六 偉大な作家の瞳は夜さりの湖より深く

 まかせろ──と、男は笑った。


 しかし、状況はどう見ても絶体絶命である。

 新世界派の世話役・あいの言葉を、大言壮語に違いないと思ったのだろう。闇の文字を使う敵の操觚者そうこしゃは、腕を組んで微動だにしなかった。


 本郷真虎ほんごうまさとら──作家を志す者であれば、誰でも一度は耳にするであろう名。


 冷たいとも、重いとも、暗いとも。どれとも近くてどれとも違う。

 偉大な作家の持つ黒い瞳は、夜の湖面のような底の知れない闇を湛えていた。



「おーい、早く煙草くれよー」



 敵の威圧をものともしない藍がせっつく。

 八雲は懐に手を入れようとして、はたと気づいた。


「おや、しまった。そういえばペンがありません。誰か筆記用具を持っていますか」

「ふふふ、僕だけ持っていたんだけれど、さっきインク切れたよ~」

十里じゅうり君、得意げに言いましたね」


 受け答えは余裕そうに聞こえるが、すでに十里たちは床一面広がった闇に胸まで飲まれている。


「──というわけで、藍。残念ですが」

「根性見せろよ、ひ弱坊主」


 あきらめた素振りはもちろん冗談だ。しかし、藍に煽り返されて八雲は表情を変えないままむっと唇を結んだ。


 床一面い広がる文字の闇。

 沈んだコウ、茜、十里の三人は、存外冷静に自分たちの様子を実況している。


「足冷てー」

「下は水だね。さっき言ってた浅草四区の瓢箪ひょうたん池かなぁ」

「別の場所と繋げる力なのかもしれない。それなら呼吸が続けば助かりそうな気もするけれど、沈む速度が嫌な感じに遅いんだよね~。繋がる前に溺れ死んじゃいそう」


 時間の猶予はない。ふう、と八雲は静かな息を吐いた。


 行灯あんどん部屋に閉じ込められていたとき、足の縄を切るために形容化した短刀を手に持つ。音もなく、刃を右の手首にすべらせた。

 滴り落ちた濃い血は、地下室の暗さのせいで闇を孕んだように赤黒く艶めいた。


「ぎゃー! ぶちょー、切りすぎ!!」

「紅ちゃん、落ち着いて。多分あのくらいの量がないと、藍さんの要望に応えられないから」


 自身の血で、虚空に文字を書く。

 『朝日』と綴られた血文字が、火のくすぶった口付の煙草を形作る。吸いかけではなく紙煙草のイメージが現れた結果だ。


「お、夏目漱石先生ご愛煙の『朝日』か。銘柄は文句ないが、なんで半分燃えてんだ。お前はねぇ、表裏一体だか知らんがいつも言葉の裏でよけいなこと考えすぎなの。だから思考に引っ張られて形容化が下手なわけ」

「こんなときまで説教はお断りです。次は何を?」

「火器だったらなんでもいいよ」


 藍は文字の煙草を受け取ると、ようやく吸えたとばかりに口から煙を吐いた。


「火縄銃でいいですか。長篠の戦で使われたものを文献の絵図で見ました」

「そりゃ何百年前の銃だよ! まあ、八雲だし仕方ねえか……。白玉だったら英吉利いぎりす製の最新型マシンガンとか出してくるんだがな」

「あの子のレヴェルを求められても困ります」

「白玉が強いのは無邪気で他意がないからだよ。あれはあれで心配だが」


 ふたたび八雲が文字を書く。

 全長は約四尺、飾り気のない木目の銃身。織田信長が合戦で大量投入したといわれる和銃だ。


「あと、鉛の弾丸。できるだけたくさん」

「時々花火を混ぜておきましょうか」

「お前本当にやるだろ。絶対やめろよ!」

八雲わたしはやりませんよ。化鳥かちょうならやっていたでしょうが」


 藍が筋肉質の腕をまっすぐに伸ばし、銃を掲げる。

 周囲には何十もの『弾』の字が浮かびあがっていた。煙草で火縄に着火だけして、時間が迫っていると思えないほどゆったりと煙草を味わっている。


──と、傍目には見えていた。



 前振りはなかった。

 突然乾いた発砲音が地下室に轟き、裸の電気灯が割れて破片が飛び散った。



「ぐっ……」



 嗚咽を漏らしたのは、黒菊四天王の金木かなぎうれいだ。

 八雲たちが動き出したので背後で密かに大蛇を形容化していたが、藍は眼で確認することもなく後ろ手で銃口を向け、憂の真上にあった電気灯を撃ったのだ。


 弾が貫通して破片が飛ぶまで──いや、その後も、誰も藍の動きを目で捕らえることはできなかった。


「火縄銃なんて、一度発砲すれば次が長いだろ。装填する時間は取らせない……。他の奴らだけでも……」


 風を切るようにペンを空中に引き、さらに蛇を呼び出す。

 上限の八体が出揃い、ぞわぞわと文字の池に入っていく。大蛇はすでに首下まで闇に浸かっている三人のほうへ這っていった。


 次の瞬間、連続した破裂音と、硝子の割れるけたたましい音が響いた。地下を揺らす振動で大蛇の動きが怯み、散っていく。


「残念。八雲の文字は意味通りじゃないし、銃の知識が正確でもないからな。弾がありゃ連射すんだよ。金木憂、お前は形容化うまいな。蛇がちゃんと危機を察して逃げる。本能が備わってる証拠だ」


 白煙が地下室に充満する。

 数十箇所に吊るされていた電気灯は藍の発射した弾に貫かれ、次々に砕け散っていった。


「文字の力で無限自動装填連射火縄銃。気持ちい~」

「藍ちゃんの阿呆アホー! 電気消したらこっちも見えねーじゃん!! 真っ暗闇で溺れるの怖えんだけどー!」


 紅が叫んだとおり、窓のない地下は今や完全なる闇に包まれている。


「番犬娘、闇の消し方、知ってるか?」

「は!? 何の話だよ!」

「ありきたりだがな、同じ色で塗り潰すってことだ」


 真っ暗であたりは何も見えない。

 だが、闇の文字で作られた池は消え、紅は何事もなかったように床に放り出されていた。


「──あれ、いつの間にか床がある!? おーい、茜とジュリィも無事か?」

「大丈夫~。でも、少し気分悪いなぁ。回転木馬からいきなり振り落とされた感じ」

「ちょっと浮いて、ぐらついたね。でも平気だよ」


 あとのふたりの声も確認すると、藍はいたずらっぽく言った。


「なんだ、まじで当たってたのか。この地下室は異様に電気灯が多かったし、大方、能力の発動条件に関わるんだろうなって思ってたぜ。大先生、影と同じで光がないと、あんたの力は存在できない。完全な闇の中では、闇の文字は混ざって溶けちまうんだな」

「大方であんなに自信満々だったのですか、あなたは」


 八雲のつっこみは流された。暗闇の中で、大作家はいまだ無言だった。



「……」



 敵の動く衣擦れの音と気配を敏感に察して、藍が釘を刺す。


「おっと、明かりは出すなよ。夜の戦は慣れっこでねぇ。見えなくても場所と距離は覚えてる。能力を無効化するなんて回りくどいことしなくても、本当はあんたらを一発で撃ち抜くくらいできるんだぜ」

「戦に慣れっこの僧侶ってなんだよ……何者なんだよ……。俺は造兵ぞうひょうじゃないし、こんな処理室で死ぬのは勘弁……」


 憂のぼやく声が聞こえる。

 闘いが始まってから一言も喋ることのなかった『闇桜』の刻印を持つ者、本郷真虎ほんごうまさとらがついに口を開いた。


「……憂、引き揚げだ」

「えっ!? 先生、待って……! いたた……」


 どこかに体をぶつけながら、憂が室内を走る音が聞こえる。

 数十秒後、敵の気配が完全に去った。


「全員無事ですか」


 八雲が『蛍火』の字であたりを照らす。

 床にへたり込んでいる紅と十里が口々に言った。


「すげー疲れた……。全身びしょ濡れ……。あと腹減った……」

「大門を出て少し離れた空き地に自働車じどうしゃを停めてあるけれど、濡れたままは嫌だから着替えたいなぁ」

「夜も更けました。タカオ邸に帰るのは明日にして、今夜は宿を取りましょうか。医者も呼びたいですし、私は風呂に入りたいです。藍を取り戻したので作戦は終了ですね。お疲れ様でした」


 口調はそっけないが、八雲は慰労と感謝のこもった微笑みを仲間に向けた。


「そーだ、回転木馬で思い出した。浅草花屋敷、すぐそこだろ。行きたい! 獅子らいおん見たい! なー、藍ちゃん、明日連れてけよ!」

「あ、ぼくも観覧車に乗ってみたいな」


 赤髪姉弟にまとわりつかれ、藍は背丈の低い二人の額を軽くはたく。


「お前ら、その近くの池に浮かぶところだったんだぞ……。つーか、ボロボロのくせにわがままいうんじゃない」

「とりあえず、一難は去ったようですよ。たまにはいいではないですか」

「呑気な奴らだねぇ。敵が本気だしてきたが、どうすんだ。化鳥かちょう

「退くつもりはありません。もうすぐ、すべて終わりますから」


 吉原遊廓を後にして、五人は今夜の宿を探すことにした。

 もう夜もだいぶ更けたというのに、人のごった返す浅草は明るく、お祭りのような騒ぎである。

 道中、ふと茜が尋ねる。


「ねえ、さっきの本郷真虎ってそんなに有名な作家だっけ? ぼくは名前を聞いたことがあるくらい」


 その問いに、十里が説明を添える。


「本人の著作は、評価が高いけれど少ないからね。今は書き手を引退して弟子の育成や支援に回ってるんだよ。あの人の功績は、何人もの優れた小説家を世に送り出したことなんだ。真の目的はさっき藍ちゃんが言ってたように別なのかもしれないけれど、文学戦国時代といわれる現在の文壇を築いた功労者であることは間違いないよ。『文壇を統べる者』と呼ばれる由縁だね」


 茜は「へえ、すごい人なんだ」と敵を素直に讃えた。


「そういえば、名前の字面が虎丸さんに似てない? 本郷虎丸ほんごうとらまる本郷真虎ほんごうまさとら……」

「ん~? 言われてみたら一字違いだね。でも、無関係だと思うよ。虎丸くんの性格なら、あんな有名人と血縁があれば触れ回ってるんじゃないかな~。本郷先生に肉親がいる話は昔から聞かないし、だいたい顔が全然似てない」

「それもそっか。あの人すっごいダンデエだったもんね。はぁ、虎丸さん早く戻ってくればいいのに」


 何気ない茜の呟きを八雲は黙って聞き流し、睫毛を少し伏せた。


 十二階建ての凌雲閣りょううんかくが仰ぎ見える浅草六区の歓楽街へ。

 新世界派の作家と世話役、そしてメイドの五人は消えていった。



 ***



 その頃、八王子のタカオ邸──。

 少し足を引きずった大人しそうな少年が、嬉しそうに主人へ報告をしに走っていく。


あるじ、藍所長は無事だったようですよ。他のみんなもそのうち戻ってくると思います。よかったですね!」

「あら、わかるのですか?」


 女主人は自身の私室で、寝椅子カウチに座っていた。


「電話交換局に盗聴をしかけて、敵の通話を聞きました。泣きながら大阪にかけてましたよー。あ、うちにも電話とか電気、引きます? 自家発電所を設置すればできますよー」

「いいえ、結構よ。せっかくの静かな場所だから、邪魔がはいるのは嫌なの」


 あっさりと断られ、白玉は目に見えて落ち込んだ顔をする。

 その様子が痛ましく見えて、女主人は気遣うように目を細めた。


「わたくしの可愛い白玉、膝に来ますか?」


 白玉はぱっと表情を輝かせて頷き、隣に寝転んで膝に頭を乗せた。ぶ厚い眼鏡の奥に隠れていた大きな瞳を覗かせ、無邪気な声で言う。


「ぼく、ちゃんとわきまえてるので大丈夫です! 主にとって一番大切なのは八雲さんでぼくじゃない。でも、こうしてお仕えできるだけで幸せですから」


 心から嬉しそうに、主人を見上げた。


「白玉、そういうことでは……。でも、いいわ。たまにはちゃんとお眠りなさい」


 同人雑誌『新世界』の出資者、タカオ邸の女主人は静かに洋燈らんぷの火を弱めた。

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狂人ダイアリイ ─大正浪漫幻想活劇─ 芥生夢子 @azami_yumeko

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