四 不思議な作家は微笑んだ

 幻想文学作家・八来町八雲やらいちょうやくもは同人雑誌『新世界』のページを開いて、そのままの格好でじっとして動かない。

 いったい何をしているのかと虎丸が障子の隙間から覗いていると、徐々に周囲の空気がざわつきはじめた。


 ずっと注視していたため、すぐには気づかなかった。

 だがゆっくりと、黒いもやのようなものが冊子から溢れ出していた。


「う、うぎゃー! 物の怪やぁ!」


 もやが明確に形を作ったとき、耐えられなくなった虎丸は叫んだ。

 

 その声に反応して八雲が振り返ると同時に、冊子から小さな生き物に似た何かが飛び出す。逃げるように跳ね、庭の隅に茂ったサザンカの垣根の陰に隠れた。


「おや、しまった。途中になってしまいました。あれではただの端切れです」


 表情が変わらないせいか、この男は特に焦った風にも見えない。かわりに虎丸が慌てふためいて八雲に詰め寄る。


「今の、なんなんですか! またタヌキっすか!? 動物を拾うなら最後まで面倒見たらなあかんのですよ、ちゃんとできるんですか!?」


 もっと常識では説明できないことを目撃した気もするが、人は頭で都合よく辻褄を合わせるものなのだ。野生のタヌキにエサでもやっていたのに違いないと無理やり納得し、庭石を足場にして裸足で地面に下りた。


「うーん、どこに隠れたんかな。ほら、アンナ・カレヱニナが縁側からめっちゃ威嚇してますよ。仲良くできるんですかねぇ」


 暗い影の落ちた垣根のあたりを覗こうと、虎丸がしゃがみ込む。もそもそと葉が鳴って、生き物の這いずるような音がした。


「虎丸君といいましたか。感情とはいったい、何だと思います?」


 唐突に、八雲が問うた。


「へ? なにかに対して湧いてくる気持ち、心の動き、かなぁ」


 ちょっと答えが素朴すぎたな、と虎丸はすぐさま反省する。もしかすると、文芸担当の編集者としてどれほど情緒豊かな人間なのか試された可能性がないとも限らない。


 が、杞憂であったようだ。八雲はすんなりと肯定した。


「そうです。そして感情は、目に見えません。たとえ誰かが、どんなに苦しんでいたとしても」


 羽織の袂から取り出したのは、艶のあるガラス製のインク壺とシンプルな装飾が施されたつけペンだ。


「感情が第三者にもはっきり『視える』としたら、声にしろ文字にしろ、言葉にしたときだけなのです」


 逃げ出した何かが、虎丸のすぐ足元まで戻ってきた。黒いもやのようなそれは、いくつもの小さな『文字』が溢れた塊であった。

 感情の塊が、憎しみの綴られた言葉が、狂おしそうにうごめいている。


「うえ、なんやこれ……。文字の集合体みたいな……」


 虎丸は思わず後ずさる。塊はとても小さいが、息が詰まるほどの感情が突風のように押し寄せてきて苦しくなった。

 どこか覚えのある感覚は、『狂人ダイアリイ』を読んだときとまったく同質の息苦しさなのだと気づいた。


「小説として書き起こすことによって、姿を与えられた感情です」

「与えられたって……他人事みたいやけど書いたのアンタですよね!?」


 何を言われても相変わらず無表情の八雲は、淡々とした口調で話を変えた。


「ときに虎丸君。あなた、見たところ腕っぷしが強そうですね。なにか武道でも?」

「あぁ、はい。ガキの頃から古武術……剣術と居合術やってますけど」


 この大正時代に古武術など古臭いと同級生から散々馬鹿にされてきたのだが、新しいもの嫌いで厳格な父親の方針で幼い頃から習わされていたのだ。

 武術自体は不良に絡まれたときも怯まずに済むため嫌いではなく、なんだかんだとこの歳になるまで稽古を続けてきた。しかし、粋な流行りもの好きの虎丸としてはあまり人に教えたくない特技なのである。


「それは助かります。にいる者を呼び出そうとしていたのですが、失敗してしまいましたので端切れを始末します。うちの武闘派であるコウには少し頼みにくい案件で、危険を承知でひとりで行っていたのです。刀の素材なら鋼ですね。つかは朴と梅花皮、紐でいいでしょう」

「コウ? さっきの子? あと刀がなんですって?」


 虎丸の質問はまるっと流し、悠長にインクの蓋を開けてペン先を浸し始める。瓶のふちで余分を落とすと、虎丸の手を取って甲のあたりに文字を書いた。


「文字には文字を。あなたも不慣れなことですし、簡単な単語でいいでしょう」



 臨 闘



 両手にそれぞれ一文字。書かれた文字が甲の少し上にふわっと浮かんでいる。


「なんこれ? どういう意味?」

「簡単に言えば、懸命に闘えってことです。あと刀ですね」


 今度は虚空にペンを走らせて、何かを書き始めた。



 鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼皮紐朴皮紐



 八雲の書いた文字は宙に留まり、冊子から飛び出た小さな集合体と同じようにざわりとうごめいていた。


「はい、どうぞ」

「どうぞって……言われても」

「握ってみてください」


 不可思議に浮かぶ文字の、柄と思われる部分を手に取ってみる。



──ちゃんと、重みも感触もある。間違いなく真剣の柄や。安っぽいやつやけど。



 文字を握りしめる、というのは実際目の前で起こっていても信じがたく、異様だ。

 妙に惹き込まれてじっと見つめていると、刀はやがて姿形を現して見た目も本物と区別がつかなくなった。


「私は『憎しみ』をしているので少々相手が荒っぽいですが、頑張ってくださいね」


 八雲が初めて薄く微笑んだ。

 しかし、虎丸はそれどころではない。発せられた台詞のほうが問題だ。


「え、オレ? あれを倒すってこと? オレが一人で倒すん? 八雲さんは闘わへんの?」

「私? どう見ても弱そうではないですか」

「まあ、たしかに……」


 目の前にいる色白で柳腰の男をあらめて眺めると、確かにこれではしかたがないと思えてきて虎丸はがっくりとうなだれる。


 文字の集合体はうずくまって動く気配はない。


「あーもう! とにかくぶった斬ればどうにかなるやろ!」


 と、切り替えが早く、基本的には度胸も据わっている虎丸は刀を構えて前に出た。


「いやー、でも足の裏が痛い痛い」


 なめらかな飛石の上を歩いているうちはよかったが、庭の大部分は砂利が敷き詰まっている。騒ぐ虎丸に再びペンを向けて、八雲が言った。


「世話が焼けますね。では、足も出してください」

「キャー! なんやねん、こしょばい! どんなプレエやこれ。……すんません、冗談ですわ。ゴミを見るような目やめて」


 足の裏にぼんやり浮かんだ文字は、『硬化』。


「おお、砂利のうえ歩いても痛なくなったで!」

「足でしたら『速』や『跳』に関連する文字も効果的です。他はもうありませんか?」

「あとは大丈夫ですわぁ。せやけど、なんもしてこーへん敵を斬るんは抵抗あんなぁ」

「完全ではないただの一部です。あなたの役目は弱らせるまで。あとはアンナが片づけますから」


 タヌキが?

 と虎丸は疑問に思うが、わからないことだらけの今は覚悟を決めて従うのみ。


 基本である上段の構えから、文字の集合体に向けて刀を一気に振り下ろす。

 見事に斬り込んだ切っ先に強く吸われるような感触があり、刀身全体が重くなる。同時に、物体が発する叫びのような感情が虎丸を包み始めた。


「ああ、飲まれないようにしてくださいね。他人の強い感情は伝染するのですよ」

「そういうことは、先に言ってぇ! ええい、こうなったら力技でいったるわ」


 溢れた文字の中に取り込まれそうな重い刀を、腕力で無理やりねじ伏せ、まっぷたつに割った。


 もやが霧散する前に、八雲がまた宙に字を書きながら呪文のような言葉を唱える。



 ──『憎悪』の操觚者そうこしゃ、八来町八雲の名において命ずる。悪業罰示式神アンナ・カレヱニナよ、文字に現れし人の憎悪を喰らえ。



 縁側から飛び出してきたタヌキのアンナ・カレヱニナが、虎丸の斬った塊に向かっていく。八雲の命令通り、まるで飢えた獣のように文字のもやを喰らい始めた。


「ヒィ、音がグロテスク!!」


 グシャ、パキといった生々しい咀嚼音を聞いて、虎丸は震えあがった。


「幻想怪奇文学の基本はグロテスクですよ。そうそう、幻想といえば、『暴夜アラビヤ物語』の新訳『アラビヤンナイト』が今年出版されましたが読みましたか?」


 たいして八雲は、世間話を始めるほどの余裕があるようだ。


「読みます、すぐ読みますぅ。不勉強ですんません。読むんでもう怖いのは勘弁してくださいよぉ」

「とりあえず終わりましたのでご安心を。お疲れ様でした」


 食べ終わったアンナは太り気味の体を揺らしながら戻ってくると、嬉しそうな鳴き声をあげて飼い主の懐に飛び込んだ。八雲が柔らかい毛を撫でる。


「あなたも、ご苦労様です。感情を回収しますね」


 アンナ・カレヱニナの吐く息がきらきらとした雪の結晶のように輝いて、白い入れ墨のような文字で『憎悪』と書かれた八雲の手のひらに吸い込まれていく。

 憎しみの最後の気配が消えようとしている。

 感情が消滅するまさにその瞬間、虎丸の耳に途切れ途切れの言葉が侵入してきた。



 憎んでも、憎んでも憎み足りない

 この身を焦がすほどに、この身を壊すほどに

 ……を憎んでいる俺が、……を殺すから、

 人の命も義も放り出して、


 狂気に身をやつそう



 ふっと横を向いた八雲が、気づいて声をかけてくる。


「おや、泣いているのですか」


 呆然と立ち尽くして、先ほどまで饒舌だったはずの虎丸は涙を流していた。


 虎丸自身も、よくわかっていないのだ。

 何故こんなに辛いのか。

 陽気な彼が決して体験したことのない、狂おしいほどの憎悪。

 他人の感情は伝染すると八雲は言ったが、こういうことなのかもしれない。


「『アラビヤンナイト』はペルシアの王が妻の不貞を知るところから始まります。女性不信が高じて処女と一夜を共にしては殺し続ける王に、家臣の娘は毎晩続きの気になるような面白い話を聞かせ、血塗れた憎悪の手から逃れて自らの命を繋ぐのです」


 まるで読み聞かせるように、八雲は今の状況と何の関係もなさそうな遠い異国の物語の冒頭を語った。


「明日以降となりますが、『狂人ダイアリイ』に書き起こした彼の憎しみともう一度対峙します。虎丸君、手伝っていただけますか?」

「……オレにできることなら。はっきり言って怖いの嫌いやし、オレにはなんの関係もない他人やけど。さっきの叫びを聞いたからにはこの主人公、どうしても助けたらなあかん気ィするんですわ」

「あなたは、優しいのですね」


 そう言って、不思議な作家はまた微笑んだ。


「べつに。大阪の人間は、人情を大事にしとるだけです。そんかわり手伝ったら謝礼に書き下ろし原稿ください。壮絶で、恐ろしいような苦しいような感情が湧いてくる文章やけど……オレ、八雲せんせの小説にめっちゃ惹かれるんです。危ない感じがするのに、それでも」


 虎丸は照れ隠しで素っ気なく言うと、星のない夜空を見上げた。白んだ空気は冷たく澄んで、秋の深まりを感じさせる。

 やがて月も、雲に隠れてしまった。

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