第28話 キャパオーバー

 いや、変な意味じゃない。断じて変な意味ではない。

 

 でも、普段は決して見ることのできない澄斗の弱い一面を目の当たりにしたとき、心の表面を羽で淡くくすぐられるような妙な感覚があった。


 きゅぅん……と胸の奥深く、初めての感覚だった。


 ひょっとすると、優越感のようなものもあったのかもしれない。

 あの澄斗が、僕が平気な雷に怯え、涙目になってひとり震えているのだから。


(ああ、そうだ。それで僕は……)


 頼りない澄斗の姿に庇護欲をそそられた僕は、幼子に話しかけるような気持ちで澄斗に声をかけたのだ。

 

 そのときのことを思い出したはいいが、果たして澄斗のように美しい思い出だろうか?

 

 澄斗にとっては、心細くなっていた自分を気遣ってくれた気のいい友人との思い出に違いない。

 でも僕は、親切心だけで澄斗に声をかけたわけじゃなかった……

 

 だんだん気まずくなってきた僕はごくりと息を呑み、澄斗の手の下から自らのそれを引っ張り抜こうとした。

 ……が、包み込まれるように手を握られ、抜け出すことができなかった。

 

(あ、あれ? なんで澄斗は僕の手を離してくれないんだ……!?)


 どうしよう。当時の僕の心情をきちんと説明すべきだろうか。

 いや、言わないほうがいいのか? 

 もし言えば、澄斗はやっぱり僕を嫌いになってしまう?

 

 ……それはいやだ。

 僕は、澄斗から向けられる甘やかな好意の心地よさを知ってしまった。

 このふわふわした気持ちがなくなって、またひとりになってしまうのは、いやだ。


 でも、でも……!


 混乱を極めた僕は、きつく目を閉じありのままを澄斗に伝えた。

  

「あの、それ!! 僕はそんな……優しい気持ちだけで澄斗に手を差し伸べたわけじゃなかったと思うんだ……! いつか言ったと思うけど、僕は小さい頃から澄斗のことが苦手だったし、妬ましいとさえ思っていて……!」

「わかってるよ。それでもいいんだ」

「……へ?」


 思いのほか優しい言葉が返ってきて、いっそう戸惑う。

 がばりと顔を上げると、まっすぐこちらを見つめる澄斗と至近距離で目が合った。


 その瞬間、ドクン! と心臓が大きく跳ね上がる。


 澄斗の視線に、これまでに目の当たりにしたことがないほどの熱量が込められているように感じて、視線を逸らすことができなかった。


「俺は嬉しかったんだ。家のことも、俺がどれだけ傷ついてるのかってことも、誰にも言えなかった。おちゃらけたふりをしてごまかしてたけど、俺はすごく孤独だったんだ。……でもあの日、郁也は泣きそうになってる俺を見つけてくれた。郁也がそのときなにを思っていたとしても、俺は確かに救われたんだよ」

「す、救われただなんて大袈裟だよ!! 僕はただ、いつも元気な澄斗が雷怖くて泣きそうになってる顔が可愛くて、もっとちゃんと見てやろうみたいなよこしまな気持ちで……っ!」

「……可愛くて?」


 今度は、澄斗の声に戸惑いが浮かぶ。


 ……ああ、僕はなんという失言をしてしまったのだろう。全身からさあっと血の気が引いた。


 澄斗は馬鹿にされたと思っただろうか。……いや、思ったに決まってる。


 せっかく孤独から救われたいい思い出の話してくれているのに、僕がそれをぶち壊している。

 言わなくていいことばかりペラペラ話してしまうところ、いい加減なんとかしなくては人生が詰んでしまう……


 だが澄斗は、「あはっ、あははははっ」と可笑しげに笑うばかりで怒るようなそぶりは見せない。


 しかも目尻に涙が浮かぶほど笑っている。僕は逆に怖くなってしまった。


「ご、ごめんよ。本当に僕は薄情で意地汚い人間なんだ……」

「なに言ってんだよ。可愛いなんて言われたの初めてだわ」

「そっ……そんなことないだろ。こんなにイケメンなんだ、小さい頃はあり得ないくらい可愛かったに決まってる」

「いや、本当の母親もかなり厳しい人だったし、物心ついてから可愛いなんて言われたこと一度もないからな。……ま、カッコいいとかは聞き飽きてるけど」

「それはそうだろうね……」

「だから、なんか変な感じ。このへん、すげーむずむずする」


 澄斗は涙を拭いながら屈託なく笑い、僕と繋いでいないほうの手で胸元をそっと押さえた。


「郁也がどんな下心で声をかけたのかはよーくわかったけど、それでも俺は、やっぱり嬉しかったんだよ」

「下心って言わないでくれ……」

「可愛いって字は、あいきって書くんだ。俺が可愛く見えたってことは、郁也の中に俺を慈しんでやろうって気持ちもあったのかもしんないし?」

「慈しむ……」


 それは確かにそうかもしれない。揶揄ってやろうという気持ちだけで、僕は声をかけたわけではなかった。


 僕はただ、小さくなって震えている澄斗を放っておけなかったのだ。


「……澄斗ってポジティブだな」

「そ? よく言われる」

「恩返しって、そういう意味だったのか……」

「そういうこと。郁也のおばさんには申し訳ないけど、俺はチャンスだと思った。また郁也に近づくきっかけができたからだ」


 澄斗はさらに深く指を絡めるように僕の手を握りしめ、小首を傾げて微笑んだ。


 その笑みはどこか妖艶な色気を漂わせていて……ぞくりと背筋に甘い刺激が走った。


「小六のときは失敗してたみたいだけど、俺はあのとき以上に、もっと郁也と仲良くなりたいと思ってるよ」

「へ……?」

「俺は郁也に救われもしたし、あのとき、郁也にめちゃくちゃときめかされた。

『手、繋いでてあげよっか』って囁いてきたときの郁也の顔、いつもとちがってて、なんかすげーエロくて、ドキドキした」

「……は、はぁ?」

「今喋っててわかったよ。俺を可愛いって思いながらあんなセリフ言ったからだったんだなーって」


 振り解こうにも振り解けない澄斗の手に、じわじわと熱がこもり始めている気がする。……いや、熱くなっているのは僕の手か。


 頬が熱いし、なんだか目の奥までじんじん熱い。

 澄斗の眼差しを受け止めているだけで心臓が騒がしく、全身にあり得ない速度で血が巡っている。


「そ、それはその、吊り橋効果的なものじゃないかな、きっと……」

「そんなことねーだろ。だって、今でも俺、郁也といるとドキドキするよ?」

「よ、余裕の顔で手を握りながら言うことじゃないだろ……っ! ぼ、僕は心臓が破裂しそうなのに……!!」

「へぇ? そーなの?」


 澄斗がさらに身を寄せてきて、顔がさらに近くなる。


 よく見ると、澄斗の頬もなんだか赤い。唇がいつもよりも赤みを帯びていて、ものすごく色っぽい。


 視線を逸らすこともできないまま浅い呼吸を繰り返す僕に、澄斗は内緒話をするように囁いた。

 

「郁也も俺に手を握られて、ドキドキしてくれてるってこと?」

「それはっ……ひ、人との接触に慣れてないから、仕方がなく……!」

「それでいいよ。俺以外の誰かに、こんなふうに触ってほしくない。俺にだけドキドキしててほしい」

「はっ、な、なに、なにを」

「……好きだよ、郁也」


 核心をつく澄斗の言葉に、ひときわ大きく心臓が跳ね上がった。


 真っ赤な顔で、開いた唇を小刻みに震わせることしかできない間抜けな僕の瞳を、澄斗は飽きる様子もなくじっと見つめて……


「っ……」


 柔らかな唇が、僕のそれに淡く触れた。


 それはほんの二、三秒で、あっという間のことだ。


 触れるか触れないかの淡い感触だというのに、澄斗の唇の熱さも、柔らかさも、吐息の温度さえもが一気に僕の感覚を甘く痺れさせて——……


「わっ!! 郁也!?」


 キャパオーバーで脳が焼き切れてしまったらしい。

 僕は、ソファにバタンと倒れてしまった。

 

  

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