四 死を祝福せよ、と鳥は啼いた
東京府南多摩郡八王子町、田町遊廓。
以前、虎丸が見知った後ろ姿を追って、屋根から
「──
乱れた三枚重ねの布団、空の
開け放された窓の外にのぞく早朝の健全さとまったく折り合わない、淫靡な空気が充満した室内だ。
高級妓楼の二階にある個室で、
八雲の正面、金色の屏風の前で足を崩して座っているのは、この場所にもっとも似つかわしくない恰好をした人物。
なんと、漆黒の法衣を着て、首から華美な袈裟をかけた僧侶である。
「よう、
僧だというのに顎ひげを剃り残し、髪も長い。長身で、衣の下に隠れた肉体はあきらかに鍛えられていた。年齢は八雲よりひと回り上、三十半ばを過ぎたくらいの男だ。
「誰もいなかったので
「どんだけ嫌なんだよ……」
「それと、現在の名は八雲です。何十回直せば覚えるのですか」
「はん? おまえなんかアレだ。坊主で十分だ」
聞く耳を持たない僧侶を前にして、八雲は大きくため息をついた。
「どう見ても、坊主はあなたのほうでしょう。完全に破戒僧ですが」
「
男は盃に残った酒を舐めたあと、
「おまえなんか昔っから世間知らずで
「ち、生臭坊主が」
藍から目を逸らして細く煙を吐きながら、普段の八雲では考えられない舌打ちを漏らす。
「久々に素が出たなぁ、おい」
「ただの冗談です。べつにこちらが偽物というわけでもありませんから。私はもう、かつてのような激しい感情を持ち合わせていません。一度死んで大部分が失われてしまった。結果、話し方や性格さえ変化しただけです」
「勘違いすんな。おまえの本質は何も変わっちゃいねえよ。昔も言っただろ、おまえは自分も他人も傷つけすぎる。今とまるっきり同じだ」
数秒の沈黙がふたりの間をよぎる。
八雲がペンを取り出すより一瞬速く、藍が拳銃を法衣の襟元から抜いた。
右腕を伸ばして銃口をまっすぐ八雲の顔に向けると、行動とはちぐはぐにどこか諭すような声色で語りかけた。
「おまえねぇ、死ぬ前に手紙を寄越してきただろ。自分がなんて書いたか、覚えてんのか?」
「はて、なんだったでしょう」
「わざわざ外国まで送ってきてたった一行、『死を祝福しろ』だとよ。そんで、本当に自死したと思ったら惨めたらしく生き返ってきやがって」
はあ、と先ほどの八雲より何倍も大きな息をついた。
「二度も驚かされたうえに意味不明だっつーの。天才作家・
「──小説を」
「あ?」
「失くした感情を取り戻して、未完で遺した小説の続きを書かなくてはならないのです」
「知ってるよ、おまえの目的は。じゃあ最初から死ぬな、馬鹿」
非難というよりは、呆れ果てた声だ。
それに対し八雲は、まるで叱られている子供が言い訳をするように、ぽつりぽつりと語った。
「あの頃、張りつめた感情は湧き出たそばからこぼれ落ち──私はまるで壊れた容れ物のようで、なにもかもが空虚でした。あなたの言うとおり、惨めにも偽りの
藍は八雲の発言を聞きながら、空いた片手で自分の後頭部を掻いた。
「そりゃあ生前は、ぎりぎりの精神状態で言葉を絞り出すような書き方をしてたからな。だが、どんな理由があろうと、最終的におまえは踏みとどまれなかった。敗北ですらない放棄だ。脱落しといて気軽に復活戦ができると思うなよ。死は本来、完全な終わりなんだ。禁忌の方法でゾンビみたいに蘇ったところで、周りへの影響はでかすぎて死ぬ前の状態には決して戻らねえぞ」
「心配しなくとも、目的を成したあとはちゃんと消えるつもりでいますよ」
カチリと撃鉄の音が鳴り、突きつけられた銃がはっきりと八雲の眉間を狙う。
「ほんっとに、何も見えちゃいねえなぁ。もうひとりじゃないだろ。おまえが持て余して憎んでいたその才能に惹かれて集まった奴らがいる。
八雲が黙る。
もうこれ以上言ってもしかたないと思ったのか、藍はようやく腕を下ろした。銃を胸元に戻そうと少し目を伏せたところで、スコーンと小気味よい音が室内に響いた。
「投げんな!!
じんじんと痛む額を手で抑えながら、藍が叫んだ。
「言い返せなくなってきましたし、よくよく考えたら色街で豪遊したあげく支払いができなくて家に帰れなくなった中年に説教されている状況が心外だったので。つい、手が滑りました」
ぷいっと横を向くと、ちょうど視線の先にあった窓の外で八雲は信じられないものを目撃した。
「拗ねんなよ!! つーか、なんだありゃ。知り合いか?」
なにやら、外が騒がしい。
向かい側にある妓楼の屋根の上から、黒コートを着た青年が慌てて降りていく。続いて下男たちの怒鳴り声と、追いかけて行く足音。朝の静かな遊廓に喧騒がこだましていた。
覚えのある青年の姿を目にした八雲は、小さく口を開けてあっけに取られていた。
「──知り合いといえばそうですが、見なかったことにしたい気分です」
「めずらしいタイプを傍に置いてんだな。おまえの周りに集まるのなんて、良くも悪くも狂信的っつーか危なげな部分に引き寄せられてきたような奴らばっかりなのに。一緒にいて眩しくならねえ?」
「さて、ね。事情を知れば、彼ならどう思いますかね。生き返ったものは仕方ないからこれから楽しく生きよう、なんて言いかねません。──いえ、そんな言葉、私の希望が過ぎますか」
八雲は畳に指をついてすっと立ち上がり、羽織の裾を整えてから言った。
「それでは、私は帰ります」
「いや、ちょっと待ってくれ。支払いは!?」
「一応来ただけで、迎えに来たわけではありませんよ。どのみち高額すぎて
「なんだよ。みんなの大好きな所長がいないと困るだろ!」
「露ほどにも困りませんね。所長が空席でも白玉の人形があればタカオ活版所は問題なく回りますし。だいたい、あなた十九、二十巻刊行の際もほとんどいなかったじゃありませんか」
信じられないとばかりに頭を左右に振って、藍は打ちひしがれたふりをする。
「はーあ、可愛げがないよなぁ。おまえも十里も拓海も、こましゃくれてて口が達者でちっとも可愛くない。紅は可愛げがなくても可愛いけど。おまえらは生意気なだけで背丈ばっかり成長しやがって。うちの部員には癒し系が白玉しかいねえよ」
「あなたを癒すのも癪なので、可愛げがなくて結構です。では」
「え、ほんとに帰る気か!? ちょっと待てって。大正のご時世でも平気で行方不明者が頻発するようなとこだぞ、遊廓は」
「そのような危ない場所で遊んでいるのが悪いのです。表通りで尺八を吹いて小銭稼ぎでもしてはどうです?」
「虚無僧じゃねえし。おい、化鳥! いや、八雲、まだ拗ねてんのか!? 俺が悪かったって!」
「では」
藍を見下ろすと、ふっと微笑んで八雲は妓楼を出ていった。
***
それから、およそ一週間後に──
文壇からの使者を名乗る二人組がタカオ邸を訪れた。
黒い菊の装飾が施された馬車が玄関前に停まっている。応接間の隣の部屋で、八雲と虎丸と紅の三人は来客の様子を窺っていた。
『壁に耳あり障子に目あり』
八雲の文字が書かれた壁は穴が開いたように向こう側が透けている。
「誰だよ、こいつら。ぶちょー知ってる?」
「さあ、まったく」
茜の案内で応接間に通された男女は並んでソファに座り、口元に余裕のある笑みを浮かべていた。
低いテーブルを挟んで向かいで客の対応をしているのは、十里と拓海である。
「
「遅い時間の訪問、堪忍しとおくれやすな。新世界派の書き手はんは筆が立ちはるさかい、皆さん存じ上げてます。そやけど、ウチら八来町さんにお目見えしとうて来たんどす。ご挨拶させてくれはらしまへんやろか」
紋の入った訪問着を着た狸顔の女が、西の言葉で言った。口調は柔らかいが、あなたたちでは相手にならないという意味をはっきりと含んだ高飛車な物言いだ。しかし、目の端では時折りちらちらと拓海を眺めている。
「大変残念ですが、彼は人嫌いなので客人とは会いませんよ。あなた方がどこの誰とも知れないことを除いてもね」
十里は十里で、にこやかに笑っているがきっぱり「帰れ」と言っている。
「隠者気取りとは、さすが隠された天才と名高い八来町八雲だ。新人の登竜門……若手作家なら喉から手が出るほど欲しいはずの『黒菊文学賞』さえ、平然と蹴るだけのことはある。余裕がおありになることで」
狐顔をした洋装の男は、繕うこともせず皮肉を飛ばした。
「日本では文学賞自体がまだ一般的じゃないですからね。今後主流になると思いますけれど、うちの部長には価値がわからなかっただけかもしれませんよ。で、どちら様でしたっけ。僕らも招き入れたからには主人に報告しないといけないので、名無しじゃ困ります」
十里の率直な問いかけに、二人組は笑って交互に名乗った。
「我らは文芸雑誌『
「ウチは
壁の向こう側では、聞き耳を立てている紅がいぶかしげに首をひねっていた。
「虎丸、あの女なんて言ってんだ? 関西訛りが強くていまいちわかんねー」
「アンタら無名のくせに調子乗んな、って言うてるわ。ジュリィさんとのいけず対決が見ものやなー」
「そんな語調だったか……?」
普段はストレートで含みのある言い方をしない十里だが、どうしても八雲を出したくないのだろう。いつになく攻撃的だ。
「八雲ぶちょー、文学賞がどうとか言ってるけど、覚えてる?」
「ええ、黒菊文学賞の話で思い出しました。たしか藤と海石榴は私とともに最終候補に挙がった新人作家の名です。筆名に姓がないのでまだ見習いなのでしょう。『黒菊』ではそれが慣習のはずなので」
「ってことは、文壇で大した権力を持ってるわけでもない下っ端かよ。心配して損した! 要は自分らのとこ主催の賞を部長に獲られて気に食わねーってことだよな。逆恨みの臭いがプンプンするぜ」
「私は実質新人ではないので、辞退しただけなのですが」
ああ──と十里が会話を繋いだので、盗み聞き中の三人は再び壁の向こうに視線を戻す。
「『黒菊』……か。なるほど。それで? 夕食の時間が迫ってるんで、そろそろ要点をどうぞ」
「用があったのは八来町にだ。出てこないというなら伝えておけ」
藤と名乗った男から笑みが消え、テーブルを握った拳で強く叩いた。
「新世界派が文壇で目を留められているのは、文学とは関係ないところで危険視されているからだ。文芸活動を利用して怪しげな行動をされるのは、真剣に作家を志す我々にとっては迷惑でしかない。世間から逃げ隠れし、厳正たる文学賞の授与も辞退するなど、まったく馬鹿にしている」
「……まぁ、その通り、かもしれないね」
「認めるのか?」
「もともと僕たちに正義があるわけじゃないからね。でも、まだ止まれない。今止まってしまったらすべてが無意味へと帰す、それだけさ。もう話し合いの余地はなさそうだ」
男はぎりっと歯を食いしばって、憤怒の目を向けた。
「開き直られては、こちらとて話にならない」
「らちあきまへんなぁ」
ぴりぴりと張り詰める空気の中、相手の挑発をかわし続けていた十里が急に戦意喪失したようにしたように見えて、隣でずっと沈黙していた拓海がついに口を開いた。
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