五 この男がいるならば

 軋んだ音の正体は、木製の車椅子だった。

 召使いに車を押され、部屋の奥から現れたのは──。

 


蔵相ぞうしょう……菊小路きくこうじ鷹山ようざん!?」


 

 十里じゅうりはそこに座っている人物が誰なのかを理解し、愕然とした声をあげた。

 車椅子に腰を沈めているが、背筋は物差しのようにまっすぐ伸びている。身に纏った仕立てのいい三つ揃いのスーツには皺ひとつない。左目を黒い眼帯で覆った、隻眼の老人。

 

 蔵相──つまり大蔵省の長。

 政界でも屈指の権力を誇る、現・大蔵大臣である。


「どうして……。あなたのような御仁が、僕らの問題にどう関係あるというんです?」

 

 十里の問いかけと同時に、カチャリと鍵の開く音が鳴った。あいを檻から出すのはボスと会ってからだとうれいが譲らなかったので、ここまで檻ごと台車で運ばれていたのだ。

 藍はけだるそうに開いた鉄格子の奥から外に出ると、首と肩を回した。

 

「菊小路鷹山といやぁ、陸軍・海軍大臣、内相さえも子飼いにしているという……地方権力、警察、軍を掌中に収め、華族の出でもある。つまり、実質大日本帝国の支配者だ。閣僚にはめずらしく小説家出身だからな。まあ、関係あるっちゃあるんだろ」

 

 両脇を固める男女は『文壇を統べる者』と『花柳の女帝』。

 文壇、遊廓、そして政界。この場に帝国を牛耳る三名が顔を揃えているということだ。


 菊小路はその小柄な体躯からは想像もつかない重厚な声で、十里でも藍でもなく、八雲に向かって言った。

 

伊志川いしかわ……なんだったかね。作家活動は若気の至りといおうか、若い時分の遊びに過ぎなかった。おかげでこの国に隠されていた力を知ることができたのだから、無益でもなかったか。しかし、文壇を離れて随分経つ。吾輩わがはいは作家としての君個人については無知なんだ。君の生家はよく知っているがね」

 

 八雲は黙っていたが、菊小路はかまわず白い髭を撫でながら続けた。

 

「老体ながら忙しい身でね。単刀直入に云おう。君たちが勝手に持ち出して利用している文字の力──『幻想写本げんそうしゃほん』は、たかだか小説家ひとりを生き返らせるために使うような、眇眇わいしょうなものではないよ。幾人もの言語学者を使っても解明できなかった封印を、まさか小学校さえ出ていなかった童に解かれたのは大きな誤算だった」

 

 取り合う気はない、と。

 あえて主張するかのように前半は無視して、八雲は短く答えた。

 

「うちの白玉は天才の類なので」

 

 老人は、青年作家の言葉にぴくりとも反応しなかった。

 

第一次世界大戦欧州大戦のさなかだというのに、我が国の民は民本主義だのデモクラシイだのなんだのと、とんだお祭り騒ぎだ。だが、小説家風情に理解しろと言うつもりはない。娯楽芸術でもなんでも好きに活動するがいい」


 まるで興味のない瞳で八雲を眺め、また口を開く。


「此方の云いたいことは一点。吾輩の元にあるのは研究のため写された複製に過ぎない。君が握っている『幻想写本』の

 

 顔色ひとつ変えず、青年作家も応酬する。

 

「ほう。君の家とは代々懇意だ。家名に免じて一応理由を聞こうか」

「あなたは、私よりもっとろくでもないことに使うでしょうから。それに権威は嫌いです。作家なので」

 

 蔵相は、初めて感情を見せて高く笑った。

 

「ふ、政治屋と違って理屈をねないところは気に入ったよ。君は母親似かな」

「どうでしょう。父親を知らないので、比較できません」

「ああ、そうだったな。君も半分は下賤の血か」

「私の出自などどうでもいいです。『幻想写本』は題の通り、幻想を現世に写す力。ですが、あなたの持つ『造兵ぞうひょう』は現実そのものを改変する能力。人を──もっとも手軽な方法で人間を、造っているのでしょう?」


 横から十里が、八雲に問う。


「人を造る……? 逆じゃないの? あの男の固有能力は、七高しちたかや他のゴロツキみたいに、実在する人物を文字に書き換えるんだよね?」


 仲間の疑問に対し、青年は淡々とした口調を崩さず問い返した。


「十里君は、人間を『形容化』したことがありますか」

「ん~、僕は基本映像だからあまりやらないな。形容化を保つのがすごく疲れるし、どうせすぐ消えちゃうから」

「ええ。花魁の朝雲がそうだったように、一人出すにも短編小説くらいの文量は必要です。しかも、完全な架空から造るには白玉クラスの操觚者そうこしゃですら複雑な人格は持ちえず、洋館の使用人程度。人を創り出すのはそれだけ難しい。ですが──もし、人間を量産することが可能であれば」


 八雲の言わんとする話を理解して、十里はため息をつく。


「……ロクなことにはならなそうだね」

「はい。この力で無から人を創造するのはほぼ不可能なのです。だから、本物の人間を文字の体に書き換える。原稿さえ無事なら不死身であり、どんな命令でも遂行する最悪の傀儡かいらいとして──。菊小路鷹山の能力は、そういうものです」


 若き作家の指摘に、老いた蔵相はまたも笑いだした。


「この力にどれだけ価値があるか、君にはわかるか? 文字の兵は逃げず、怯まず、容赦せず、謀反も考えない。原稿を損なわない限り、何度でも蘇る。不死身で最強の軍隊だ。今はまだ人格部分の制御が甘いな。原本さえ手に入れば、吾輩の力はもっと完璧に近づくのだよ」


 召使いが音も立てず懐中時計を開いて主人に差し出す。菊小路は横目で確認して、退出の合図らしき仕草をした。


「さて、時間が押しているのでね。話の途中だが、吾輩はもう行くよ。君の顔が見れてよかった。噂通りの美しい青年だ。あとは本郷に任せる」

「本郷センセ、気張りなんし」

 

 花柳の女帝・胡蝶太夫こちょうたゆうはにっこりと微笑み、菊小路の後について去っていく。年嵩としかさにも関わらず、まだ若い新世界派の作家たちから見てもぞっとするほどの美貌と妖艶さである。

 

「……御意」

 

 大作家・本郷真虎ほんごうまさとらは、ごく簡潔に返事をした。漆黒の紋付羽織に袴を履き、厳格、静粛、いかにもそんな雰囲気を漂わせた五十男だ。

 

 この男の重い存在感が空気を凍らせていた。

 だが、それを軽々と破るように、藍が作家たちより一歩前に出て頭を掻きながら言った。

 

「本郷大先生。まさかアンタが、閣僚の犬だったとはなぁ。表向きは身寄りのない子供を弟子に取って作家に育てる人格者、なんて言われちゃいるが。黒幕がアンタら三人っつー理由がわかったぜ。菊小路の話を聞く限り、目的は自由にできる色街の私生児を操觚者と兵隊に育てて軍事利用ってとこか」

「……国を背負うあの御方の覚悟の重さは、お主らにはわからぬ。わかる必要もない」

 

 わかり合う気はない。小説家というより武士のような話し方の大作家ははっきりとそう言っていた。

 やれやれと、藍が肩をすくめる。


「俺らとする話はねえってことね」 

「お主らも、聞く耳など持っておらぬだろう。同人雑誌『新世界』の作家は元々だったはずだ。目的にそぐわぬかつての仲間を切り捨てたのだから」

 

 本郷の言葉に反応して、コウが激昂した。

 

「切り捨てたもなにも、裏切り者はアイツじゃねーか! アイツのせいでおれらはオマエらに追われてるんだぜ。ここに来てるなら今すぐに出せよ! この手でぶっ潰──」

「紅、やめて」

 

 肩を掴んだ十里の手を、紅は不機嫌に振り払おうとした。

 しかし。

 

「……わかった、ごめん」

 

 異国の血が混じった青年の色素の薄い瞳は、ひどくつらそうな色を映していた。紅は謝罪を口にし、それ以上は黙った。

 

永鷲見十里ながずみじゅうり君、こちら側に来たいならばいつでも歓迎するが」

「僕は、仲間を裏切るつもりはありません」

 

 本郷への十里の返答は、言葉に反して虚ろな声だった。

 

「うむ。やはり、話し合いなど無意味のようだ。若さ故とはいえ、お主らは火遊びが過ぎたな。消えるがいい」


 襟元が緩められ、大作家の右の肩がするりと肌蹴はだけた。

 刻まれた入れ墨が露出する。胸から背中にかけ、漆黒の桜が咲き乱れていた。

 

 筆が、虚空を駆ける。

 書かれた文字は『入水』。

 


それがしの刻印は『闇桜』。堕落を断罪し、真の光を照らす礎となる」


 

 石造りの床が、闇に染まった。

 

「な、体が床に沈む……。闇に溺れる……!?」

 

 十里が叫ぶ。暗闇は彼らの足を捕らえて離さなかった。

 

「お主らは明日の朝、揃って浅草公園の瓢箪ひょうたん池にでも浮かんでいることだろう。新聞にはなんと書かれるだろうか。酔った若者らの心中か。はたまた似非エセの文学に傾倒した無名作家らの集団ヒステリイか? どちらにしろ、つまらぬ事件だ。世間はすぐに忘れる」

 

 目を凝らすと、闇はすべて小さな文字でできていた。八雲と憂を除く作家たちが、底のない文字の池に沈んでいく。

 

「うひゃー。先生の技、おっかないなぁ……」

 

 そう漏らした憂の周囲は元の石床が丸く空いている。八雲だけは殺すつもりがないらしく、同じように闇を逃れていた。

 十里、紅、茜は文字の池に飲まれ、動けないまますでに腰まで沈んでいた。

 

 しかし、ただひとり。

 敵の意図とは別に、闇から逃れていた人物がいた。

 

「八雲、煙草出してくれよ。あと火も」

 

 状況に似つかわしくない呑気な声と台詞。

 いつのまに移動したのか、先ほどまで閉じ込められていた鉄の檻の上で、膝を開いて行儀悪くしゃがんでいる。

 

「──藍。そんなことを言っている場合ですか」

「ふざけんな、おれらは今まさに沈んでるっての!」

「たぶん、あと三分もあれば僕ら死ぬんだよね〜。悲しいねぇ」

「あーあ、まだ藍さんの半分も生きてないのになぁ」

 

 八雲の非難を皮切りに、仲間たちが次々に長髪の中年僧侶に向かって文句を浴びせ始めた。

 

 まさに生命の危機だというのに一気に緊張感が消えたのは、新世界派の部員たちに共通する、ある認識からだ。

 


──この男がいるなら大丈夫。


 

 それは若き作家たちの、世話係に対する信頼だった。

 

「いいから、いいから。こんなとこで死なせやしねえよ。お前らの大好きな所長さんにまかせときな」

 

 生臭坊主は人懐っこく白い歯を見せて、不敵に笑った。

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