノモスは飛ぶことができなくなり地面に伏せることとなってしまう。ノモスは四肢をじたばたと藻掻かせる。まるで先ほどまでノモスに押さえつけられていたアベルのようだった。

 アベルはユディトと闇の獅子に支えられてなんとか立っている状態だったが、ルカの行動へは「待て……! そいつは俺が殺す……!!」と強気な態度を見せたが、ルカにすぐさまに「その状態ははたして万全ときみは言える?」と目を細めた笑みを向けられて、すっかり言い返せず押し黙る。

「私の愛しいアベルくんを負傷させた罪は重いぞ?」

 ノモスの必死さを嘲笑うように、せせら笑うように持ち上げられた声は嗜虐を楽しむような邪悪さがあった。

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